32.グレイの怒り
【グレイ視点】
夜の石畳を、イリスを揺らさないようにしっかりと抱え、兵舎へ走った。
腕の中のイリスは、まだうわごとを言っている。
「……天使……」
その声が、耳にざわっと響く。
あの甘い香りのせいで、イリスの意識はまだ戻らない。
――法王め。
怒りが、じわりと広がる。
だが、それ以上に腹立たしいのは、自分自身だ。
イリスを、一人で行かせてしまった。
あの手紙を、事前に止められなかった。よく話を聞こうとしなかった。
怖がりのイリスが、いくらなんでもそんなことをするとは思わなかった。
俺の見込み違い。判断ミスだ。
――自分の無力さが、腹立たしい。
兵舎の門に着く。
見張りの兵士が、こちらを見て目を丸くした。
「副団長、どうなさいました……?」
俺は、無言で兵士を睨んだ。圧をかけたかもしれない。
「……どうぞ」
兵士が、慌てて道を開ける。
後ろから、レオとサイラスとルミナリアがついてくる。
ルミナリアは、きょろきょろと辺りを見回している。
「まあ、兵舎とは、こんなところなのですね」
無邪気な声が、妙に耳に障る。
いや、彼女は悪くない。俺の苛立ちが、そう感じさせるだけだ。
イリスの部屋に着いた。
扉を開け、中に入る。
俺は、イリスをベッドに横たわらせた。
呼吸は浅いまま。顔色も悪い。
――まだ、安心できない。
レオとサイラスも、部屋に入ってくる。
ルミナリアも、遠慮なく入ってきた。
「イリス様……」
ルミナリアが、ベッドに近づく。
「あら? イリス様、あまり具合がよろしくないのでは?」
ルミナリアが、首を傾げた。何を今ごろ言っているんだ。
「グレイ様が乱暴に運んだから?」
――っ。
俺の動きが、止まる。
無垢な瞳。疑いのない声。
そうなのかもしれない、とつい思ってしまう。
言葉が、喉につかえる。
「……」
「では、祈りましょう」
ルミナリアが、両手を組んだ。
静かに目を閉じる。
その瞬間、光の粒が溢れ出た。
金色の光が、イリスを包む。
柔らかく、温かい光。
イリスの顔から、苦しそうな色が消えていく。
呼吸が、ゆっくりと深くなった。
「……」
俺は、言葉を失った。
「さすが聖女。すげえ」
レオが、素直に感嘆の声を上げた。
「わたくし、祈りの聖女と呼ばれているそうです」
ルミナリアが、にこりと笑った。
「癒しは得意なのです。毎日何十人もの人に癒しをお送りするのが、わたくしのお役目なのです」
「働かせすぎだ……」
サイラスが、小さく言った。
「え?」
ルミナリアが、きょとんとする。
「いや、なんでもない」
その時――イリスが、目を開けた。
「……ん……」
ゆっくりと、まぶたが上がる。
視線が、ふらふらと動いて、ルミナリアの金髪に止まった。
「天使……?」
――またか。
俺の中で、何かが冷えた。
レオとサイラスも、明らかに落胆した顔をしている。
「イリス様!」
ルミナリアが、満面の笑みで言った。
「ルミナリアです。お友だちと一緒に、天使様にすぐに会えるところへ来たところです」
サイラスが、気まずそうに視線を逸らした。
俺は、イリスに向き直った。
「イリス」
低い声が、自然と出た。
刃のようだ。
イリスの目が、ゆっくりと俺を見た。
「……グレイ……?」
意識が、徐々にはっきりしてくる。
「あ、わたし……そうだ、ひとりで神殿へ……」
イリスの顔が、青ざめた。
自分のしたことを、思い出したのだ。
「おまえは薬草にやられて、意識がおかしくなってた」
「俺たちが助けた!」
レオが、大きな声で言った。
「イリス様! よかった!」
ルミナリアも、嬉しそうに言う。
イリスが、きょろきょろと辺りを見回した。
「ルミナリアまで……ここに……?」
驚きの声。
「それは今はどうでもいい」
俺は、横になっているイリスの腕を掴んだ。
がしっと。
イリスを起こして、ベッドの端に座らせる。
両腕を持って、面と向かった。
「え……?」
イリスが、戸惑いの声を上げる。
レオとサイラスが、圧に押されたように一歩下がった。
ルミナリアまで、何かを察したように口を閉じた。
俺は、イリスを見た。虹色の瞳に俺の銀の目が映る。強い光を放っている。
「おまえは、ひとりで神殿に行った」
自分で思うよりも、ずっと強い声が出た。
「……はい……」
「俺たちが、どんな気持ちだったか、わかるか」
「……」
イリスの目が、潤んだ。
「俺は、自分の無力さが腹立たしくて仕方ない」
「グレイのせいじゃない……」
「そんなに頼りないか。そんなに信頼できないか」
「……ごめんなさい」
イリスの声が、震えた。
「……ごめんなさい。ごめんなさい……」
涙が、頬を伝う。
「イリス」
「はい……」
俺が両腕を押さえているから、イリスは涙をふくこともできない。
泣かせてるだけじゃないか。
それでもイリスはうつむかず、俺から視線をそらさなかった。
そうだ。イリスはいつも、自分から逃げない。自分のしたことから逃げない。そういうやつだ。
父を奪われ、王都へ来て、目の色で見られても、やることをやってきた。
飛ぶ。鍛える。強くなる。
法王に狙われても、神殿へ行った。ひとりで。怖かっただろうに。
掴んだ腕が細くて、指に収まる。
「……無事で」 俺は大きく息を吐いた。「よかった」
イリスを抱きしめた。
思わず、だった。
考えるより先に、腕が動いていた。
「グレイ……」
イリスが、泣く。薄茶色の髪が小刻みに揺れる。こらえたような声がだんだんと大きくなった。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
しゃくりあげる。止まらない。
涙が、俺の肩を濡らす。
俺は、イリスをずっと抱きしめていた。
――父親を亡くしてから、イリスは泣いたことがあったのだろうか。
イリスの大泣きが、部屋に響く。
レオもサイラスも、ルミナリアも、黙っていた。
ただ、静かに見守っていた。
イリスの涙が、止まるまで。
俺は、ずっと抱きしめていた。




