29.法王セブリウス
法王セブリウスは、廊下の奥でわたしたちを見て、ゆっくりと口角を上げた。
笑みの形だけ整っていて、目の奥が動かない。
こちらへ歩いてくる。法衣の裾が床を撫で、石の上を滑る音が、やけに耳についた。
「イリス様……」
ねっとりとした声。
名前を呼ばれただけで、背中がこわばる。
「お父様のこと……存じております……」
法王は、わたしの前で止まった。距離が近い。香の匂いが薄くまとわりつく。
言葉は慰めの形をしているのに、確かめるみたいに言う。
「魔獣に命を……なんと……無念でしょう……」
わたしは俯いた。
視界の端で、グレイの肩が少し動いたのがわかった。止めるタイミングを測っているみたいに。
法王の手が、わたしの肩に置かれた。冷たい。指先の圧が、優しさではなく重りに近い。
「……天使様が復活なされば……魔獣が……減ります……」
法王の視線が、眼帯の上にぴたりと落ちる。布一枚の向こう側まで見抜こうとするみたいに。
「そなたのような悲劇を……二度と……」
父さん。
父さんを奪った、あの魔獣の歯と黒い血。
もう、あんなものを誰にも近づけたくない。その気持ちを、法王は最初から知っていて、そこに言葉を差し込んでくる。
「イリス」
グレイの声が落ちた。
腕を掴まれる。強くはないのに、迷いがない。
「行くぞ」
「あ……」
わたしの身体が一歩引かれ、肩の冷たさが離れる。
法王は、何も言わないまま微笑んでいた。追いかけてもいいのに、追いかけない。逃がしてやる、という顔。
兵団に戻って、宿舎の部屋。
椅子に座っても、肩に置かれた冷たさだけ残っていた。
法王の言葉が、何度も頭の中を回る。
――天使様が復活なされば魔獣が減ります。
覇王も、似たことを言っていた。
――天使には、魔獣と人を離しておける力がある。
もし、本当なら。
もし、父さんみたいな人がもう出ないなら。
それだけが、わたしの中で大きくなっていく。怖い、嫌だ、気味が悪い。そういう感覚を押し潰していくくらいに。
わたしは立ち上がった。机の引き出しを開けて紙を出す。
ペンを握る。指が震えて、先が紙に触れるたび、かすかに音がする。
――これは、勝手なことだ。
――でも、勝手でも、止めたくない。
呼吸を整えながら、書いた。
「レオ、サイラス、グレイへ。
わたしは、神殿に行きます。
天使の力で、魔獣を減らせるかもしれない。
怖いとか言ってる場合じゃない。
父さんみたいな人を、もう出したくない。
イリス」
置いた手紙が、部屋の明かりの下でやけに白い。
それを見たまま、眼帯を外し、鏡を見る。鏡の中で、左目だけがやけに冴えて見えた。
眼帯を付け直す。滑走靴を履く。
扉を開けると、夜明け前の空気が冷たい。王都の石畳はまだ眠っていて、音が響きやすい。
わたしは滑走靴を起動し、神殿へ向かった。
神殿は王都の中心にあった。
高い塔が空へ伸び、建物そのものが「ここは別の場所だ」と言っているみたいだった。
門の前に神官が立っていた。起きているというより、待っていた顔。
「虹色の瞳の者……イリス様ですね」
神官は深く頭を下げた。礼の形が綺麗すぎる。
「お待ちしておりました」
「え……?」
「法王様が、そろそろお見えになると」
門が開いた。軋む音が、夜の静けさに刺さる。
「どうぞ、中へ」
わたしは神殿の中へ入った。
廊下は静かだった。静かすぎる。
足音が自分のものじゃないみたいに響いて、勝手に背筋が伸びる。
「こちらです」
案内の神官は、こちらを振り返らない。
大きな扉の前で立ち止まり、短く言った。
「礼拝堂です。法王様が、お待ちです」
扉が開いた。
中は広い礼拝堂だった。天井が高く、ステンドグラスが淡い色を落としている。
優しい色のはずなのに、冷たい。光が“祈り”じゃなく“監視”みたいに床に貼りついていた。
祭壇の前に、法王セブリウスが立っていた。
「イリス様……よくぞお越しくださいました……」
ゆっくり振り返る。
その動きだけで、ここが法王の場所だとわかる。
「賢明な……ご判断です……」
わたしは礼拝堂へ足を踏み入れた。
その瞬間、横から明るい声が弾んだ。
「イリス様!」
振り向くと、少女が駆け寄ってきた。
足音が軽い。神殿の空気に似合わないくらい。
「わたくしはルミナリアです!」
豪奢な金髪。金色の左目。お人形みたいに整った顔立ち。
金の目は稀色――そのはずなのに、本人は気にしていないみたいだった。
「あ、イリス……です」
「知っています。虹色の瞳の方!」
ルミナリアは迷いなくわたしの手を取った。温かい。
ただ温かいだけで、怖さが少し引く。危ない。
「わたくし、イリス様のお手伝いをします!」
「え……?」
「天使様に会えるように。一緒に頑張りましょう」
疑うという動きが、最初から存在しない目。
信じることが得意で、それを強さだと思っている目。
「さすが……聖女……慈悲深い……」
法王の声が、礼拝堂に落ちた。褒め言葉なのに、体温がない。
“聖女”という肩書きを、鎖みたいに使っている音がする。
「聖女ルミナリア……」
法王が、ゆっくりと告げる。
「イリス様を……お部屋へ……」
「はい、法王様!」
返事が早い。笑顔も同じ速度で出る――ああ、これ、知ってる。
命令が優しさに聞こえる訓練を、ずっとしてきたみたいだった。
ルミナリアが、わたしの手を引いた。
「こちらです、イリス様」
通された客室は、綺麗だった。綺麗すぎた。
ベッドの皺がなく、机に埃がない。窓辺の花も、咲き方が作られている感じがする。
「ここが、イリス様のお部屋です」
ルミナリアは嬉しそうに言った。
誰かを迎えることが、自分の役目だと信じて疑わない声。
「ありがとう……」
「わたくし、イリス様とお話しできて、嬉しいです!」
手を握られる。小さな指が、ぎゅっと力を込めてくる。
「ずっと、お会いしたかったのです」
「え……?」
「虹色の瞳の方。天使様に選ばれた方」
ルミナリアの目が光る。
その光が、本人のものなのか、周りに植えつけられたものなのか、わたしにはまだわからない。
「わたくし、毎日、天使様の絵に祈っているのです」
「天使様の……絵?」
「ええ。見ますか?」
「うん……」
礼拝堂へ戻ると、法王はいなかった。
いたはずの気配だけ、残っている。
「こちらです」
ルミナリアが祭壇の奥を指差した。
壁に、大きな絵が飾られていた。
天使。男の人。
大きな白い翼。金色とも白金ともつかない髪。琥珀色や金色の混ざる瞳。
――ベーセの森の魔獣が化けた姿と、同じ。
心臓が、どくんと跳ねた。
左目の奥が、熱くなる。思い出せないのに、知っている。知らないはずなのに、身体が先に反応する。
絵の中の天使が、まるでこちらを見返しているように見えた。
「イリス様?」
ルミナリアが覗き込む。
「だ、大丈夫……」
大丈夫なはずがない。
目が離れない。離したくない。離したら、何かが戻らない気がする。
わたしが忘れているのは……この人?
「天使様は……とてもお美しいのです」
ルミナリアは絵を見上げて言った。
祈る声の中に、疲れがない。祈りが仕事になっていない。なっているのに、気づいていない。
「わたくし、毎日、天使様に祈るのです」
「ルミナリア……天使様に、会いたい?」
「ええ。とても」
目を輝かせて言う。
その輝きが、誰かのために使われ続けて、すり減っていくことを知らない。
「天使様に会えたら、みんな幸せになれます」
わたしは、ルミナリアを見た。
純粋な目。疑うことを知らない目。
前世の職場で、似た目を見たことがある。
その目が、誰かにとって都合のいい器になっているのが、わかった。
部屋に戻った。
「また来ますね!」
ルミナリアは笑って去っていった。足取りが軽いまま。
わたしはベッドに座った。
部屋には甘い香りが漂っていた。さっきより濃い。鼻の奥に、ふわ、と膜が張る。
「……いい匂い……」
お香。たぶん。
深く吸った覚えはないのに、胸の奥まで入り込んでくる。
これでよかったんだよね。そう心の中で呟いてみるけれど、父さんの声は、聞こえない。
頭が、ぼんやりする。
まぶたが重い。思考が、輪郭を失っていく。
だめ。寝ちゃだめ。
レオたちに……。
でも、指先が動かない。身体の重さが、ベッドに馴染んでいく。
視界の端で、窓の外の空が少し白み始めている気がした。
意識が遠のく。
わたしは、そのままベッドへ倒れこんだ。




