1話 夫を殺した悪霊
ピピピ……ピピピ……。
寝室に響くアラーム音。
「ん〜……」
忍はゆっくりと身を起こし、軽く伸びをしながら手探りでスマホを探す。
画面をタップしてアラームを止めると、大きくあくびをした。
「ふわぁ〜……」
カーテンの隙間から差し込む朝日が、彼女の白く透き通った肌をやさしく照らす。
「ん〜、まだ眠い……」
目をこすりながら、スマホを片手にふらふらと寝室から廊下へ向かう。
扉をゆっくり開け、閉めようとしたそのとき、裏側に張り紙があることに気づいた。
「ん? なにこれ……」
そこには、こう書かれていた。
『買い出しに行ってきます。朝起きるのが遅かったので朝飯は抜きです。 by朔』
「……なにこれ」
呆れ顔を浮かべつつ、スマホの電源を入れる。
「起きるのが遅いって言っても、そんなに遅い時間じゃ……」
ぼやきながら画面を見た瞬間、忍は思わず顔を青くした。
「……いや、ほぼ昼じゃん」
スマホの時刻は「11:30」。
「なるほど、そりゃ朝ごはん作ってくれないわけだ」
適当に納得しつつ、彼女は洗面所へと向かう。
鏡に映るのは、肩ほどの長さの白髪と、淡い緑色の瞳を持つ少女――望月 忍。
整った顔立ちとは裏腹に、寝起きの忍は半目で、髪もボサボサ。ビジュアル的にはあまりよろしくない。
歯を磨き、髪を整えていると――。
「ピンポーン」
玄関のチャイムが鳴った。
「お客さん……?」
思わず声に出してしまう。
最近は友人と呼べる相手がほとんどおらず、会う約束もしていない。
「ま、とりあえず出てみるか。どうせ宅急便だろうけど」
……一応、別に思い当たる節がなくもない。
だが実際にその件で訪ねてきた人は、これまで一人もいなかった。
「はぁ〜い」
そう呟きながら、着替えもせず玄関へと向かい扉を開けたら――。
そこに立っていたのは、見知らぬ五十代ほどの女性。
ひとり、ポツンと。
「えっと……どちら様でしょうか?」
見たところ宅配便ではなさそうだ。
忍の知り合いにこんな人物はいないし、何より人付き合いが極端に苦手な朔の知り合いが来るとも思えない。
そうして忍の脳裏に、ひとつの不安がよぎった。
(しゅ……宗教勧誘!?)
なぜそんな考えに至ったのか――理由は彼女の格好だ。
黒いレインコート、真っ赤なハイヒール。
そして極めつけは手首の数珠……。
別に宗教そのものを否定しているわけではない。
仏教のような一般的なものならまだ理解できる。
だが、犯罪臭プンプンの新興宗教となれば話は別。
「突然お伺いして申し訳ありません。このチラシを見て、来たのですが……」
「え? チ……チラシ?」
女性は右手に持っていた紙をスッと差し出してきた。
忍はおそるおそる視線を向けると――。
(こ、これ……私と朔が三年前に作ったチラシじゃん!?)
さきほどの「思い当たる節」とは、まさにこのことだった。
(っていうか……どこでこれ拾ってきたの……?)
三年前、忍と朔はこのビラを町中に貼りまくったのだが、そのほとんどは警察に目をつけられて剥がされてしまったのだ。
まあ、内容が内容なので、詐欺だ何だと疑われても文句は言えなかった。
──幽霊や妖、怪奇現象専門の何でも屋、やってます! 平日以外は空いているのでいつでもどうぞ!──
……普通の人が見れば、完全に怪しい詐欺にしか思えないだろう。
呆然とする忍に、女性は気まずそうに声をかける。
「あの……」
その一言で我に返り、忍は慌てて頭を下げた。
「あ、す、すみません! すぐ準備してきます!」
大急ぎで部屋に戻り、三十秒ほどで今日着る予定だった服を引っぱり出して身につける。
女性はその慌てぶりに苦笑し、そっとつぶやいた。
「元気な子ね……」
次の瞬間、勢いよく扉が開く。
「お待たせして申し訳ありませんでした!!」
「は、はやっ!?」
女性が驚くのも当然か。
一分も経たずに着替えて戻ってくるなんて、本人でも驚くほどなのだから。
忍の装いは、さっきまでの寝巻き姿とは一転。
ふんわりとした黒の上着に白いセーター、黒のショートパンツで、シンプルなコーディネートだ。
彼女は改めて姿勢を正し、女性を丁寧に室内へと招き入れた。
(よかった〜、昨日、朔が掃除してくれてて……)
忍は家事全般が得意ではなく、基本的にその手のことは朔任せなのだ。
広々としたリビング。
向かい合わせに置かれたソファの一つに女性を案内すると、彼女はそっと腰を下ろした。
忍も向かいに腰掛け、ぺこりと頭を下げる。
「えっと……先ほどからだらしないところをお見せして、すみません……」
胸の奥に、申し訳なさが残る。
探偵事務所的な場所に行って、寝巻き姿の受付が出てきたら――自分なら間違いなく苦情を入れて帰っているだろう。
……いや、さすがに帰るのは大げさにしても、文句のひとつは言っているはずだ。
それでも黙って座っているということは、気弱な人か。
あるいは――どうしても忍たちに頼らざるを得ない案件なのか。
忍は自身の考察を振り払い、自己紹介を始めた。
「私の名前は望月 忍といいます。あのチラシに記載されている通り、霊や怪異、怪奇現象などを扱っています」
細かい内容までは覚えていないが、“不可思議な現象専門の何でも屋”という方針は変わっていないので、間違ってはいないはずだ。
女性は忍の言葉を聞き届け、静かに頭を下げる。
「それで、今回はどのようなご用件で?」
問いかけに、女性は目を伏せて息を吐いた。
やがて決意を込めた表情で顔を上げた、その瞬間――。
リビングの扉が開く。
紅白の少し長めの髪に、黄色の瞳を持つ少年が、大量の荷物を抱えて帰ってきた。
「おい、見慣れない靴があったけど、誰か来てるのか?」
「あ、朔」
――なぜ、こうも彼はタイミングが悪いのだろう。
そう思いつつも、忍は笑みを浮かべてうなずいた。
「うん、三年前に作ったチラシを見て来てくれたみたい」
そう言ってから「あっ」と思い出したように、女性へ向き直る。
「彼は、私の……パートナー?の、相原 朔です」
朔は軽く頭を下げた。
「初めまして。相原です」
「初めまして……」
女性も静かに頭を下げ返す。
その様子を確認すると、朔は忍の背後に回り、耳元で囁いた。
「なんで客が来たって、先に連絡しなかったんだよ……」
「だ、だって……いきなり来られて、時間なくて……」
小さく言い訳する忍に、朔は「はいはい」と肩をすくめ、荷物を台所へと運んでいった。
それを見届けた忍は軽く咳払いし、表情を改める。
「お待たせしました。改めて、お話を伺ってもいいですか?」
「ええ……」
女性は朔の登場で少し緊張がほぐれたのか、柔らかく息を吐き、そして覚悟を決めたように口を開いた。
「私の依頼は……屋敷に住み着く夫殺しの悪霊を、祓っていただきたいのです」