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病名ちゃん  作者: りむ
1/7

#1 導入

夏の朝。ペットボトルの清涼飲料水を片手に、私は学園へ向かっていた。


普通の人間には見えないこの学園には、私と同じ「病名ちゃん」たちが集まっている。病名ちゃんとは、まだ誰にも発症していない、未来の病気たち。


下駄箱の前で上履きに履き替えていると、ふと視界の端に、見慣れた肉感的なシルエットが映った。誰よりもパンパンに張った太ももと、大きく肥大した豊かな胸。

同じクラスの心不全ちゃんだった。


「おはよう、糖尿病ちゃん」


ボブに切りそろえた黒髪が朝の光を反射する。白い肌に浮かぶ微笑みは柔らかいけれど、少し息が浅い。挨拶ひとつでも、それが伝わってくる。


階段を上りはじめてすぐ、心不全ちゃんの足取りが重くなった。


「……はぁ、はぁ……」

小さな吐息が耳に届くたび、胸の奥が締めつけられる。


「心不全ちゃん、大丈夫?」

私はそっと手を差し出す。彼女は少し戸惑ったように、それでも指先を重ねてきた。


「うん……ちょっと体が重いだけ。でも、糖尿病ちゃんに会うと、ほっとするんだ」

はにかむ笑顔。けれど肩は上下していて、息を整えるのに必死なのがわかる。

その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。誰かに必要とされるのは、悪くない。


心不全ちゃんはカーディガンの袖をぎゅっと握りしめた。夏なのに長袖を手放せないのは、冷え性のせい。

肩で息をするたびに、スカートが揺れて、身体のボリュームが強調される。太ももに布地が持っていかれて、その付け根まで見えそうになっている。

必死に息を整える彼女だけが、それに気づいていない。


踊り場の窓から朝の光が差し込み、私たちの影を長く伸ばしていく。そのまま教室の扉を開けると、朝のざわめきと柔らかな陽射しが迎えてくれた。


その光の中、ひときわ目を引くのは、汗ばんだ体操服姿の慢性胃炎ちゃんだった。

テニス部の朝練を終えたばかりで、呼吸が少し荒く、頬をほんのり赤らめている。


「おはよう、2人とも。というか、私よりも心不全ちゃんのほうがはぁはぁ言ってて、朝練終わったみたいになってるよ」


そう言いながら、彼女はカバンから缶コーヒーを取り出す。表面には、紫色のヘリコプターのイラストが描かれている。

「朝はこれがないと、体も頭も動かないのよね〜」


私も自分のペットボトルに手を伸ばし、ひと口飲んだ。冷たい清涼飲料水が喉を潤す。

「わかる〜、朝は甘い飲み物がやっぱり落ち着くんだよね。ふぅ〜」


3人の間に、穏やかな空気がふわりと漂う。

昨日の授業のことや、廊下ですれ違った知らない先輩の噂話など、取り留めもなくぽつぽつと話しているうちに、教室のざわめきがだんだん遠くなっていくように感じた。


私はペットボトルをぎゅっと握りしめながら、小さく手を挙げる。

「ちょっと、トイレ行ってきてもいい?」


心不全ちゃんと慢性胃炎ちゃんが目を合わせ、優しい笑顔で頷く。

「私も、ついていっていい?」

「私も〜」


廊下に出ると、静かな空気に包まれた。

3人が並んで歩く足音が、かすかに響く。


「いつもペットボトル持ち歩いてるから、ついトイレ多くなっちゃって……」

ぽつりと呟くと、心不全ちゃんがふんわりと微笑む。


鏡の前では、鏡の前で心不全ちゃんが胸元のパットを直している。

彼女は、左の胸だけが明らかに大きく、バランスを整えるために右側にパットを入れている。それが、必要以上に胸が目立ってしまう理由でもある。


「ずれてると気になっちゃうんだ。……ふぅ」

慣れた手つきで直しながら、息を吐く。


そこへ、個室から出た慢性胃炎ちゃんがそっと近づき、優しく声をかける。

「心不全ちゃん、なんていうか……見るたびに、胸が大きくなってない?」


冗談めかした声色だけど、目は少し羨ましげ。


心不全ちゃんは照れくさそうに笑って、

「でも、慢性胃炎ちゃんはスタイル良いから羨ましいよ」

「え、そんな……」


慢性胃炎ちゃんは恥ずかしそうに目を潤ませて、頬を赤く染める。

「ありがとう。……でも、みんなみたいにふんわり胸があったら、もっと女の子らしくなれるかな」


慢性胃炎ちゃんはチラッと私の胸に視線を移す。確かに、私も心不全ちゃんと同じくらいの大きさではある。ただ、お腹にも脂肪をたっぷりと蓄えているので、そこまで凹凸は目立たない。


「ちょっと〜、慢性胃炎ちゃん、もしかして胸じゃなくて、お腹見てない?」

「いやいや、ちゃんとがっつり胸見てるよ」

「……ちゃんと見ないでよ」


3人で顔を見合わせる。くだらない会話なのに、笑い声がふわっと弾けた。

自然と距離が近づき、空気はほんのり甘くなる。


「じゃあ、戻ろっか」

手を差し出すと、2人がそれぞれ手を重ねてくれた。その温もりがじんわり広がって、心まであたたかくなっていく。


朝のホームルームが始まる。

教室のざわめきの中で、担任の先生から進路希望の用紙が配られた。


先生は咳払いをして注目を集めてから説明をはじめる。

「皆さん、そろそろ卒業後の進路を考えないといけません。この用紙に希望を書いて、来週までに提出してください」


私は受け取りながら、まだ何を書けばいいのか決められずにいた。

記入する項目は、目指したい病名を第一希望から第三希望まで。

そして、就職か進学か。


私たちは、この学園で、人を殺めたり、苦しめたりする方法を学んでいる。

卒業して働くにしても、大学に行くにしても、「発症」が前提になっている。


担任の先生も、教員として働きつつも、人間界では『肺がん』として発症している。


(どうしよう……)


私の得意分野、やりたいこと。何があるだろう。

『脳卒中』『網膜症』『心筋梗塞』『アシドーシス』『腎不全』『神経障害』……。


決めきれずに固まっていると、隣の席の心不全ちゃんが覗き込んできた。


「糖尿病ちゃん、まだ決めてないの?」

「うん……なんだか、方向性を絞るのが難しくて」

「心不全ちゃんはどう?」

「私? 『心室細動』を目指そうと思ってる」

「発症から数分で死に至るのは、心室細動の魅力。やっぱり、私自身が体力ないからすぐに終わらせたい」

「もし、心室細動が難しかったら、冠動脈を塞いで心機能を破壊する『心筋梗塞』か、大動脈の壁を裂く『大動脈解離』。どっちも即死に近い苦しみを与えられる」


教室のざわめきを気にしつつも、ぽつりぽつりと話し始めた。

普段の穏やかな彼女からは想像がつかないほど、殺傷力に魅了されている。


「慢性胃炎ちゃんは?」

「家族みんなが『胃癌』や『腹膜炎』を目指しているから、私もその道に進もうと思ってる。まだどっちにするかは決めてないけど、どちらにしても『胃潰瘍』を目指したいから、進学希望かなぁ」

「胃の粘膜をじわじわと蝕んでいく方法とか、消化機能を攻めて生活の質を低下させる方法とか、まだまだ知識不足だからねっ」


命を削ることを重視する心不全ちゃん。

生活の質を落とすことを重視する慢性胃炎ちゃん。

ベクトルは違うけど、しっかり考えてる。


私も、せめて方向性くらいは決めておかないと。どう殺すのか、どう苦しめるのか。


いつのまにか、進路希望用紙が汗ばんでいた。

【病名】心不全

【概要】心臓のポンプ機能が低下し、全身に十分な血液を送り出せなくなる状態。厳密には病名ではなく「心臓の機能が破綻した状態」を指し、進行すると命に関わる。NYHA心機能分類により、重症度が評価される。

 ①Ⅰ度:心臓の病気はあるが、通常の身体活動では疲労・動悸・息切れ・胸の痛みは起こらない。

 ②Ⅱ度:通常の身体活動(坂道や階段をのぼるなど)で疲労・動悸・息切れ・胸の痛みが起こる。安静にしているときは症状がない。

 ③Ⅲ度:通常以下の身体活動(平地を歩くなど)で疲労・動悸・息切れ・胸の痛みが起こる。安静にしているときは症状がない。

 ④Ⅳ度:どんな身体活動でも症状が出る。安静にしていても疲労・動悸・息切れ・胸の痛みがみられる。

 ・左心不全は、左心室の機能低下により肺から全身へ血液を送り出すポンプ機能が弱まった状態。

 ・右心不全は、右心室の機能低下により全身から肺へ戻る血液を送り出すポンプ機能が弱まった状態。

【症状】

 ・息切れ、動悸、倦怠感、手足が冷える(心臓から十分な血液を送り出せなくなり体に必要な酸素や栄養が足りなくなるため)

 ・特に足のむくみ(腎臓に流れる血液が少なくなって尿の量が減り水分が体内に貯留するため)

 ・体重増加(血流が滞り体液量が増加するため)

 ・息切れ、呼吸困難(肺の血流が滞り酸素の取り込みが邪魔され肺が膨らみにくくなるため)

【原因】高血圧、心筋梗塞、弁膜症、不整脈、心筋症、先天性心疾患、糖尿病、貧血、腎不全など多岐にわたる。高齢化や生活習慣病の増加で発症率が上昇している。

【備考】治療は原因疾患の管理、食事・運動療法、利尿薬・強心薬・降圧薬などの薬物療法、重症例ではペースメーカーや心臓移植も検討される。早期の受診と継続的な管理が重要。

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