2話 断れない性格
「お……夫殺しの、悪霊?」
初っ端からあまりにも物騒な言葉が飛び出してしまった。
忍は思わず聞き返すと、女性はこくりと頷き、静かに名乗り始める。
「私は美座和 加奈子と申します。職業は霊媒師――特に悪霊祓いを専門にしています」
霊媒師……しかも悪霊祓い専門の彼女が、無名の私たちを訪ねてきたというのは、かなりの訳ありに思えた。
加奈子と名乗った女性は、遠い記憶を呼び起こすかのように、重々しく今回の経緯を語り始める。
「ある平日、私の元に“悪霊の棲みつく屋敷のお祓い”という依頼が舞い込んできたんです」
苦い記憶を噛み締めるように目を伏せる。
「私は普段、金銭以外でも価値の高い物なら対価として受け取っていたのですが、そのとき提示された代価は……あまりにも異質でした」
「異質……?」
忍が小さく問い返すと、加奈子は苦い表情を浮かべながら答えた。
「“祓いが済んだ屋敷を、そのまま無償で譲渡する”というものだったんです」
加奈子は額を押さえ、悔やむように続ける。
「その異様さに、私は少しの疑問も抱かず了承してしまった。そして住み込み調査のためにすぐ引っ越した翌日……夫が変死体で発見されたんです」
忍はその情景をリアルに想像してしまい、苦悶の表情で口元を押さえる。
「うぅ……なんともグロテスクな……」
つい漏らしたその一言に、朔が背後から忍の頭をチョップした。
「お前、デリカシーなさすぎだろ」
「ご、ごめん……」
忍が頭を押さえると、加奈子は哀しげに微笑み、話を続ける。
「夫の死後、自分の力で何とかしようとしたのですが結局、祓うどころか……私が命を落としかけたのです」
そう言って、加奈子は静かに袖をめくる。
露わになった腕には、巨大な針で貫かれたような鋭い二箇所の傷跡。
「……これはまた……酷いですね……」
忍は思わず息を呑んだ。
話を聞く限り、少なくともこの人は素人ではない。
むしろ業界でもかなりのやり手だろう。
金銭以外の価値ある物でも依頼を受けていることが、その証拠だ。
だが、そんな人物ですらこれほどの傷を負わされたと思うと、背筋が凍る。
忍はそっと加奈子へ問いかけた。
「ちなみに、その悪霊の姿……加奈子さんにははっきり見えたのですか? どんな容姿だったのか教えていただけると……」
すると加奈子は首を横に振る。
「いいえ……いつも影のようにしか見えなくて……今回も例外ではありませんでした。でも、輪郭だけは……体が長い、虫のようだった気がします」
忍は顎に手を添え、思案の表情を浮かべる。
――この人、悪霊をはっきりと見ていないのに、それでも祓えているのか?
いや、それよりも“ムカデ”のような悪霊……動物霊的な存在なのだろうか。
沈黙の中、加奈子は力ない声でつぶやいた。
「すでに、悪霊払いを請け負う寺社や同業者はすべて回りました。ですがどこも……『貴女に祓えないのなら、私たちにも無理だ』と……」
絶望に満ちた声に、忍の胸が痛む。
昔から、心に直接訴えかけてくるような人には弱かった忍。
そんなことを言われてしまっては――。
「断れるわけないじゃん……」
その瞬間、忍の瞳に決意の光が宿る。
彼女は静かに立ち上がり、加奈子の手をそっと取った。
「分かりました。その案件、私たちが必ず解決してみせます」
加奈子の目に、うっすらと涙が浮かぶ。
長い間背負っていた重荷が、ようやく解けたかのような安堵が、その顔に広がっていた。
初めての依頼、それも命懸けと言っていい案件。
正直、言ってしまった――と、焦りの気持ちでいっぱいになっていた。
だが、自分たちのような無名の何でも屋に、ここまで心の内を明かし、頼ってくれた相手だ。
これを解決できなければ、この店を続ける資格なんてない気がする。
そんな忍の様子を見ていた朔は、「仕方ないな」といった風に、苦笑混じりの微笑を浮かべていた。
すると忍は、ふと思い出したように口を開く。
「もうひとつ、確認しておきたいことがあるんですが、よろしいですか?」
「ええ、もちろん」
加奈子は落ち着いた声音で頷いた。
「旦那さんが亡くなる前後で、日常生活に何か変わったことはありませんでしたか?」
忍の問いに、加奈子は記憶を辿るように目を伏せる。
「そうね……夫と寝る前の夜、一度だけ強い視線を感じた気がする。でも霊媒師という仕事柄、そういうことはよくあるから、特に気に留めなかったの」
そう言ってふと顔を上げ、もう一つ思い出したように続けた。
「それと……夫が亡くなった後、似たような“視線”が一つ増えた気がするわ。でもそれも、思い込みかもしれないと思って放っておいたの」
忍は頷きながら考え込む素振りを見せたが、すぐに立ち上がり、明るい声で言う。
「分かりました!ありがとうございます。それでは、実際に屋敷を拝見させていただいてもよろしいでしょうか?できれば今日中に!」
「ええ、大丈夫。今日は他に予定もないから、今からでも」
「本当ですか?ありがとうございます!それでは、さっそく行きましょう!」
忍の頭の中では、すでにいくつかの仮説が組み上がり始めていた。
だが――現場を見なければ、何ひとつ断定はできない。
両腕をバッと広げ、子供みたいに声を弾ませる忍は、すぐ後ろの朔へと振り返った。
「もちろん、朔も行くよね?」
加奈子に気づかれないよう、目で圧を送る。
(帰ってきたばっかで何もしてないんだから、手伝ってもらうからね)と。
朔はじろりと忍を睨み、ひとつため息をつくと静かに頷いた。
「お前だけに任せたら心配だからな」
「ほ〜ら言った〜!素直でよろしい!」
忍がニヤニヤと子供っぽく返すと、加奈子が思わずクスッと笑った。
――やっと笑った。
ここに来てから初めての、柔らかな笑顔。
「よし!じゃあ、行きましょう!」
忍はその笑みに応えるように、さらに明るい笑みを浮かべた。
こうして三人は並んで、屋敷へ向かうことになった。
***
玄関を出たとき、忍の視線がふと近くの電柱に止まる。
――……なんか、変な気配がする。
「おい、どうした?早く行くぞ〜!」
「は〜い、今行きま〜す!」
朔の声が背後から飛んできて、忍は肩をすくめた。
……たぶん、さっきの怖い話を聞いたせいで感覚が過敏になってるんだろう。
そう自分に言い聞かせ、小さく首を振ると、その違和感を胸の奥に押し込んで歩き出した。
それから二十分ほど。
バスと電車を乗り継ぎ、三人はやがて薄暗い山道へと足を踏み入れた。
「わぁ〜、けっこうな田舎だねぇ〜!」
生まれてからずっと都心育ちの忍には、何もかもが新鮮で珍しい。
そのせいか興奮気味に、朔と加奈子を待たず、両脇に木々が生い茂る道を先頭で歩いていく。
その後ろを、加奈子と朔が少し遅れて追いかける。
「おーい、先に行くなって!」
朔が声を張ると、忍はぱっと振り返り、満面の笑みを浮かべる。
「いいじゃん別に〜。こういう田舎に来るの、私、初めてなんだし!」
その無邪気さに、朔は呆れたように眉をひそめ、ぽつりとつぶやいた。
「……何が『別にいいじゃん』だ。俺も初めてだっての」
そのやり取りに、加奈子が小さく苦笑をこぼす。
「もう少し進むと右に曲がれる道があるわ。その先をまっすぐ行けば、屋敷が見えてくるはずよ」
加奈子が説明を口にした、そのとき。
先頭を歩いていた忍が、ふいに立ち止まった。首をかしげ、右手方向をじっと見つめている。
彼女は振り返り、真顔で加奈子に問いかけた。
「加奈子さん、その屋敷って……この先の道をまっすぐ行ったところにあるんですよね?」
「え? ええ、そうよ」
加奈子は少し戸惑いながら頷く。
朔も怪訝そうに首を傾げ、忍の隣に寄った。
「いきなりどうしたんだ。何か変なのでも見えたか?」
忍は加奈子に聞こえないよう、朔の耳元で小さくささやく。
「あれ」
彼女が指さした先から――かすかだが、確かに異様な気配が漂ってきていた。