シルフォーネ
ポーン。
たった一音。
それだけでその場にいる人を振り返らせ、音楽の世界へ惹き込む。
所謂、天才と呼ばれる奏者。
ここ数年で頭角を現したシルフォーネという齢15歳の若者はまさにそうであった。
演奏が始まると人々はその美しい旋律にお喋りを止め、聴き入り、一気に世界へと引き込まれた。
一曲終わり、会場には惜しみない拍手と歓声。
「素敵ね」
「ええ、本当に。今度我が家で行うパーティに是非お呼びしたいわ」
上品に着飾った貴婦人達は興奮気味にシルフォーネの演奏に賛美を贈る。
「その気持ちわかりますわ。ですがシルフォーネ様は多忙だそうで、半年先まで予定がおありだそうよ?」
「そうですの。それは残念」
今日のパーティは公爵家主催。
招待され集まっている人々はそれなりに家格が高く、耳も目も肥えている。
「私とある方から聞いたのだけど、今度開かれる和平式典に殿下直々に指名があったとか」
「まぁ、凄い!」
演奏家ならば誰もが夢見る事柄。
それが本当ならばシルフォーネ名は今以上に広まり、多くの人から賞賛を得るだろう。
「御歓談中失礼。その話、私も聞き及んでいますが、シルフォーネ様は乗り気でないそうですよ」
貴婦人達の会話に1人の男が興味を示し、割って入った。
「まぁ、どうして?とても栄誉な事なのに」
皆、首を傾げた。
そうこうしている間に次の演奏が始まる。
次はピアノとバイオリンの二重奏のようだ。
先程までお喋りに興じていた貴婦人達は、再び音楽に耳を傾けうっとりする。
この場にいる大半の人々は同じ反応をしていた。
そうでなかったのは極一部。
その内の1人。
この後演奏を控えているチェロ奏者の男は特に表情を曇らせていた。
そして「可哀想に」と、嘆いた。
ーー
「はぁ‥」
演奏を終えたシルフォーネは用意された豪奢な控え室で大きなため息をついた。
「駄目。全然駄目。最っ低だわっ!!」
苛立ちから、トントンと机を爪弾く。
ソロ演奏は最後まで気持ちよく弾き切った。
なんせ用意されていたピアノは一級品だったのだから、それに恥じぬ演奏を‥と、いつもより感情が昂っていたから。
ピアノは弦楽器のように持ち運ぶ事は出来ない。
だから、その日会場に行くまで「どんな子が自分を待っている」のか、いつも楽しみにしている。
今日招待されたのは公爵家。
公爵自身も音楽を嗜むと言っていたから、当然期待値は高かった。
広いフロア。
そしてその会場に見劣りしない、艶やかで存在感のある大きなボディに思わず見惚れ、目を奪われる。
蓋は既に開けられていた。
真っ白な白鍵。
曇り一つない黒鍵。
「我が家に昔からある一台なんだが。どうかな?」
「昔から?」
そう公爵は言ったけれど、とてもそうは見えない。
何処かに製造年月日があるだろうけど、公爵の目の前で確かめるのは同じ音楽を愛する者同士といっても無作法だと思いやめておいた。
公爵は白い口髭を指で撫でながら、自信ありげに
「弾いてみて。今日の為に調律済みだけど、違和感があったら教えて欲しい」
どうぞ。と、薦められた。
調律師の手が入っているならまず大丈夫だ。
安心して、先ずは高音に手を伸ばした。
キィンッ。
綺麗に響く。
次に低音部へ。
ドーンッォンォンォン‥。
予想以上の重低音。
ボディの大きさから期待していたけれど、本当に予想以上。
中央付近も柔らかな音が出て、文句の付けようがない。試しに滑奏もしてみると真横から「ポーンッ」と音が鳴った。
公爵が目で「さぁ何か弾いて」と誘っていた。
ーー
楽しかった。
今日は本当に、久しぶりに楽しいと思っていたのだ。
1人での演奏に特に大きなミスは無く、満足の出来。問題はその後の二重奏。
一緒に演奏をしたバイオリン奏者との相性が悪かった。多分、実力はそれなりにあるのだろう、なんせあの公爵が呼んだのだから。
そこは信じたい。
元々二重奏は予定していなかった。
彼の相棒が急遽体調不良になって、代わりに弾くこととなった。
彼の演奏を一言で言えば「ソロ演奏をしている」だろうか。
この手を止めても、この人は何も困らないのではないか?気づかないんじゃないか?
そう思いながら、最後まで付き合った。
後味が悪い。楽しくない。
楽しかった記憶すらも侵食して、心に歪みを作っている。
トンッ!
「っ!!」
一度も音合わせをした事がない相手だ。
音楽として破綻しないよう努力したつもり。
抑えに抑えて‥極限まで相手に合わせた。
『本来弾くべき旋律を捨ててまで!』
ーー
初めて音を合わせたのはピアノがメイン楽器でない公爵とだって同じだ。
彼との連弾は楽しかった。
多少ミスタッチがあろうが、ズレようが、自分が補えばいいと思って即興も加えた。
公爵もそれに気づいていたのだろう。
違う曲を挟んできたり、転調してみたりと自由奔放に演奏をし始めたから、ついていくのに必死。
でも楽しかった。
もっと一緒に‥そう思ったのだ。
「次は仕事で無く、個人的に招待したいな」
だから同じように感じてくれた公爵を好きになった。勿論それは恋愛感情ではなく、音楽仲間としてだけど。
差し出された手を握り返す。
「光栄です。ヘインズレグスター公爵とお友達になれるだなんて」
「‥ヒューゴで構わないよ。長くて呼びにくいだろう?シルフォーネ」
交渉はそう言ってパチンッと、お茶目に片目を瞑った。
「!」
「今度は私のヴィオラとやろうね」
まさかの名呼びを許され、驚く。
それだけ気に入って貰えた。
認めてくれた。
たった一度の連弾で、階級も年齢も飛び越えて繋がれたような気がした。
「勿論です!楽しみにしていますねヒューゴ!」
ーー
別に完璧を求めているわけじゃない。
多少のアクシデントだって楽しみの一部だ。
こんなにも嫌な気分になっているのは、バイオリン奏者が自分の存在を無視したからだ。
本来の相棒でないからって、これはあまりにも酷い対応じゃないか。
何もわからない素人が聴く分には充分だったかもしれない。実際演奏後、拍手は起こったのだし。
「‥‥んー、でもなぁ‥」
ようは自分が納得出来ていないのだ。
モヤモヤと胸が苦しくて、批判的な考えばかり頭をめぐる。
ヒューゴはあの演奏を聴いてどう思っただろう。
ガッカリしただろうか?
それとも‥。
感想を聞く事が少し怖い。
「あぁそうだ。あの人‥」
名前は知らないけれど、素直な感想を伝えてくれた人がいる。「今日は運が悪かったね」と。
それは演奏後、控え室に向かう廊下ですれ違った、チェロ奏者の男性だった。
彼からかけられたその言葉にほんの少しだけ救われたような気がした。
演奏直後、もっと自分に経験や力量があれば、あのバイオリニストとも上手くやれたんじゃないか?
別の誰かなら、彼の実力をもっともっと引き出せたんじゃないかっ!?
そんな風に思う気持ちに苛まれていた。
努力には限界がある。
あのバイオリン奏者は最後まで一度もこっちを見なかった。
必要とされなかった。
それだけが事実として強く記憶に残っている。
「悔しいな」
ギュッと拳を握り込む。
悔しいっ!悔しいっ!!
その想いが身体中に駆け巡ってはち切れそうだ。
そして別の誰かと比べる。
「ノアとなら‥」
以前固定で組んでいた相棒の名を呼んだ。
彼とだったら、こんな悔しい想いをする事は無かった。
新しい楽曲に取り組むとき、多少言い合いをする事はあった。
けれどそれはお互いの理想の音楽を奏でる為に切磋琢磨していたからで。
だからこそ耐えられたし、楽しむ事が出来た。
だけど最近は‥何を弾いていても『楽しくない』と何処かで感じている。
彼がいなくなってからはソロが殆ど。
物足りなさを感じて即興を組む事もあるけれど、今日のような不完全を感じる度に元相棒のノアを思い出しては「やはり彼が一番だった。相性が良かった」とやるせ無い気分を味わう。
「そういえば‥」
あのチェロ奏者にもヒューゴと同じように誘われた。
「よかったら今度私とも音を合わせてみないか?返事は私の演奏を聴いた後でいいから」
そう言って彼は名乗りもせずに胸にあったハンカチを渡してきた。
彼は「今日の出来」を正しく理解し、評価していた。
その上で誘ってきたのだ。
つまりそれなりに自信があって、それに見劣らない実力があるのだろう。
後悔している。
彼の演奏を聞かずに部屋に戻った事を。
だけどあの時はとてもそういう気分じゃなくて‥。
「あぁ。失敗した。もしかしたらノアと同等‥」
そこまで口にして
「馬鹿。本当に馬鹿。いつまでも引き摺って。今更‥どうしようもないのに‥」
ノアとはもう以前のようには‥。
目頭が熱くなって、視界が歪む。
「ふぇ‥」
涙が溢れ頬を伝う。
あの日「ごめんね」と謝る彼に約束したんだ。
これからもピアノを続けると。
「何で君が謝るんだ。何で君が弾けなくなったんだ!元は‥僕のせいなのにっ!」
ーー
それは突然だった。
ノアと音合わせしている最中に1人の女生徒が無言で入ってきた。
最初は部屋を間違えたのかと思ったが、それにしては様子がおかしかった。
そう。
おかしかったのだ。
ノアの呼びかけにも答えず、真っ直ぐに此方を見て。
「おま‥ければ‥」
ぶつぶつと何かを呟きながら近づく女生徒に不審を覚えたノアが彼女を追い出そうとした。
けれど遅かった。
彼女は「邪魔しないでっ!」と叫び、後ろ手に隠していたナイフを振り上げた。
彼女の事はよく知っていた。
学院内で首席を争う同じピアノ専攻だったから。
ケーテ・シルベスタン。
彼女は狂ってしまった。
日々比べられ、評価される事に。
入学して間もない、自分よりもはるかに歳下の自分に劣っていると思い込んで。
「ぐっ!」
痛みを堪える声と血臭。
嗅ぎ慣れないその匂いに吐きそうなった。
「どけっ!あん‥たがいなければっ!わた‥しがぁっ!」
嫉妬をぶつけられる事は今までにもあった。
けれど殺意は無い。
腰が抜けた。
「シル!逃げろっ!先生達を呼んでっ!」
ノアにそう言われたが、足が震えて立てなかった。
助けを呼ぶにも声が出なくて。
へたり込んだ床に散る鮮やかな赤と、ノアの背から覗き見た、狂気を宿したケーテの目が今も脳裏に焼き付いて忘れられない。
騒ぎに気づいた教師陣が駆けつけるまで、何も出来なかった。
「っ‥」
思い出すだけで今も苦しい。
ノアは手と腕に怪我を負っていた。
ケーテの振り翳したナイフによって切り裂かれたのだ。
ノアは一度も僕を責めることなく「君に怪我がなくて良かった」と、怪我をしていない手で頭を撫でてくれた。
僕は元凶のケーテを恨んでいる。
けれどノアは「忘れろっ」て悲しそうに笑うんだ。
「忘れて前のようにピアノを弾いてくれ」と。
「そんな音を出さないでくれ」と‥。
そんな事を言われてもわからない。
ノアの耳に自分の演奏はどう聴こえていたの?
ーー
涙が溢れた。
「ノアぁ、戻ってきてよぉ」
ノアがもう以前の様に弾けないとわかった時。
いっそ自分も辞めようかと考えた。
けれど出来なかった。
何処まで行っても自分はピアノが好きで、彼も「弾いてよ」と、望むから。
会いたい。
話をしたい。
また君と楽しく弾けるなら、僕はどんなに簡単な曲だっていいと伝えたい。




