無知の知
差し込み ギュッ_φ(・_・
「持ってきてるの?」
シル様は室内をキョロっと見渡した。
『何を』とわざわざ言わなくても、それが『バイオリン』である事にノアは当然気づいて
「あるよ」
短い返事とともに、後方の棚を指差した。
「久しぶりに君の演奏が聴きたいなぁ」
シル様の言葉にノアと私は互いに目線を合わせ、首を横に振った。
「‥時間が無い。それにもうすぐ仕立屋が来るからまた今度ね」
次の準備が差し迫っているのは本当の事。
うかうかしていると、今日の予定が終わらなくなってしまう。
けれどシル様もそう簡単には引き下がらなかった。
「えー2年半?ぶりの再会を祝して、ちょっとだけでいいから弾いてみてよ。これ一枚分だけでいいからさ」
そう言って、先程の楽譜をノアに差し出した。
ーーー
シル様とノアの押し問答はキリが無く、結局ノアは渋々了承した。
「本当に時間無いからな」
「分かってる。でも手抜きしちゃダメだよ。もしいい加減な演奏を僕の前したら、納得するまで何度でもやり直しさせるからね。はい」
何と後出しで、条件を付け加えた。
ノアは「全くお前は‥」と疲れたように溜め息を吐いた。
けれどいざ楽譜を受け取ってみれば、顔つきが変わり、真剣な目で楽譜を辿り始めた。
時間にすれば多分1〜2分だったと思う。
ノアが楽譜から視線を上げ、口を開いた。
「初見だから。上手くいかなくても、ご愛嬌ということで」
ノアの言葉にシル様は「はいはい」と返事をしながら手をヒラヒラさせた。
これからノアが弾こうとしているのは、さっき見たばかりの楽譜。
アデリン様がシル様に送った‥とされる物だ。
音楽に疎い私にとってそれは、似た様な記号の羅列にしか見えなかった。
けれどこの2人は当然理解していて、更にとても関心を持っているようだ。
それにしても‥と私は不思議に思う。
ついさっきチラッと見ただけなのに、本当にもう弾けるのかしら?
それとも、さほど難しい曲ではないの??
ノアはまだ弓の調整をしている最中。
私はその隙にシル様へコッソリ質問する事にした。
「んー。そうだなぁ。あの楽譜はそもそもピアノで弾く事を想定しているから、初見は難しいだろうね」
「ピアノ‥用?」
どうやら私はとても大きな勘違いをしているような気がしてきた。
楽譜って、もしかして楽器毎に違うものなの??
「シル様。不勉強で申し訳ないのですが、ピアノとバイオリンって‥違う楽譜を使うものなんですか??」
私の質問にシル様は目をパチクリさせ、さらにマジマジと見てきた。そして「あー‥うーん‥」と、腕組みをして黙り込んでしまわれた。
うっ‥視線が突き刺さるように痛いわ。
も、もしかして。
あまりに初歩的過ぎて‥呆れられてる??
少しくらい勉強しておくべきだったかしら。
でも主な仕事はノアの補佐‥日程管理や人との顔繋ぎだ。
知識が必須なら、私ではなく適任者を用意したはずで。だからと言って「私、何もわかりませーんっ!」と厚顔無恥でいるのも‥恥ずかしいわね。
見通しが甘かった。
せめて猶予が少しでもあれば‥。
不安と気まずさで、私はオロオロアセアセしてしまう。
そんな事を考えていると、シル様は「‥上手く言えないんだけど」と前置きをして、解説を始めてくれた。
主旋律と副旋律があること。
重音や弦楽器特有の運弓の事。
「‥つまり、あの楽譜に書かれた全ての音を弦楽器だけで完全再現する事は出来ない。と言うことですか」
普段聞かない言葉の数々に完璧な理解は追いつかないが、最低限言わんとすることはわかった‥と思う。
私が両掌を眺め答えると、シル様はうんうんと頷いた。
「ピアノとバイオリン。どちらが主旋律を受け持つかで、同じ曲でも印象が随分変わるとおもう」
「そう‥なんですね」
ふむむ。
私はシル様から聞いた事を出来るだけ頭に刻みつける。
「ご説明頂き、ありがとうございました」
「いやいや。これからは僕たちがお世話になる番なんだから、これくらいなんて事ないよ」
「慣れてしまえばそう難しい事はないですよ。‥まぁ、先日、カトリーヌ殿下が前触れもなくコチラにいらっしゃった時は流石に私も焦りましたが‥」
「えっ!?」
目をパチクリさせている。
どうやらそこまで知らされて無かったらしい。
「すみません。てっきりご存知かと思っておりました」
シル様は首を横に振り
「知らない。本当初耳。え?僕のせいでそんな大事になってたの??ヤバ‥」
さーっと。顔色を青ざめさせていた。




