12.手放しで褒めとけ
食堂のざわめきの中を、男がまっすぐこちらに来る。黒いローブ。細い肩。歩き方だけが妙に自信満々で、床を鳴らす靴音がやたら耳に残った。
サイラスの前まで来ると、男は立ち止まり、にこやかに口角を上げた。
「やあ、サイラス。久しぶりじゃないか」
声だけは陽気。けれど目が笑っていない。
サイラスは顔も上げない。器の水面みたいに、何も揺れない声で返した。
「誰だ」
「おいおい。エドワードさ。忘れたのか?」
男――エドワードが、わざとらしく肩をすくめる。
「まだ魔導士を続けてるのか? てっきり、あの一件で諦めたかと思ったが」
口元が歪んでる。
レオも気づいたらしい。椅子の脚がきしむ音がして、わたしに向かって身を乗り出した。
「誰だ?」
「さあ」
サイラスの返事は短い。視線が落ちたまま、まぶたの裏に何かしまい込むみたいに。
エドワードは舌先で笑いながら続ける。
「とぼけるなよ。お前の研究が盗まれた件だ。いや――」
急に声が落ちる。食堂の喧噪に紛れる程度の音量。近い距離だから、はっきり聞こえた。
「盗まれたと主張した件、か」
……やっぱり、そういう男。
なのにサイラスは冷静だった。怒りも動揺も、表面に出さない。
「それで? 何の用だ」
「いや、ただ懐かしくてね。お前がどうしてるか気になってた」
ニヤニヤしたまま言って、相手にされないのをようやく理解したらしい。視線がわたしとレオへ移る。
「新しい仲間か? 仲間割れせず仲良くな」
その言い方が、いちばん腹が立った。
レオが立ち上がる。椅子が後ろへ押される音がして、周りの兵士が一瞬だけこちらを見る。
「おい」
低い声。レオの真っ直ぐさは、刃物みたいにまっすぐ出る。
「何だ?」
エドワードが初めてレオを真正面から見る。濁ったような暗い青の目が、赤い瞳にぶつかって、わずかに揺れた。たじろいだ。……そう見えた。
「ずいぶん、赤い目だな。君は誰だ?」
「サイラスの仲間だ」
「ほう。仲間ね」
鼻で笑う。わざと息を漏らすみたいに。
「サイラスに仲間なんて言葉が似合うとは思えないが」
レオの足が一歩前に出る。
「どういう意味だ」
「やめろ、レオ」
サイラスが言う。低くて、硬い。
「でも――」
止まりきれないレオ。ほんと、どこまでいっても真っ直ぐ。
わたしは息を吸って口を挟んだ。
「エドワードさん?」
「なんだ」
男の視線が、わたしの眼帯へ滑る。値踏みする目つき。喉の奥がむず痒くなる。
「銀髪で赤い目のこいつ、見覚えない?」
「見覚え?」
「よく似た人、兵団にいるよね。目の色は銀だけど。……血のつながり、感じない?」
自分でも、言い方が回りくどいと思う。けれどレオみたいに真正面から殴りに行くのは、まだできなかった。
エドワードはレオを見て、ほんの少し考える間を置いた。それから、気づいたみたいに顔色が変わる。
「銀色って……まさか、王都の銀狼の……!」
へえ。グレイって、そんなふうに呼ばれてるんだ。
副団長の肩書きなら黙るかと思ってた。でも違う。肩書きの前に、名前の重さが先に来る。王都の空気がそういう順番で動いている。
レオ、グレイ。
胸の奥が、ちくりとした。
自分が恥ずかしいような、情けないような――言葉にすると軽くなるから、飲み込んだ。
サイラスが顔を上げる。青紫の目が、エドワードをまっすぐ捉えた。表情は、整ったまま動かない。
「エドワード。お前に言っておくことがある」
「な、何だ?」
エドワードの声が裏返りそうになる。
「俺はもう、お前たちのことは気にしていない」
静かな声だった。静かすぎて、逆に食堂の音が遠のく。
「過去は過去だ。俺には今、仲間がいる。それで十分だ」
エドワードは一瞬、言葉を失った。次の瞬間、肩をすくめて強がる。
「ふん……そうか。ならいい。元気でやれよ」
踵を返し、去り際に小さく吐き捨てる。
「嘘つきのまま、な」
レオが動こうとする。わたしは反射で腕をつかんだ。指先に力が入る。
サイラスは、最後まで反応しない。まぶたすら動かさない。
エドワードは逃げるみたいに食堂を出ていった。
ようやく呼吸が戻る。わたしたちは席に座り直した。
「……あれが研究を盗んだやつなの?」
「違う。あいつじゃない。同じ研究施設にはいたが」
レオが唾を吐き捨てるみたいに言う。
「あいつ、感じ悪い」
「気にするな」
サイラスが手を振る。払いのける仕草も淡々としてる。
「もう終わったことだ」
「でも!」
レオの顔はまだ納得していない。サイラスが、それを見て――ほんの少しだけ口元を緩めた。
「レオ、ありがとう」
レオが戸惑って瞬きをする。礼を言われると思ってなかった顔。
「別に礼を言うようなことじゃない」
「そうかもな」
サイラスは、そのまま目を伏せる。長いまつ毛が影を落とす。
ちょうどそのとき、給仕が来た。皿の上でシチューが湯気を立てている。パンの焼けた匂いがふっと広がった。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
口に運べば、熱くて濃くて、ちゃんとおいしい。
なのに、喉の奥に何かが引っかかっているみたいで、途中から味がわからなくなった。
食事を終えると、わたしたちは部屋へ戻った。
ベッドに倒れ込むと、旅の疲れが一気に体の底から湧いてくる。アーゼの街から、毎日毎日、足で稼いだ距離。今日、やっと終点に着いたはずなのに。
目を閉じた。
胸のつかえは残っていたけれど、意識のほうが先に落ちた。
目が覚めたのは、朝の早い時間だった。
起き上がっても、胸のもやが消えない。
昨日のやり取りが、喉の奥でころころ転がっている。
レオの真っ直ぐさ。
サイラスの強さ。
グレイの二つ名。
みんな、何かを持っている。
なのにわたしは――名前を匂わせて、相手を黙らせようとした。
自分の手で、何もしていない。
父さんがいなくなってから「強くなる」って言葉ばかり口にしてる。けれど肝心な場面で、手が届かない。昨日だってそうだった。
父さんはこのことも「それでいい」って言うだろうか。
言うかもしれない……でも、ちがう。
――わたしは、何をしたいんだろう。
「わたしは、自分がやってみたいことだけをする。やらされてするのはごめん」
レオに言った自分の言葉が戻ってくる。
前の人生では、忙しさを理由にいろんなことから逃げた。気づけば「やらされる」側に立ち続けて、いつも息が切れていた。
だから今は、自分で選ぶ。やってみたいことをやる。
そう決めたのに。
父さんを奪われた日の感触が、ふいに指先へよみがえる。あのとき動けなかった自分が、まだ床の上に座っているみたいだ。
わたしはそっと部屋を出た。廊下を歩き、階段を下りる。一階のホールはまだ人が少ない。
外に出ると、冷たい空気が頬に当たった。
滑走靴を起動させる。足元がふわりと軽くなり、体が浮く。
空に出ると、肺の中の重さが少し薄くなる。頬を撫でる外気が、意外とやさしい。
宿舎の周りを、ゆっくり回る。屋根の高さ、庭の形、石の道。王都の「大きさ」を目で確かめるみたいに。
――と、下に人影が見えた。
中庭だ。
誰かが剣を振っている。腕の軌道がぶれない。音が短い。
わたしは降りた。
着地すると、相手が振り返る。
グレイだった。
「イリス? 早いな」
「グレイも」
「これが習慣でな」
剣を腰へ戻し、こちらへ向き直る。
「眠れなかったのか?」
「目が覚めちゃって……ちょっと、考え事して」
「考え事?」
グレイの目が、こちらをまっすぐ見る。
「言いたくなければ、無理に言わなくていい」
言い方が、押してこない。助かる。
「んと……」
少し迷って、口を開いた。
「レオもサイラスも、すごいなって思って」
「ほう」
「レオは強いし、真っ直ぐだし。サイラスは頭がいいし、魔術も使えるし。……グレイも。王都の銀狼って!」
グレイは軽く頷くだけ。照れも自慢も見せない。
「それに比べて、わたしは……何ができるんだろうって」
「……お父さんのことがあって、急いで強くなろうとしてるんだろ」
「うん。置いていかれたくない」
グレイは黙って聞く。黙り方が上手だ。急かさない。
「空を飛べるとか、そういうのはあるけど。それって、わたしが選んだわけじゃないし」
眼帯に手を当てる。革の端が指に引っかかる。
「目の色も……ちょっと変わってる。でも、それも同じ。わたしの力って言えない。わたし、いったい何ができるんだろ」
グレイが口を開いた。
「そこまで自分のことを見てるのは、たいしたもんだぞ」
「え?」
「十五で、自分のことをそこまで考えられる奴は少ない」
腕を組み、少しだけ顎を上げる。
「それに、お前はレオとサイラスの良さをちゃんと拾ってる。それも強さだ」
「でも……」
言いかけたわたしに、グレイが言葉を重ねた。急がない。けど、切れ味がある。
「いいか、イリス。人の良さを見つけたら、まず褒めとけ」
「褒める?」
「ああ。手放しで褒めとけ。自分と比べてどうこうする前に、相手の良さを受け入れろ」
銀の左目が、まっすぐ刺さってくる。冷たいというより、澄んでいる。
「それと、焦りは武器にならん。判断を鈍らせる」
一拍置く。言葉が、ちゃんと落ちる間。
「守りたいものがあるなら、順番を決めろ。お前が守るのは、まず“お前の足元”だ」
グレイが、わたしの肩を軽く叩いた。重い手。ちゃんと人の手。
「レオは、『イリスは空を飛べるのに自分は飛べない』って言うような奴か?」
「……言わない」
声が小さくなる。
「そうだろ。お前も同じだ。レオが強いことも、サイラスが賢いことも、素直に認めて褒めればいい」
グレイが、にやっと笑った。
「そうすれば、お前の良さも、勝手に見えてくる」
「わたしの、良さ……」
「ああ。焦るな。お前はまだ十五だ。これからだ」
グレイは剣を抜いた。
「さて、もう一本やるか。付き合うか?」
「いえ、わたしは……」
「別にいい。見てるだけでもいいぞ」
わたしは頷いた。
剣が空を切る音が短い。速い。正確。
一振りごとに無駄が削れて、形だけが残っていくみたいだった。見ているだけで背筋が伸びる。
――これが、王都の銀狼。
すごい。
素敵だ。
わたしも、いつか。
そう思った瞬間、胸の中のもやが少しだけ形を変えた。
わたしにしかできないこと。
それを、見つけよう。
「朝飯を食ったら、兵団に連れて行ってやる。昨日の魔獣の話も聞きたいだろう?」
グレイが、またあの笑い方をする。
兵団。
そこに何かがある気がした。何かが、待っている気がした。




