15.入団試験
目が覚めたのは、まだ部屋の輪郭がはっきりしない時間だった。窓の外は薄い色で、いつもの王都の気配だけが静かに動いている。
眠り直そうとしても無理だった。今日は試験。
ベッドを抜け出し、身支度をする。紐を結び直す指が、いつもより丁寧になる。滑走靴の留め具を押さえ、眼帯の結び目を確かめる。ほどけない。ずれない。……よし。
廊下に出ると、ちょうどレオとサイラスが出てきたところだった。
「おはよう」
「おはよう、イリス!」
レオは起きた瞬間から元気な顔をしている。こっちはまだ半分眠いみたいな顔をしたいのに、あの笑顔を見るとしゃっきりしてくる。
「よく眠れたか?」
「うん。レオは?」
「ばっちりだ」
レオは拳を握った。赤い左目が妙に目立つ。本人は気づいてない顔。
サイラスは一度うなずいただけだった。無表情はいつも通り。だけど、杖の握り方がいつもより固い。わたしはそこだけ見て、何も言わないことにした。
階段の上から足音。
「行くぞ」
グレイが上がってくる。髪は乱れていない。服もいつも通り。きっと今日も朝から剣の稽古を済ませたんだろう。こういう人が「習慣」って言うと、ちょっと勝てない。
「朝飯は後だ。まず訓練場へ」
「はい」
わたしたちは並んで階段を下り、兵団本部の裏手へ回った。
訓練場は、広かった。
土の地面。並べられた的。立てかけられた板。壁や柱みたいな障害物がいくつもある。端には兵士が集まっていて、視線があちこちから飛んでくる。声は控えめなのに、好奇心だけは隠していない。
その中央に、ダルジード団長が立っていた。そこだけ空気が硬い。
「来たか」
レオが一歩前に出る。
「はい!」
声が訓練場に真っ直ぐ響いた。
団長は腕を組んだまま言う。
「始める。評価観点は三つ」
指を一本ずつ折る。
「戦闘。判断。特殊能力。――実戦で使えるかだけを見る」
特殊能力、という言い方が、やけに兵団っぽい。便利な棚にまとめられたみたいで少しだけ腹が立つ。でも、ここではそういう言葉のほうが正しいんだろう。
「まず戦闘。レオ、前へ」
「はい!」
レオが出ると、団長が手を上げた。兵士が一人、前に出てくる。肩幅が広く、動きが無駄に軽い。左目が赤い。
「模擬戦だ。武器は木剣」
木剣がレオへ渡る。相手も構える。
「始め」
団長の声が落ちた瞬間、二人が動いた。
レオの踏み込みが速い。木がぶつかる乾いた音が続く。相手が受けるたび、腕が少しずつ下がっていく。レオは止まらない。息の切り替えすら、攻めのリズムに入っている。
次の瞬間、レオの木剣が相手の首元で止まった。
「そこまで」
団長が手を上げる。
「合格」
訓練場の端で、小さな声が走る。驚き、評価、納得。いろんな色が混じった音。
レオが戻ってくる。息は上がっているのに、目が明るい。
「やったね」
「だろ!」
レオの返事は、いつも通りの調子だった。こういうときに背伸びしないのが、逆に強い。
グレイも嬉しそうな口元を隠さない。あの人が表情を出すと、周りがちょっと安心する。
「次。サイラス」
サイラスが前に出ると、端のほうからひそひそ声が刺さった。
「細いな」
「戦えるのか?」
「魔導士ってやつか」
サイラスは聞こえてない顔をした。聞こえてるはずなのに。
団長が言う。
「お前は魔導士だな」
「ああ」
「なら、あの的を破壊しろ」
遠くに木の的が三つ。距離はある。
サイラスは杖を構えた。余計な動きがない。息を整える様子も見せない。
「契約執行――破砕」
空気が一瞬だけ固まった気がした。
次の瞬間、的が三つ同時に砕けた。木のかけらが舞い、何が起きたのか理解する前に終わっていた。
訓練場が静かになる。さっきのひそひそが消える消え方って、こうなんだ。
「……合格」
団長の声がわずかに低くなる。驚きは顔には出さないけど、声の厚みが変わった。
今度は別の声が飛ぶ。
「即戦力だな」
「頼もしい」
「魔導部隊か?」
サイラスが戻ってくる。無表情は崩れない。だけど杖の先が、ほんの少し軽く揺れている。わたしはそれを見て、黙ってうなずいた。本人に向けてじゃない。自分の中で、だ。
「次、イリス」
名前を呼ばれて、喉が一度だけ鳴った。
前へ出る。土の匂いが近い。兵士の視線が集まるのが分かる。右目で見るだけでも分かる。……分かるのに。
団長がわたしを見る。
「お前は飛べるそうだな」
「はい」
「なら飛べ。あの障害物を越えて、向こうの旗まで」
指の先に、壁、柱、段差。最後に赤い旗。距離だけで言えば、いける。今まで何度も飛んだ。
「分かりました」
滑走靴を起動させる。金具が動く音。体がいつもの形を思い出す。
地面を蹴った。
浮く。
最初の壁を越える。柱の間へ入る。いつも通り――のはずだった。
次の瞬間、足元の感覚がずれた。
「あっ」
体が傾く。修正しようとして、またずれる。視界の端が流れて、距離が急に曖昧になる。
落ちる。
土が近づき、肩が先に当たった。
「……っ」
痛みより、恥ずかしさのほうが先に来た。
端のほうから笑い声が混じる。
「やっぱりな」
「飛べるって言っても、その程度か」
「遊びだろ」
腹の奥が熱くなる。手のひらに土がつく。わたしは立ち上がった。
「もう一度、やらせてください」
団長は何も言わず、うなずいた。
もう一度、蹴る。浮く。進む。
――また、ずれる。
落ちる。
息が上がる。膝が笑いそうになるのを、足の指で止めた。どうして。アーゼでも森でも飛べた。なのに、ここで。
「イリス!」
レオの声。ぐっと喉が詰まる。
「大丈夫か!」
サイラスも、こちらを見ている。表情は変わらないけど、視線が動かない。
もう一度――そう思った瞬間。
「待て」
団長の声が、訓練場の空気を切った。
わたしは止まる。団長が近づいてくる。赤紫の左目が、逃げ場なくこちらを捉える。
「イリス。お前、片目で飛んでいるな」
「……え?」
言われて、眼帯が急に重くなる。
「外せ」
わたしは反射で眼帯に手を当てた。結び目が指に引っかかる。
「でも……」
「片目だと距離が狂う。お前の飛び方は特にそうだ。片目のままなら、何度やっても同じになる」
声は静か。だけど、命令として置かれる。
「両目で見ろ。そうすれば飛べる」
分かる。理屈は分かる。自分でも、落ちた瞬間に距離が消えたのを感じていた。
でも。
外したら見える。見えるだけじゃない。見せることになる。ここにいる兵士全員に。レオとサイラスにも。グレイにも。
指が結び目の上で止まる。
――選ぶ。
昨日、リディアの声が頭の隅に戻る。「選ばなきゃいけない」。あれはこういうことなのかもしれない。
レオを見る。真っ直ぐこちらを見ている。止めない。押しもしない。
サイラスを見る。こちらを測っている目じゃない。ただ、待っている。
わたしは呼吸を一度だけ整えた。
結び目をほどく。
眼帯を外す。
左目に空気が当たる。冷たくて、やけにくっきり感じる。
兵士の声が変わった。驚きが混じる。言葉の欠片が落ちる。
「……虹色」
「本物か」
「だから隠してたのか」
わたしは聞こえたぶんだけ、無視した。両目で障害物を見る。さっきまで曖昧だった距離が、ちゃんと線になる。柱の間の幅。壁の高さ。旗までの道筋。
瞬きを一回。
団長が一歩退く。
「やれ」
わたしは地面を蹴った。
浮く。
今度は、落ちない。
足元がぶれない。進む方向がずれない。柱の間を抜けるとき、体をどれだけ傾ければいいかが分かる。
壁を越える。次の障害物。次。
赤い旗が近づく。
手を伸ばして、掴んだ。
旗の布が指に絡む。そこで止まれる。止まれるって、こういうことだ。
わたしは振り返った。
レオが拳を突き上げている。サイラスは杖を少し持ち上げていた。グレイは、うなずいている。いつもより深く。
団長が腕を組む。
「合格だ」
その声が地面に落ちて、訓練場を一周した。
「イリス。お前は王都兵団の一員だ」
わたしはゆっくり降りた。着地する。土が足裏で鳴る。拍手が起きる。さっき笑っていた声まで混じっているのが、少しだけ腹立たしい。けど、それも含めて兵団なんだろう。
兵団の一員。魔獣をもっと倒す。
「すげえな」
「自由に動けるのか」
「虹色……」
わたしは眼帯を手に持ったまま立っていた。
隠す選択もできた。
でも、今日のわたしは、そうしなかった。
「それでいい」って声が聞こえる。
虹色の瞳を持つイリス。
それを抱えたまま、前に出る。ここでやる。




