25.覇王の城
覇王の城が近づくにつれて、空気が変わった。
冷たい。音が吸われる。さっきまで耳に残っていたはずの気配が、すっと消える。
「妙だな」
グレイが小さく言った。
「魔獣の気配がない」
「さっきまで、あんなにいたのに」
レオは剣の柄に手を置いたまま、周囲を睨む。
生存者たちは「多すぎた」と言っていた。なのに、ここだけ空白みたいだ。
サイラスは何も言わず城を見上げている。肩のピピも、鳴かない。羽をすぼめて、首を縮めていた。
やがて、入口が見えた。
巨大な石の扉。表面には、紋様のようなものが刻まれている。文字にも見えるし、ただの模様にも見える。
「……開いている」
サイラスが言った。
扉はわずかに開いていた。細い隙間から、暗さだけが覗く。
「罠か?」
レオが身構える。
「閉める必要がないんだろう」
グレイは淡々としていた。
「入るのは止めない。出る方だけ選ぶ……そういう作りに見える」
グレイは剣の柄に親指をかけたまま、しばらく動かなかった。呼吸が一つ、静まる。
それから扉に手を掛け、ゆっくり押した。
石が擦れる重い音。扉が開いていく。
中は——予想と違った。
外は荒れた岩山みたいだったのに、内部は整っている。床は磨かれた石畳。壁には燭台が並び、青白い炎が揺れている。天井は高く、アーチ状の梁が滑らかに続いていた。
「……豪華だな」
レオがぼそっと言う。
「魔獣の巣にしては……」
サイラスの声にも、引っかかりがある。
装飾品は少ない。なのに、造りそのものが美しい。どこかの貴族の館みたいに、空間が整えられている。
「イリス」
グレイが振り返った。
「左目はどうだ。何か感じるか」
左目の熱は、ずっと引かない。城に入ってから、さらに強くなっている。
熱が指す方向がある。
「……奥です。奥に、何かいます」
「覇王か」
グレイが短く言う。
「わかりません……でも、います」
怖いのかどうかも、うまく言えない。ただ、足が勝手に向かう。行かないといけない、という圧だけがある。
レオが一瞬だけ、わたしを見る。赤い左目。迷いのない顔。
わたしは言葉の代わりに、グングニルを握り直した。
「行くぞ」
グレイが先頭に立つ。
廊下を進む。左右に部屋の扉が並ぶが、どれも閉ざされている。覗く気にもならない。通り過ぎるたびに、グレイが目で確認してくる。わたしは首を横に振る。
長い廊下の先に、別格の扉が見えた。
装飾が施され、重厚で、ここだけ空気が硬い。
ピピがサイラスの髪の中へ潜り、動かなくなった。
「あそこか……」
レオのつぶやきが、やけに響く。
扉の前に立つ。
グレイが剣を抜いた。扉に体を寄せ、そのまま押す。
驚くほど軽く、扉が開いた。
中は広間だった。
天井はさらに高い。シャンデリアみたいな器具が吊られ、青白い明かりで部屋全体が照らされている。
そして、奥に玉座があった。
玉座に、一人の男が座っていた。
男は、こちらを見ても動かない。ただ、じっと見ている。
漆黒の長い髪。黒いダイヤモンドみたいな瞳。整った顔立ち。年齢は二十代半ばに見える。黒いローブを纏い、覇王——と聞いて想像したものと違う。学者みたいに静かな佇まいだった。
あれがリディアの言っていた、黒い王?
髪色と輪郭のせいか、どこかサイラスと似た雰囲気がある。そう思った瞬間、左目の熱がさらに増した。
「……覇王か」
グレイが剣を下斜めに構える。
男は、ゆっくり立ち上がった。
「ようこそ」
声は穏やかだった。
「よく来た。虹色の瞳を持つ者よ」
男の視線が、まっすぐわたしに向いた。
足が一歩引ける。背中が硬くなる。
レオが息をのむ。
「イリス、目が……」
わたしは自分では見えない。けれど熱は増している。
サイラスが、淡々と事実だけを言った。
「……色が変わっている。落ち着きがない。見たことがないほどだ」
熱さが、外にも出ているらしい。
この人が——わたしが忘れている“誰か”なのか。
「あなたが……覇王なの?」
わたしは、声を出した。
「覇王、か」
男が小さく笑う。
「そう呼ばれている。だが、本当の名は違う」
「本当の名……?」
「ああ。だが今は、覇王でいい」
男が、こちらへ歩き出す。
レオとサイラスが、わたしの前に出た。
さらにその前へ、グレイが入る。剣先が上がる。
「動くな」
男は立ち止まった。
「敵意はない」
「嘘を言うな!」
レオが声を荒げる。
「お前が魔獣を操って、人々を襲わせてるんだろう!」
男は首を横に振った。
「違う」
「何が違う!」
レオが食い下がる。
「俺は魔獣を操ってなどいない。先ほどは、おまえたちのために、入口まわりだけ吹き飛ばしておいたがな」
男の声は揺れない。
「お前たちは、騙されている」
「騙されている?」
サイラスが眉を寄せた。
「魔獣は覇王の眷属だろう」
黒い瞳が、わたしたちを順に見る。最後に、またわたしへ戻る。
「眷属……人間が勝手にそう呼ぶだけだ」
「でも、魔獣が——」
レオが言いかける。
男は温度のない声で返した。
「魔獣は、この世に生まれてくるもの。人と同じだ」
「魔獣は人を襲って食べるじゃないか」
レオが噛みつく。
男は少し首を傾げる。
「人も獣や魚を襲って食べる。何が違う?」
レオの口が止まった。言いかけたまま、言葉が出ない。
グレイは剣先をわずかに下ろす。警戒は解かないまま、問いを置いた。
「魔獣も人も、同じだと?」
「同じ、とは言わない」
男は即答する。
「魔獣は、人を獲物とする生き物だ。人は、知恵を共有する。形のない想像の世界を、他者と共有できる。魔獣にはできない」
「ではなぜ、お前が魔獣を従えていると言われる」
サイラスが続けた。
「さあ。俺の知ったことではない」
男は淡々と言った。
「そういうことにしておくと都合がいい。面白い。そういう者たちが作った話だろう」
サイラスは引かなかった。
「さっき俺たちが『騙されている』と言った。何も知らないなら、そんな言い方はしない」
男の視線が、わたしからサイラスへ移る。
黒い瞳と、サイラスの青紫の左目がぶつかった。
サイラスの声が落ちる。
「俺たちは、誰に。何に。騙されている?」
男が、ふっと口元だけを動かした。
「お前は、俺と似ているな。どこかで繋がっているのだろう」
「どういう意味だ」
「そのままだ」
男は言い切る。
「お前も、嵐から生まれた末の者だ」
「嵐……建国神話か」
サイラスが言う。
「神話? ああ、そう呼ぶのだな」
男は静かに返した。
「だが、ただの事実だ」
言葉が積み上がるのに、地面が安定しない。
誰が嘘をついているのか。
何が真実なのか。
左目の熱だけが、答えを急かしてくるのに、輪郭がつかめない。




