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14.オルテガ商会のリディア

 滑走靴の売主。


 その言葉が頭の中で反響して、わたしは足元を見た。磨かれた金具。擦れた革。何度も助けてくれた相棒みたいな重み。父さんの贈り物。


 噴水の前に立つ穏やかな男――オルテガは、こちらの驚きに気づいても急かさない。ただ、いつもの商人の調子で言った。


「驚かせて悪かったね。よかったら、店の中で話さないかい?」


 わたしはうなずいて立ち上がった。


 広場の端に面した「オルテガ商会」は、外から見ても立派だったけど、中はもっと静かで整っていた。扉を開けた瞬間に、磨いた木と香の薄い匂いがする。棚には品がぎっしりじゃない。余白がある。余白そのものが値段みたいな店だ。


 窓際で、紳士が店員と小声で話している。視線は合わない。合ってもすぐ離れる。ここでは、人の事情をのぞかないのが礼儀なんだろう。


 案内されたのは奥の応接間だった。派手じゃないのに重い調度。椅子は沈みすぎず、背筋が勝手に伸びる。


 向かいにオルテガが座り、次いでお茶が運ばれてきた。持ってきたのは少女だった。茶色の髪を編み込み、動きが無駄なく静か。トレーの置き方まで丁寧で、年齢よりずっと落ち着いて見えた。


 ……あれ? この子、下がらない。


 少女はそのままオルテガの隣に座った。家族なのか、近い側近なのか。距離感が、普通の店員じゃない。


「イリス。王都までよく来たね」


 オルテガが紅茶とミルクを勧めてくる。声は柔らかいのに、話の中心はきっちり押さえる人だ。


「あの……どうして、わたしだって分かったんですか」


 カップを持ち上げる手が、途中で止まった。言い方を選ぶ暇もないくらい、気になった。


「その靴を履いていたし、ゼロの村で君を見たからだよ」


 オルテガはミルクを落として、スプーンでかき混ぜる。


「髪の色も顔立ちも、忘れにくい。……それに」


 そこで一拍だけ置いた。


「眼帯の下は、虹色だろう?」


 背中が少し硬くなった。頬が熱くなるのが自分でも分かる。口の中の紅茶の香りが急に濃くなる。


「どうして……」


 オルテガは、わたしの反応を見て勝ち誇るでもなく、淡々と言った。


「教えてくれたのは、この子だよ」


 隣の少女が、こちらを見る。黒い目。両目とも黒。成人の儀は、まだだ。


「わたしはリディア。オルテガ商会の末娘よ」


 声が落ち着いている。名乗り方が、まるで大人のそれだった。


「リディアが、君のことを夢で見たんだ」


 オルテガが続ける。


「夢……?」


「ええ」


 リディアがうなずいた。うなずき方が、迷っていない。


「時々、未来の夢を見るの。予知夢って呼ばれるやつ」


 予知夢。

 言葉だけで、椅子の背が少し遠くなる。


「何度も見たのよ」


 リディアは言った。黒い目がぶれない。


「虹色の瞳の女の子が、成人の儀を迎える。場所はゼロの村。……それで、父が村へ行った」


 わたしの中の記憶が繋がる。

 成人の祝いに、父さんと母さんが買ってくれた滑走靴。母さんが少し不思議そうに笑って言っていた。


『王都の商人から買ったの。「その子にはこれが必要だ」って――』


 喉まで出かけた言葉が、そのまま口になる。


「あなたが……『その子にはこれが必要だ』って」


「ああ」


 オルテガがうなずく。


「リディアの夢の中で、君はそれを履いていた。……地面を蹴って、上を滑るみたいに移動していた」


 リディアが小さく言葉を足す。


「速かった。怖いくらいに。でも、迷ってなかった」


 わたしは足元を見た。急に、この靴が“買い物”じゃなくなる。ずっと前から用意されていたものみたいに感じてしまう。


「特別に作らせた」


 オルテガが言う。


「軽くして、壊れにくくして、扱いを少し癖のあるものにした。君に必要なのだと、リディアが言ったからね」


「そんな……」


 靴を見つめたまま、言葉が続かない。ありがたいのに、落ち着かない。理由が分からない親切は、怖い。


「どうして、そこまで……?」


 わたしの問いに、オルテガとリディアが一度だけ視線を交わした。答えをどちらが持つか、決めるみたいに。


 リディアが先に口を開いた。


「わたしの夢は、いつも断片なの。場面だけ、音だけ、匂いだけ。なのに、あなたの夢は違った。何度も戻ってきた」


 黒い目が、まっすぐこちらを捉える。


「虹色の瞳の女の子。(とう)さまが滑走靴を渡してる。……それから」


 そこで、リディアの声がわずかに鈍った。迷いというより、言い方を選んでいる感じ。


 オルテガが助け舟を出す。


「“天使”が出てくる」


 その単語で、胸が一度跳ねた。身体が勝手に反応する。記憶が勝手に前に出る。


「天使……?」


「ええ」


 リディアはうなずいた。


「髪の色が金から白金みたいに変わる。目も琥珀みたいに見えたり、白金みたいに見えたりする。輪郭がはっきりしないのに、目だけが残る」


 わたしはカップを口に運んだ。口を動かしていないと、顔に出てしまいそうだった。紅茶が熱い。喉を通る感覚がはっきりしすぎる。


 ――ベーセの森。湖のほとり。

 あのとき見た姿が、言葉の裏で立ち上がる。


 でも、あれは魔獣の仕業だとサイラスは言った。わたしの心が勝手に作った像だと。

 そう言われたのに、リディアの話は形が似すぎている。


「天使は、虹色を探している」


 リディアが言う。言い方は淡々としているのに、その内容だけが遠い。


「……ずっと、探している。そういう感じ」


 “運命”とか、そういう飾りの言葉はない。ただ、夢の場面を置くみたいに話す。だから逆に、重い。


 オルテガが静かに続けた。


「わたしたちは夢を信じている。だから靴を渡した。君に必要だと思った」


「でも……」


 眼帯の端に指が触れて、そこで止まる。触れた途端、余計に意識がそこへ集まる。


「わたし、天使なんて……」


 言い切れなかった。会ったと言うのも違う。会ってないと言うのも、嘘みたいになる。


 オルテガは追及しない。


「リディアの夢は、現実になることが多い」

「“多い”って言い方、好きじゃないけどね」


 リディアが小さく言った。


「全部じゃない。時期も分からない。明日かもしれないし、ずっと先かもしれない」


 その「分からない」を、まっすぐ言うのが、この子の強さなんだと思った。無責任な予言じゃない。見えた範囲だけを差し出している。


 わたしは少しだけ呼吸を整えて、聞いた。


「あの……他にも夢で見たこと、ある?」


 リディアは少し考える。考える間が短い。


「戦いが多い。あなたは仲間と一緒に戦ってる」


 レオとサイラスの顔が浮かぶ。勝手に、ちゃんと浮かぶ。


「それから……選択」


 リディアは言葉を置くように続ける。


「何度も、選ばなきゃいけない。誰の言葉を信じるか。何を守るか。どこへ行くか」


 選択。

 昨日の胸のもやが、また小さく動く。


「結果は見えないの?」


「見えない。そこだけ、いつも途切れる」


 リディアは視線を外さずに言った。


「だから、あなたが決める。……それが、あなたの力なんだと思う」


 力。

 剣でも魔術でもない。そういう種類の言葉。


 わたしの中で、レオに言った自分の言葉がゆっくり戻ってくる。


『わたしは、自分がやってみたいことだけをする。やらされてするのはごめん』


 そのときの勢いじゃない形で、今度は胸の中に落ちた。


「……ありがとう」


 頭を下げる。深く、というより、きっちり。


「滑走靴も、話も。全部」


 オルテガは穏やかに言った。


「礼を言われるようなことじゃないよ。わたしたちは、リディアの夢に従っただけだ」

「それでも、です」


 リディアが立ち上がった。椅子が音を立てない。


「イリス、一つだけ」


「はい?」


「兵団で、なにか試験があるんでしょ」


 心臓がまた一度だけ跳ねる。


「……それも、夢で?」


「うん」


 リディアの顔が少し硬くなる。言葉を選ぶ気配。


「ぼんやりとしかわからないのだけど、困ったことが起きるかもしれない」

「困ったこと?」


「何かが起きて、あなたが選ばなきゃいけない。……大事な選択」


 リディアはそこで止めた。余計な“安心”も“恐怖”も盛らない。


 そして、最後だけ少しだけ柔らかい声になる。


「でも、あなたなら、逃げないと思う」


 わたしは一瞬だけ笑って、うなずいた。


「うん。頑張る」


 商会を出るとき、オルテガが言った。


「困ったことがあれば、いつでもここへ来なさい。わたしたちは君の味方だ」


「はい」


 広場に戻ると、人の声が戻ってくる。噴水の音も、さっきより近い。


 石畳を歩きながら、頭の中で言葉が並ぶ。


 予知夢。

 天使。

 選択。


 未来は決まっていない――そう言われたのに、決まっている部分があるみたいで落ち着かない。

 でも、決まっていない部分があるから、手が動く気もする。


 わたしは上を見た。灰色の一枚が、今日の色をしている。

 その向こうに何がいるのかは、まだ分からない。分からないまま、歩く。

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