20.帰還と報告
魔獣は、もう動かなかった。
わたしはその場に立ったまま、グングニルを握り直す。指がまだ落ち着かない。槍が重いわけじゃない。自分の中の何かが、まだ追いついていない。
倒した。刺した。
それだけが、頭の中で何度も鳴った。
「イリス」
呼ばれて、顔を上げる。
グレイがこちらへ来るところだった。腕を押さえている。歩き方はいつも通りなのに、腫れた色が目に刺さる。
「よくやった」
声は低い。褒めるというより、事実を置くみたいに。
「やり切ったな」
わたしは口を開ける。でも言葉が形にならない。代わりに、槍を握る手に力が入った。
「グレイ、腕……」
「まだ使える」
グレイは短く言って、サイラスを見る。
「サイラス。いけるか」
サイラスがすぐに前へ出た。杖を握る手が迷わない。
「やってみる」
「契約執行――治癒」
青白い色が、グレイの腕を覆う。皮膚の赤黒さが少しずつ薄くなっていくのが分かる。グレイは指を開いて、握り直した。確かめるみたいに、ゆっくり。
「十分だ」
グレイが頷く。
「助かった」
サイラスは頷いただけで引いた。目元も口元も変わらないのに、仕事を終えた空気だけが残る。
「レオも」
グレイが言う。
レオは壁にもたれて座っていた。左手のひらをかばうようにしているのに、目だけはこっちを追っている。
わたしが寄るより先に、レオが言った。
「イリス。怪我、ないか」
わたしは一瞬、返事が遅れた。自分の体のことより先に、あの瞬間が戻る。槍の軌道。閉じた目。前に出た背中。
「……わたしは大丈夫」
声が少し掠れた。
「レオこそ」
「平気」
レオはそう言ってから、苦い顔を一瞬だけ作った。痛みは消えてないはずなのに、わたしに見せる時間が短い。
サイラスがしゃがみ込む。
「手を出せ」
レオが左手を差し出す。サイラスが同じ呪を重ねる。
「契約執行――治癒」
腫れが引いていく。レオは指を開いたり閉じたりして、感覚を戻すみたいに息を吐いた。
「……助かった」
「動くな。まだ無理をするな」
サイラスの声は淡々としてるのに、言い切り方が強い。
「分かった分かった」
レオが笑った。笑い方だけは軽い。
グレイが洞窟の奥を一度見回す。
「回収するものは回収する。――イリス」
呼ばれて、わたしは背筋を伸ばす。
「その槍は、手放すな。今はな」
「……はい」
槍を握り直すと、さっきよりも手が安定した。グングニルが、わたしの迷いを気にしないみたいに静かだ。
「帰るぞ」
グレイが言った。
「ここは長居する場所じゃない」
⸻
洞窟を出ると、外の空気が違った。森の匂いが強くて、冷えているのに、胸が少しだけ通る。
空代わりの天井は、昼の明るさを失いかけていた。色の移ろいはある。でも、理由は分からないままでいい。今はそれどころじゃない。
街道へ戻るまで、四人の足音が続く。誰も余計なことを言わない。言えば崩れる気がした。
しばらくして、グレイがわたしの隣に並んだ。歩幅を合わせるのが、うまい。
「大丈夫か」
顔は前を向いたまま。
「……大丈夫、って言いたいけど」
わたしは喉の奥を整えて言う。
「まだ、手が落ち着かない」
「そうなる」
グレイは短く返す。
「最初は、誰でもな」
わたしはグレイの腕を見る。もう腫れは薄い。でも、その腕で庇ったことは消えない。
「わたしが――遅れたから」
言った途端、胸の中に石みたいなものが沈んだ。
グレイは否定しない。歩きながら、言葉を選ぶみたいに間を置く。
「怖かったんだろ」
それだけ言って、続けた。
「それでも次で、動いた。――そこが大事だ」
わたしは頷いた。頷くしかない。でも、頷いたことで少しだけ、息が通った。
「レオも」
グレイが言う。
「お前の前に出てたな」
少し離れたところで、レオがこちらを見てるのが分かった。目が合うと、レオはすぐ前を向く。照れ隠しみたいに。
サイラスは後ろで、何も言わない。だけど歩くテンポが乱れていない。静かなまま周囲を見張っている。
それぞれのやり方で、場を支えてる。
わたしだけが揺れてるみたいで、悔しくなる。……でも、揺れてるのに歩いてるのは、わたしだ。
「帰ったら報告だ」
グレイが言う。
「団長に全部話す。隠すな」
「はい」
声は前よりはっきり出た。
⸻
王都へ着いたのは、天井の明るさが落ち切った頃だった。
門をくぐると、兵団本部の空気に戻る。広い石の廊下。足音が響く。あの洞窟とは違う硬さ。
執務室に通されると、ダルジード団長が立って待っていた。赤紫の左目が、入ってきた瞬間にわたしたちを捉える。
「戻ったか」
短い声。余計な感情がない。だから、背筋が伸びる。
「報告を聞く」
グレイが一歩前へ出た。説明は簡潔で、抜けがない。魔獣の手口。二本の槍。囮と本命。人語で誘う罠。こちらの連携。負傷の状況。
そして最後に、グングニルがわたしの手に収まった瞬間のことまで。
ダルジードは一度だけ頷いた。
「見せろ」
わたしは背中から槍を抜いて、床に穂先を落とさないように差し出した。黒い槍身は静かだ。戦いの気配が残っていないのが、逆に不気味だった。
ダルジードの視線が、穂先で止まる。
「……虹の兆し」
小さく呟くように言って、わたしの左目へ視線が移る。
「お前の瞳と反応が似ているな」
わたしは息を整えた。
「戦闘中、左目が熱くなりました。同時に穂先が――虹色になりました」
「なるほど」
団長は槍を受け取らない。触れる必要がない、と判断したみたいに距離のまま見切る。
「魔獣がなぜ竜王の槍を持っていたかは不明だ」
言い切って、次に視線を動かした。
「だが“偶然”で片付けるには、揃いすぎている」
グレイが口を開く。
「団長、槍は――」
「イリスが持て」
ダルジードは先に答えた。
わたしの喉が一瞬詰まる。
「……え?」
「奪われた槍が戻るべき場所を、魔獣ではなくお前に選んだ」
団長の声は変わらない。
「それが答えだ。持ち運べ。隠すな。使い方は学べ。――守れ」
「……はい」
わたしは槍を受け取った。手の中に収まる感覚が、妙に現実的だった。
横でレオが、わずかに口角を上げた。声には出さないのに、喜びがはっきり見える。
ダルジードが次にレオへ視線を向ける。
「レオ。剣が赤く染まったそうだな」
「はい」
レオの声が真面目になる。
「怒りで、勝手に……」
「勝手に、ではない」
団長が遮る。
「赤目は、感情を武器に通す。それを制御するのが訓練だ」
レオは頷いた。目の奥が、燃えたまま落ち着いている。
「もっと強くなれますか」
「なれる」
団長は短く答えた。
「お前のそれは、守るための怒りだ。折れるな」
レオの背が少しだけ伸びた気がした。
ダルジードは最後にサイラスを見る。
「治癒。判断。援護。必要な場面を外していない」
評価の言葉が、余計に飾られない。
「お前は“戦場の頭脳”になれる」
サイラスは頷くだけだった。けれど、ほんのわずかに目が細くなった気がした。気のせいじゃないと思う。
団長が三人を見渡す。
「初任務としては十分以上だ」
それから、少しだけ間を置く。
「だがここからが本番だ。――休め。明日から詰める」
「はい!」
レオの声が一番大きく響いた。
わたしとサイラスも続いた。
⸻
執務室を出ると、廊下の空気が軽く感じた。終わった、という実感が、足元から遅れて追いついてくる。
「疲れたな」
レオが言う。
「ああ」
サイラスが短く返す。
グレイは少し後ろから歩いてきて、わたしの隣に戻った。
「イリス」
「……はい」
「今日のことは、覚えておけ」
グレイは前を見たまま言う。
「怖いのに動いた。あれは才能じゃない。癖になる。強さになる」
わたしは一度、槍の柄を握り直した。
「……うん。忘れない」
グレイが、軽く手を伸ばして、わたしの頭に触れた。叩くんじゃない。確かめるみたいな、短い動き。
「よし」
それだけで、胸の奥の石が少しだけ軽くなった。
宿舎に戻り、部屋へ入る。ベッドに倒れ込む直前まで、槍を壁に立てかける手が慎重だった。武器が怖いんじゃない。自分が、まだ慣れてない。
横になって、天井を見る。灰色の天井は、夜の暗さに寄っている。ここが月の内側だってことを思い出す。だからこそ――この世界で“明日”が来る仕組みを、わたしはまだ知らない。
でも、今日のわたしは知ってる。
揺れた。迷った。怖かった。
それでも、逃げなかった。
槍の穂先は、今は普通の色だ。戦いの虹は消えている。消えたのに、今日の手の感覚だけは残っている。
父さんなら、何て言うだろう。
たぶん、あの静かな声で言う。
「イリス。よくやった」
その言葉を思い浮かべた途端、ようやく目が重くなった。
明日からまた訓練だ。
でも今日は――眠れる。
わたしは目を閉じた。




