中庭① 曲に願いを込めて
「もう一曲!」
そう請われる声を断って、ノアは宴席を抜け出した。
「っ!」
左手にピリッと痛みが走った。
手の甲から、腕にかけて走る裂傷痕の部分だ。
「いてて‥」
右手で撫で摩ったが、当然それだけで治るものでは無く、暫くズキズキと痛むだろう。
たった一曲なのに、ひどく疲れた。
怪我をする前はもっと自由に色々弾けたのに‥と、ノアはため息をつく。
後悔しても、もう遅い。
怪我をしてしまったのは、あの時判断ミスをした自分のせいなのだから。
過去の記憶が脳裏を過って、陰鬱な気持ちで裂傷痕を見た。生活する分には支障ないが、弦を押さえるに必須な小指が、思う様に動かせず酷く痛む。
今日弾いた曲の難易度は比較的優しいもの。
不自由になってしまった小指を殆ど使わなくていい楽曲だった。
趣味で偶に弾く分には良いだろう。
けれど、目指していた楽師の道は閉ざされてしまった。
すぐに諦めをつけられたわけじゃない。
半年程はどうにかならないかと悩んで‥このままでは生活に支障がでるギリギリまで粘って‥近くに住んでいた兄を頼った。
当然紹介されたのは、今まで経験した事がない商売事。何もかもが初めて。言葉遣いも最初はかなり注意された。
最近はようやく少し慣れてきたけれど、まだまだ兄の後ろを着いて歩くしかない。
「ん」
首元を緩めながらアーチ構造の外廊下を進み、中庭へ出た。
月明かりに照らされた静かな庭。
さほど広くは無いけれど、よく手入れされていて俺のお気に入りの場所だ。
そもそも商会本部に来る機会は少ない。
時折開かれる会議に最近は何故か新参の俺まで席が用意されていて、回を重ねる毎に胃が痛む。
つまり‥此処はそれが始まるまでの憩いの場だ。
今日あの場に居た人達の大半は俺にとって初対面だったけど、疲れることに変わりはない。
「ふぅ」
ようやく緊張から解放され、自然とため息がもれた。光を求め上へ上へと伸びる蔓性植物が絡む柱に背をもたれかける。
歓声が遠くから聞こえる。
ホールはまだまだ賑わっているようだ。
最後まで居残らなければならない義務は無い。
けど、あまりにも早々に帰るのも親族としてどうだろうか?
「うーん‥」
あの場に戻る面倒臭さから、誰もが納得してくれる帰宅理由を1人模索していると、不意に辺りが暗くなった。
空を見上げてみれば、厚い雲が三日月に被さり、その姿を隠していた。
地表は一気に闇に転じ、ノアがいる場所は建物から溢れる僅かな灯りだけが頼りとなってしまった。
月明かりだけを頼りに中庭に居た身として、室内に戻るにしても、このまま此処にいるにしても、これでは心許ない。
どうしたものか‥と考えていると、気まぐれな風が吹き込んできて、草木の表面を撫で揺らし始めた。
そして自身も同じ様に髪が少々乱されたが「どうせもう皆酔っ払っていて、気にも留めないだろう」と、手櫛で適当に直した。
今日の主役は自分ではないのだから。
目の前を白い花弁がひらりと通り過ぎた。
繊細で柔な花なのか、こんなそよ風程度で一枚また一枚と、花弁を散らす。
まるで最後の足掻きの様にひらりひらりと宙を舞い踊って、最後はゆっくりと地面に落ちた。
何気なくその花弁に手を伸ばし拾い上げる。そして鼻に近づけ嗅いでみると、とても甘い香りがした。
リリリ‥リーン‥リーン‥。
静寂だった中庭に秋虫の合唱が始まる。
それはあまりにも突然で、なんとも不思議な出来事だった。
ーーー
此処、ゼノス王国は製造業が盛んだ。
商人と職人が多いせいか『勇猛苛烈・生命の息吹きと変換を司る火の女神』と『忍耐柔和・知識と法・工業を司る土の男神』を重んじる事が多く、街で催される大きな祭りもその神々に感謝を捧げるものが大半だ。
隣国のカルデア王国は豊富な土壌と海を有する。貿易業が盛んな事から、自然と人が多く集まり、年々移民希望者が増え続けているのだとか。
そうとなると『小さな内輪争い』がどうしても起こってしまうが‥現カルデア王はその辺りの采配がとても上手いと聞く。
彼等は一見温厚で友好的に見えるが、己に向けられた刃には容赦ない。
流石『不滅円環・火伏を司る水の女神』と『平穏平等・慈愛を司る両性具有の太陽神』を信仰している。
そんな中、月女神という存在は国政に関わりのない、男女に関する『求愛』『癒し』『出逢いと別れ』といった恋情絡みのものばかり。
空から彼女が消えてしまうのは、太陽神と逢瀬を重ねているからだとか、嫉妬した星達が彼女を部屋に閉じ込めているだとか口々に言われている。
けれど‥『月と星のワルツ』では違う。
ある日、月女神は一等星から求婚された。いつも側にいた彼が突然どうしてっ!?と、月女神は驚く。
返事に困った彼女は彼から逃げる様に部屋へ戻って、頭からすっぽりと布団を被って隠れてしまった。
一等星はショックを受けた。
まさか、彼女が姿を消してしまうなんて思っていなかったから。
彼女に一目逢いたいと恋焦がれ、家を訪れドアの向こうから囁いた
『これまで僕は貴女の側にいられるだけで幸せだった。貴女の隣だから、これほど輝けた。けれど僕のこの想いが貴女にとって迷惑ならば‥封印しよう。どうか僕の言葉は忘れて、また皆に顔を見せて欲しい』と。
一等星にとって恋慕を封印するという事は自身の消滅を意味していた。
月女神からの返事は無く、一等星は諦め立ち去ろうとした時‥部屋の中から月女神の歌声が聞こえてきた。
『待って。行かないで。ただ驚いて‥恥ずかしかっただけなの。いつも側にいてくれた貴方が居なくなるなんて‥私は想像しただけで辛いわ』
星は扉を開け、布団を剥ぎ取った。
そこには今にも泣きそうな月女神が。
『消えないで、ずっと私のそばに居て』
『あぁ勿論だ。嬉しい、僕は今すぐ君の手を取って踊りたい気分だ!』
‥という。
その後はありきたり。
月と星は結ばれて、永遠の愛を誓う。
‥たまに月が雲隠れするのは夫婦喧嘩をしているんじゃないかと人々は口々に噂をするけれど、概ね大団円だ。
ノアはふっと笑った。
「押しの強ぇ兄貴と人見知りな義姉さんにピッタリだと思わないっすか?」
今は雲に隠れてしまっている月へ友達の様に問いかけた。




