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両親は、姉には一流の教師陣がつけたが、
私には一度もつけてくれたことはなかった。
社交界の礼儀も、舞踏の作法も、すべて書物から学んだ。
本が――私を育てたのだ。
侯爵家の西翼、埃をかぶった図書室。
そこは、私だけの空間だった。
父も母も姉も、
「辛気臭い本など何の役にも立たない」と、見向きもしなかった。
けれど私にとっては、
そこに並ぶ古書たちこそ、何よりも心躍る宝で、誰よりも頼もしい先生たちだった。
魔法理論、薬草学、失われた禁術、古代語の読み解き方、さらには領地運営や経済学、戦略論。
飢えた心に、知識が染みわたる。
自室に閉じこもる時間、誰にも必要とされない静寂の中で、
私は黙々と読み続け、記録し、考え続けた。
孤独だったけれど、寂しくはなかった。
だって、本の世界は私を拒まなかったから。
―――――――――
姉の代わりに、バルト辺境伯令息のもとへ嫁ぐことに決まった時、
私には驚きも怒りも、なかった。
ただ、「ああ、いつものこと」と思っただけだった。
ボロボロのトランクに、数枚のお仕着せと、使用人が嫌々詰めた最低限の持参品。
新しいドレスも、装飾品も一切用意されなかった。
でも私は、その中に数冊、お気に入りの本を忍ばせていた。
――それが、新しい人生の始まりになるとは、その時はまだ知らなかった。
――――――――――
バルト辺境伯領。
吹雪に閉ざされ、空気が凍てつくような世界。
中央貴族が「地の果て」と呼ぶその地に、私は一人、降り立った。
「……君が、ミラ・フォン・ショーベルグか」
堅牢な城の玄関、迎えに来たのは、噂に聞く辺境の戦闘狂、
レオンハルト・フォン・バルト。
鋭い氷のような銀白の瞳は知性をたたえながらも感情に乏しく、冷たい。
背が高く、スッと伸びた背中は、北方の冬の朝の澄んだ空気に、似ている。
凛然たるその姿に、一瞬で息を呑んだ。
「ミラ・フォン・ショーベルグと申します。お初にお目にかかります。」
震えそうになる声を押し殺し、私は丁寧に頭を下げた。
その目が一瞬、何かを見極めるように細められる。
「……そうか。本邸まで馬車を用意してある。乗れ」
短く、ぶっきらぼうな声。
だがその言葉に、実家で向けられたような、あからさまな蔑みは感じられなかった。
それが、少しだけ――嬉しかった。
ミラは小さく息を吐き、本邸への馬車に乗り込んだ。
―――――――――
辺境に来てから、私はまず、この土地の土壌と気候を徹底的に調べた。
次期領主の婚約者になるのだから、この土地のことを知らないと、その一心だった。
厳しい寒さ、日照時間の短さ、やせた土地。農業には過酷すぎる条件だった。
実際に作物の育ちにくさについて領民から話を聞くにつれ、
ショーブルグ侯爵家の蔵書の、ある一節が脳裏に甦った。
――氷原でも芽吹く“アイスミント”。強い清涼香を持ち、薬草としても活用される寒冷地植物。
「これなら……」
ミラは、辺境伯領の農業研究所と協力し、
もち麦とこのアイスミントを交配して栄養価を高めた、通称”アイスミント麦”を作ることに成功した。
実際に育ててもらうため、多くの農民に声をかけたが、
最初は、使用人も農夫も鼻で笑った。
「本ばっかり読んでる人が、土のことなんかわかるかよ」
でも私は諦めなかった。
自らスコップを持ち、氷の張った畑に膝をつき、土を掘り返す。
手袋越しでも手はかじかみ、爪の間に土が入り込んだ。
それでも、誰よりも早く畑に出て、誰よりも遅くまで作業をした。
やがて――芽吹いた。
凍てついた大地を割って、小さな芽が顔を出したのだ。
農民たちは驚き、そして徐々に、私の言葉に耳を傾けるようになった。
収穫された麦は、芳しい香りと甘みを持ち、保存もきいた。
「お嬢様のおかげで、今年の冬は飢えずに済みます……」
年老いた農夫が、震える手で私の手を握った。
その手は、冷たくて、でも、どこまでも温かかった。
胸がじんと熱くなる。
侯爵家では“不要”とされた私が、今、ここでは、役に立てた。
――生まれて初めて、“生きている意味”を感じた瞬間だった。
――――――――
一方、魔物討伐にも私の提案が採用された。
私が図書館で独自に研究し、古代魔法と現代戦術を融合させて設計した新しい魔法陣。
設置と発動にかかる魔力の効率を改善し、さらに周囲への影響範囲を広げ、複数の魔物に一斉に効果を与える仕組みだった。
「面白いが、実戦で通用するとは限らん」
最初に見せたとき、騎士団の副団長が眉をひそめたのを覚えている。
無理もない。戦場では、一瞬の判断の遅れが命取りになる。素人の考案など、重く受け止められるはずがなかった。
けれど、試験運用の後――空気が変わった。
「本隊の消耗が減った」
「魔物の動きを予測していたかのようだった」
騎士たちの口から漏れた声に、私は信じられない思いだった。
正式採用が決まった日、私はレオンハルトの執務室に呼ばれた。
重厚な扉の向こう、書類の山に囲まれた彼は、いつも通りの無表情で、私に一通の手紙を差し出した。
「……君の魔法陣。騎士団長から礼状が来ていた。実戦で、非常に大きな効果があったそうだ」
「……そう、ですか……それは……嬉しいです」
言葉がうまく出てこなかった。胸の奥がじんわりと熱くなり、でも、涙は見せたくなかった。
彼は一拍置いて、机から視線を上げた。
「……君は、思っていたより、ずっと強い」
短い一言。
けれど、それはまるで、凍てついた氷の上に一滴の温もりが落ちたかのように、私の心を溶かした。
ずっと遠くに感じていた彼が、初めて真正面から私を“認めた”。
それが、どれほど嬉しかったか、言葉にはできなかった。
そんななか、王都からのパーティーへの招待状が届いた。
王太子主催の大晩餐会、いよいよ王太子の婚約者が発表されるとのことだった。
ミラとレオンハルトは、吹雪の中、王都へ向かうのだった―――――
あと一話増えました・・・




