プロローグ
今日は普通の女子高生――望月 忍。
私の親の結婚記念日。
そして……不本意ながら、私にとっての初恋(?)の記念日でもある。
そんな特別な日に、私が訪れていたのは花屋だ。
買う花はもう決めていた。
「キキョウとコチョウランを二本ずつください」
少し間を置き、思い出したように付け足す。
「……あと、ペンタスも」
会計を済ませると、私は花束を抱えて足取りも軽く帰路についた。
今日という日にふさわしい――花言葉を持つ花たち。
私は花言葉なんて普段気にしないけど、ネットで調べて見つけたのだ。
「喜んでくれるかな〜」
両親が笑顔で花を受け取る光景を想像して、自然と口元が緩む。
そんな気分のままマンションに着き、階段を駆け上がって自宅の玄関へ。
「ただいまぁ!」
いつもより少し元気に声を張った――その瞬間だった。
玄関を開けた私の目に飛び込んできたのは。
赤い液体。
それはまるで、何かを引きずった跡のように。
リビングの扉まで、濡れた赤い線を描いていた。
「え……?」
声が勝手に漏れる。
理解が追いつかない。
でも直感で分かる。これは……ただ事じゃない。
(やばい……すぐ警察に!)
反射的にスマホを取り出す。
そして、通報ボタンに指を伸ばした、その瞬間――
ドンッ!
「きゃっ!?」
背中を強く押され、私は赤い液体の中へ倒れ込む。
ビチャッ。
湿った嫌な音。
ぬるりとした液体が服にまとわりつく。
「ひっ……!」
恐怖で声が震える。慌てて立ち上がろうとしたとき――気づいた。
(……スマホがない!?)
さっき転んだ拍子に、どこかへ飛んでいってしまったらしい。
必死にスマホを探そうとした、そのとき――
バタンッ!
突然、背後で扉が閉まる音が響いた。
反射的に振り向く。
そこに立っていたのは――
黒ずくめの服をまとい、忍者のような頭巾で顔を覆った男。
そして何より、人間味を感じない恐ろしい、光る白い眼を持っていた。
「ぁ……ぁ……」
恐怖で声がかすれる。
男は無言のまま、ゆっくりとこちらへ手を伸ばしてきた。
「やだ! やめっ……うっ……」
その手は私の首をガシッと掴むと――容赦なく締め付け始める。
「や……め……っ……!」
喉が潰されて、息ができない。
目の前が暗くなりかけた、そのとき――
ギィ……
リビングの扉が開く音。
同時に、首を絞める力がわずかに緩む。
「がはっ! ……はぁ……はぁ……」
酸素が一気に肺へ流れ込み、何度も咳き込む。
だが、安堵する間もなく。
男の手が私の顔を掴み、強引にリビングの方へ向けさせた。
視線の先――。
そこには、首を掴んでいるこいつよりも、見た目が瓜二つの、ガタイの大きな男が立っていた。
その両手に握られていた“モノ”を見た瞬間、私の思考は真っ白になる。
「ぁ……ぁ……」
恐怖で声にならない。
いや、あんなものを見て声が出せる人間なんているのだろうか。
だって――
今朝、普通に出勤していったはずの父が。
……首だけの姿になって、片手に掴まれていたのだから。
そして――もう片手には、意識が朦朧とした母の姿。
「あぁ……やっと来たか」
一番ガタイの大きな男が、返り血にまみれた体で口を開いた。
「よかったじゃねぇか」
ニヤリと笑みを浮かべる。
「死ぬ前に、真実を自分の口で話せそうでよ」
そう言って、男は母を私の目の前へ投げ捨て、腰の剣を抜き放った。
「さぁ……さっさと話せ。お前らが一家団欒とほざいていた、家族ごっこの“真実”をよ」
――理解できない言葉。
その圧に押されるように、母が口を開いた。
「忍……ごめんね……。なんて言えばいいか、わからない……。ただ純粋に、私は……お父さんは……」
「おせぇ」
男が苛立ちを滲ませ、母の手の甲へ剣を突き刺す。
「あぁぁぁぁぁっ!!」
母の絶叫が廊下に響き渡る。
涙を浮かべながら、母は続けた。
「私たちは……忍を拾っただけの……親でもなんでもない、ただの他人……」
「……え?」
思わず声が漏れる。
「私は、昔から子どもを産めない体で……でも、それでも子どもが欲しくて……。施設から迎えようか、なんて話をしていたときに……」
母は視線を落とし、絞り出すように言った。
「ゴミ置き場で……籠に入った忍を見つけたの」
ボロボロと涙をこぼしながら、必死に続ける。
「運命だと思った。神様からの贈り物だって、本気で……。でも……籠の中には忍と一緒に“紙”が入ってたの。今でも、はっきり覚えてる」
母の声が震える。
「“御心定まり候わば、回収に参り候《回収しに来る》”……。その紙を読んで……分かった上で、私たちは貴方を迎えたの」
胸が張り裂けそうだった。
けれど――不思議と怒りも悲しみも湧いてこない。
心の中は“無”で埋め尽くされていた。
「ごめんなさい……。でも、それでも私は、あなたの母親だと本気で思ってる。だから……!」
母は最後の力を振り絞り、一番大きな男の手から逃れると、私の後ろにいた男を突き飛ばした。
その瞬間――首を絞める手が離れる。
「逃げて!!」
母の叫びを聞いた瞬間。
心の奥で、何かがプチンっと切れた音が響いた。
無意識に、右手が上がる。
肩から熱と冷気が同時に走り、掌へと集まっていく。
次の刹那――
水の斬撃が空を走り、男の体を真っ二つに裂いた。
さらに、炎の玉が現れ、男を包み込む。
「……っ」
理屈も、制御もできない。
母が巻き込まれるかどうかさえ、考えられなかった。
それでも――。
こいつらを殺せるなら、今はそれでいい。
炎は勢いを増し、後ろにいた男までも飲み込み、家の中全体を紅に染め上げていく。
――自分でも、訳が分からなかった。
体が動くようになった瞬間――。
自分でも分からないまま、私は自宅を飛び出し、マンションの階段へと走り出す。
しかし。
階段は、黒ずくめの男たちで埋め尽くされていた。
(逃げなきゃ……逃げなきゃ……逃げなきゃ……逃げなきゃ……!)
必死に考える。
どうすればいい? どれが最善?
そして導き出した答えは――。
三階から飛び降りること。
落ちれば大怪我は間違いない。
だが、捕まれば……“死”。
――なら、飛ぶしかない!
「おりゃぁぁぁぁぁっ!」
気合いの声とともに手すりを蹴り、宙へ飛び出した。
ドサッ!!
落ちた先には、ゴミ袋の山。
衝撃を吸収してくれたおかげで、なんとか無事だった。
「……助かった?」
安堵も束の間。
マンションの入口から、男たちがゾロゾロと現れる。
「くっ!」
震える足を無理やり動かし、すぐに立ち上がって駆け出した。
その頬に、ひとしずく冷たい雨が落ちる。
――そして、二分後。
土砂降りの雨の中を、必死に走る私。
すると、視線の先に――。
今日、体育の授業で対面した、私の初恋の相手。
相原 朔。
彼が立っていた。
制服姿の彼の服は、真っ赤に染まって……。
「え、忍さん!?」
「……朔くん?」
私に気づいた朔は急いで駆け寄ってくる。
「どうしたんですか!?」
問いかけに、私は俯き、小さな声で答えた。
「お……親が……家に来た男たちに……殺されて……」
「え!?」
朔の顔が強張る。
「さ……朔くんは?」
恐る恐る問いかける。
だが朔は、すぐには答えなかった。
「お、俺は……」
何か言おうとした、その瞬間――。
「そこの人! あぶなぁぁぁぁぁい!!」
知らないおじさんの声。
気づいた時には遅かった。
私と朔が立っていたのは歩道じゃなく――車道だった。
キーッ!!
横からヘッドライトの強烈な光。
ガシャン!!
轟音とともに、私たちは車に撥ね飛ばされた。
「キャァァァ!! 人が轢かれた!!」
「おい!! 誰か救急車呼べ!!」
騒然とする声が遠くに響く。
意識が霞む中――。
重くのしかかる何かの感触。
それは朔だった。
彼は、自分の体を盾にして私を守ったのだろう。
そのおかげで、衝撃は和らぎ、私はかろうじて意識を保っていた。
(……助けを、呼ばなきゃ……)
声を出そうとする。
だが口が開かない。
(どう……しよう……)
無力。
なす術がない自分に――怒りが……
――湧いて……
――湧い……て…………
(……なんで……?)
一ミリも、怒りが湧かない。
心はただ“無”に沈んでいた。
あの時と同じだ。
母が……家族が殺された時も。
怒りも悲しみも湧かず、ただ空虚だった。
(なんで……? なんでなの?)
自問自答が止まらない。
湧いてこない“何か”に、違和感と気持ち悪さだけが募る。
私はゆっくりと目を閉じ、そっと朔の背中に手を置いた。
血か、雨か。
ぐちょりとした感触が指先に広がる。
(せっかく逃げたのに……結局、死ぬのか……)
自暴自棄な思いとともに――。
私は静かに、意識を手放した。