旧友
三 旧友
大きな市立病院の最上階の特別室でもう何ヶ月も入院している男がいる。黒田はその男に会いにきた。ネームプレートには数ヶ月前に来た時と同じ「左右田 龍一」の名があるまま。特別室の客人にしては似つかわしくない貧相な服装の老人だ。ガラスに映る黒田は白髪混じりの口髭と顎髭を蓄え、痩けた頬が不健康そのもの。黒のジャンパーにジーパンに使い古した革製の肩掛け鞄を身につけている。死神や貧乏神という表現が的を射ている。「ハイエナ」と呼ばれ、幾つものスクープもものにしてきた。そんな男がかつてはヒーローと呼ばれる組織にいたこともあった。
「やあ黒田」
「まだ生きてるじゃないか。数ヶ月前にもう死ぬと言っていたのは誰だ」
患者は咳き込みながら笑って、起こしたベッドの頭を少し下げた。息苦しそうに呼吸をしながら息を整える。
「まだお迎えは来んかった」
「そうか」
患者は顔色が悪くやせ細り、目元は黒かった。次はないな、と黒田は悟った。
「またパソコンを見ていたのか。死に損ない」
「会社の状況は最後まで見ていたい。私の育てた可愛い子供だ」
デスクトップには世界的企業のロゴがある。患者は「ソウテック」左右田グループの会長だ。車から電化製品、住宅、医薬品など多岐に及ぶ業界で業績を上げ続ける会社。その会社の生みの親だ。
「今日は取材だったか」
「違う。お前の顔を見にきた」
「おかしいな、警備にも病院にも、家族以外はダメだと言ってあったのに」
「俺は家族に含まれてるんだろ」
左右田は息切れをしながら笑みを浮かべる。
「仲間に悪い、とか、思わないのか」
「俺は俺の心が決めた方にしか行動しない。俺たちがあの時に戦ったからこそ、お前の会社はいいものを生み出せた。だから世界はこんなに便利で豊かになったんだ。それは俺たちの成果でもあるだろう、教授」
「お前はあの頃、私をずっと付け狙っていたからな。どうしていまだに記事にしないでいる。お前は誰よりも俺を知ってる」
「そんなことをしたら俺は闇に葬られる」
「そんな物騒なことが起きるのか」
左右田は声を上げて笑う。
「何人そういう例を見てきたか。それに、知っていて言わずにいるのもなかなか愉快だからな」
「そうだろう。人々が慌てふためいて人の掌で踊る様は滑稽だろう」
笑ってむせこみ、鼻カニューラの管を鼻に押し当て、深呼吸を繰り返した。
「なんで今日はマスクにしてない。そんなに苦しそうなのに」
黒田は不機嫌そうな表情に心配を隠す。
「話しにくいから嫌いなんだ。締め付けも。何をどうしたって呼吸が苦しいのには変わりない。だったらこのほうがストレスが少ない」
左右田はずっと息が上がったままだ。
「新しい私はもう次の人生を歩んでいる。古い私はいつ死んでも構わない」
「新しいお前?」
「そうだ。私はお前たちの前から姿を消してから、ただ何もしていなかったと思うのか。私は自分が老いても自分を残すために種まきをしていたんだ」
「お前は自分の未来に種まきはしてきたのか」
不意に問われ、黒田はしばし考えて口を開いた。
「俺は根無草でフリーライターだ。弟子や後輩がいるわけじゃないし、天涯孤独で結婚もしていない。誰の味方でもないし敵でもない。なんの種も蒔いてない。今を生きるだけだ」
左右田の骨と皮だけになった薄い胸が激しく上下する。
「お前らしい」
酸素モニターの数値がひどく下がってきた。朦朧としているのか左右田と目が合わない。
「大丈夫か。看護師を呼んでおく。俺はもう帰る」
黒田はナースコールを押す。左右田は小さく頷いた。
「最後にお前に会えてよかった」
黒田は頷いた。
「はい、どうされました」
スピーカー越しに看護師の声がする。
「患者が息苦しそうだからすぐ見にきてくれ」
それだけ言うと、黒田は振り返りもせず病室を出ていった。
翌日、黒田は黄助の営む喫茶店「黄色いハンカチ」を訪ねた。住宅地にあり、駐車場は二台分ある。店の周りにはパンジーが植っている。壁が黄色の小さな喫茶店だ。店には二階と奥があるがそこは黄助夫婦の自宅になっている。
扉を開けるとチャイムがチリンチリンと鳴った。コーヒー豆のいい匂いが充満しており、我先にと扉から外へ出ようと押しかけてくる。店内はウォールナットの焦茶色で統一され、カウンターに椅子が四脚と二つのテーブル席があるだけの狭いコーヒー屋だ。カウンター内で腰掛けてテレビを見ていたマスターが声を上げる。
「黒田!久々じゃん!元気だったか!」
黒田と正反対でぽっちゃり太り、ニコニコ笑う顔が福の神のような爺さんだ。誰の趣味だか分からない漫画のキャラクターがデザインされたTシャツにエプロンを無理やりつけている。金太郎かなにかみたいだ。
「おーい!クミちゃん!黒田が来た!」
店の奥に声をかけると小柄な老婆が現れる。白髪混じりの髪を一つに結んでいる。うす紫の眼鏡をかけ、黄助と同じエプロンをつけている。
「黒田さん。お久しぶりです。うちの人がうるさくてすみません。今コーヒーを淹れますね」
黄助の嫁、久美子は若い時からコーヒーショップで務め、隊が解散してからは黄助と結婚して一緒に店を開いた。豆の仕入れや料理は久美子が行い、黄助は接客を担当していた(ほとんどマスコット)。
「お前、青山に会ったか?」
珍しく神妙な面持ちで黄助が聞いた。
「会ってない」
「なんか、再結成するから力を貸してほしいとか言ってたぞ」
「は?」
こんなジジイの力で何を。黒田は唖然とした。
「なんかさ、教授がまた出るって話だ。マリが今度こそ狙われるからって。で、俺にも声をかけにきたんだけどさ」
久美子がカウンターの中に立つ障害物、黄助をぐいぐい押し退けて静かにコーヒーを黒田に出すと厨房へ姿を消した。
「考えさせてくれって言ったよ。だってさー、考えてもみろよ。俺らジジイだぜ。俺なんかもう膝がガクガク」
巨体を支える老いた膝は確かに悲鳴を上げていそうだ。
「クミちゃん一人に店を任せるのもな。クミちゃんは白内障の手術したとこだぞ。かといってバイトを雇うほどの余裕もない」
カウンターにもたれながら黄助は続ける。
「もうさー、俺らの時代じゃないじゃん。いつまで俺ら、ヒーローやんの?随分前にもう引退してんだよ。あの頃のジジイ仲間の敵が戻ってくるからって懐かしの顔ぶれで集まる必要なんてあんのか?同窓会するわけじゃないし」
コーヒーを見つめながら黒田は黙って聞いていた。
教授はもう来ない。
「誰がマリを狙いにくるなんて言い出したんだ?大袈裟男の赤城か?」
「マリだよ」
「…マリは痴呆だろう」
「あ、知ってんの?」
「噂でな」
教授と会っている裏で黒田はかつての仲間のことも調べていた。痴呆の婆さんの言うことを真に受けて信じるのも腑に落ちない。
「俺も会った訳じゃないし分かんないんだけど、マリは痴呆になってから予言をしてるらしくて。だから絶対そんなはずない、とも言えないらしくてさ。マリの調子もどんどん悪くなってて、赤城もピリピリしちゃってるみたい」
「ふーん」
「まあ、そんなわけで。お前がきたらまた話をしに来て欲しいって青山が言ってた。伝えたぞ」
「それで、お前はその話が終わったらまた教えに来いよって言ってるわけだな」
「そういうこと」
黒田はコーヒーを素早く飲み干すと小銭をテーブルに置いた。
「いいよ。お金は」
黄助は黒田に返す。
「じゃあ、久美子さんの白内障の見舞金」
黄助は声を上げて笑うと受け取った。
店を出る間際、黒田はなんとなく黄助に問うた。
「黄助は未来への種まき、してきたか?」
「種まき?下ネタ?」
嬉しそうに下品に笑う。
「そうだなあ。うちは娘も息子ももう家を出たし自立してる。可愛い孫もいる。そう言う意味では未来に繋がってるんじゃないのか。あとは、自分がどう生きたいかって話だけど。俺、人と話してんのくらいしか楽しみがないからこの店は死ぬまでやりたいんだよね。毎日お客さんが来るの、楽しみだし。クミちゃんのコーヒーも楽しみだし。毎日に楽しみの種まきしてる、みたいな?毎日人と話すのが楽しみで毎日クミちゃんのご飯とコーヒーが楽しみ」
この男はもう戦場に立たせるべきじゃない。それは、「適材適所」の問題で。
黒田は強く感じた。
「お前が守るべきはこの店だな」
「そうかも」
「俺もまた来るからちゃんと守っておいてくれ」
「待ってるから、いつでも来いよ。ここはお前んちみたいなもんだ」
黄助はカウンターから大きく手を振って黒田を見送った。
黒田の姿が消えてから、厨房を覗くと久美子が頭を抱えて一人で座っていた。
「クミちゃん、大丈夫?」
「マリさんが消えることを考えるとすごく心配だし嫌なのに。だけど、あなたがもし助けに行ってしまったら。もう帰ってこなくなったら。そう考えると苦しい。私もあなたが毎日楽しそうにしているのを見ているのが好き。コーヒーやご飯を誰よりも美味しそうに食べてくれるのをみるのが幸せ。この先もずっと見ていたい」
久美子は涙を流し始めた。
「クミちゃん、泣かないで。俺、行かないよ」
黄助は優しく久美子を抱きしめた。
俺はクミちゃんの笑顔が大好きだ。隊員時代、毎日クミちゃんのいるコーヒー屋に通った。なんとか顔馴染みの常連になってデートする仲になって。だけどいつも俺は明日死ぬかもしれない状態でクミちゃんを不安にさせたくなくて、守る自信もなくて、プロポーズだってなかなかできずにグズグズしてた。そんな時に隊が解散することになって俺はいてもたってもいられなくてすぐに指輪を買ってプロポーズした。
「俺、次の仕事はクミちゃんと喫茶店したい!内定下さい!」
俺、バカだし、恥ずかしくて普通のプロポーズなんかできなかった。クミちゃんは笑って
「黄助さん、私はとても厳しいですよ。覚悟してくださいね」
と言って受け取ってくれた。クミちゃんの両親はお店を営むことに反対だったけど、クミちゃんの料理やコーヒーへの熱意に負けて、俺との結婚も許してくれた。俺の家「森山家」はごく普通の農家だ。ばあちゃんと父ちゃんと母ちゃんと弟と妹がいる。俺の家族はみんな大喜びだった。結婚の挨拶の時もたくさんの野菜をクミちゃんの両親に田舎から持ってきて、驚かれた。
俺は誰かのために戦いたかった。元々自衛隊に入隊していた。俺と赤城は自衛隊からの引き抜きで新設しされた特別部隊に所属していた。赤城は分かる。元から真面目で正義感の塊で。俺は努力はするけど、人並みにしかなれない凡人だった。上官からしょっちゅう怒鳴られてたし、ずっと向いてないなとは思っていた。それなのに引き抜かれて疑問に思っていた。赤城は「お前は努力の天才だからだ」なんていつも言ってくれていた。
誰かのために戦いたい、なんてかっこいいこと言ったものの、実際喫茶店を始めて毎日お客さんと笑っていたらもうそんな世界に戻りたいと思わなくなった。
クミちゃんといたい、という思いはクミちゃんのためにじゃない。俺のため。俺はクミちゃんとのこの生活を守りたい。もう戦わない。人から何を言われても、あと少しの人生、大事な人といたいんだ。
黄助のお店を出たあと、住宅地の細い道を黒田は辿っていた。昔よりも家が増えていて景色が違うが合っているはずだ。記憶を頼りに進んでいくと大きい家の立ち並ぶ区画にやってきた。目的の家は昔と変わらず白く塗った塀と薔薇の垣根が印象的だ。表札には「水野」とある。黒田はインターフォンを押す。
「はい」
時は経ったが変わらぬ知人の声がした。
「黒田です」
黒田が答え終わる前に扉が開いた。
「黒田君まで来てくれるなんて!久しぶり!」
歳は取ったが変わらず「可憐」という言葉の似合う桃子の姿があった。
「今ね、青山君もちょうど来てたの」
黒田をリビングに招き入れる。リビングテーブルには歳をとった青山の姿もあった。青山は珍しく目を丸くした。
「黒田」
「久しぶりだな」
二人は並んで座った。桃子は嬉しそうにティーカップを持ってくると黒田に差し出した。可愛らしいクッキーもお皿に出されている。
「こんなに懐かしい友達が二人も来てくれることなんて本当に久しぶり!」
部屋には家族の写真がたくさんあり、足元にはミニチュアダックスフントが駆け回っている。絵に描いたような「幸せな家庭」だ。
「青山君も今来たばっかりなの。二人が来るなんて、どんな用事なの?」
青山は少しカップに口を付けると話を始めた。
「時間がもったいない。単刀直入に言うよ。黒田にも話したいと思っていたことだ。マリが教授に狙われるみたいなんだ。どうにか守りたい。力を貸してくれないか」
桃子の顔から笑顔が消えた。
「その話は黄助に聞いたから桃子にも会いに来てみたんだ。そしたら、ちょうどお前に会えた」
黒田は紅茶を啜りながら表情ひとつ変えずに言った。
「マリのことが大事な気持ちは分かるが俺たちは歳をとった。昔と同じことをしろと言うのか?例えば教授がマリを殺すために刺客を放つとして、周りの住民の家まで壊すほどの規模で来るのか?来たとして、こんなジジイに何させるつもりかお前たちは分かってるのか?」
黒田は続ける。
「ジジイが人を助けようと自分たちで動こうとするのが間違ってる。もっと実りのあることをしていくべきだと思うぞ」
「お前の言う実りってなんだ」
青山が口を開く。
「次のヒーローを見つけるとか育てるとか、とにかく俺たちが前線へ出ることが得策でないのは確かだ」
「じゃあ国の組織を作ってもらわないと」
「今の時代、そんな枠に囚われていたら何も守れないぞ」
青山は黙り込んだ。
「法律を守ってすることだけが『正義』なのか。お前は大会社の社長の親だろう?お前たちにしかできない発想やいろんなもんがあるはずだ。お前が育てた息子の中に、お前にはないアイディアもあるだろう。慌てる気持ちは分かるけど、教授はバカで野蛮な奴じゃない。確実に進めたほうが賢いと思うぞ」
黒田は出された紅茶を飲み切った。青山と桃子は黙り込んでいる。
「そうだな。私は気が焦っていて冷静ではなかった」
「赤城がうつったんだろう」
青山と桃子が薄く笑う。
「桃子は最近どうしてたんだ?」
黒田が問う。
「私?」
桃子は黒田におかわりの紅茶を注ぎながら答える。
「子育ても終わって主人と二人で平和に暮らしてるわ。主人は家にいるのが苦手だからシルバー派遣のバイトで駅前の自転車置き場の管理に昼間は行っているわよ」
「お前は?」
「いつもと変わりなく。家事したり犬の世話したり、お友達とお茶に行ったりテレビ見たり。本当に平凡なお年寄りの生活。黒田君は?」
「俺は昔から変わらない。気になることを調べに行って話を聞いて、時には探ったりして記事にする。それだけだ」
「今でも変わらず、か」
青山は寂しそうに呟いた。
「私は、皆で戦っていた時が一番生きている感じがしていた。そのあと普通に会社に勤めて、退職して。今は時間を持て余している」
「じゃあ、実りについて、何か考えてやってみたらどうだ。この先に何を残すのか」
黒田は二杯目の紅茶を飲み干すと立ち上がった。
「話は済んだ。俺はじっとしてるのが苦手だからもう行く。赤城の様子も見にまたこっちから近いうちに行くと伝えてくれ」
「ああ」
二人がゆっくり立ち上がる。
「見送りはいい。紅茶、ご馳走様」
そういうと黒田は帰って行った。
「相変わらずだな、あいつは」
「でも、そこが安心するわね」
桃子はクッキーを手で割って小さくすると口に含んだ。
「桃子にも桃子の人生がある。協力するかしないかはまた考えてくれたらいい。私も私たちにできることをもっと考えてみる。違った形で」
桃子はにっこり笑った。
「あら。昔の青山君の顔ね」
桃子は少し寂しい気持ちになった。
青山を見送った後、桃子は流しに食器を運ぶだけ運ぶとソファに体を沈み込ませた。
私はあれから何をしてたんだろう。
隊の中では紅一点で若く可憐で美しかった。昔からチヤホヤされて育った。「名前の通り花のように美しい娘さんね」と言われて鼻が高かった。「寿退社をする」と決めていた。相手は赤城武。強くて逞しくて誰にも分け隔てしない。誰から見ても美男美女でお似合いの二人。桃子はそう決めていた。
だが、マリが現れてから、全くもって面白くない事になった。赤城はマリばかりを気に掛け、二人は距離を縮めていく。邪魔をする隙すらなく、ついに彼は同棲を始めてしまった。
周りから「略奪女」と見られることを恐れて、皆の前では優しいふりをしてマリに近づいたり赤城に近づいたりしていたが二人の絆に綻びが生まれることはなかった。
隊の解散後は歳をとって取り残されることを恐れた桃子は昔から一途に言い寄ってきていた水野忠と結婚した。水野は真面目で優しいが面白味のない男だったが仕事はよくできた。旦那としては文句のない男だった。二人の娘を授かり、成長し、結婚し孫もいる。まさに順風満帆。だが、桃子の心はいつも虚しかった。退屈凌ぎに友人たちと買い物に行き、お茶をしたりランチを楽しみ、芸能人や身の回りの人間の愚痴を言い合う。
「桃ちゃんはご主人、優しいしお金あるし、愚痴なんてないでしょ」
「そうねえ、んー。ないかも」
「こんな年になっても惚気?」
出してないだけで桃子からしたら全部に文句しかなかった。
だって、赤城君じゃないし!
「私はどう生きたかったのかな」
桃子はふと呟いた。
「お母さんはお母さんの生きたいように生きていいんだよ」
「わあ!びっくりした!さくら、いつの間に来てたの!声くらいかけなさい!」
「今きたら、お母さん、ソファに倒れてたから寝てるのかと思って黙ってた」
いつの間にか台所に立つ、次女の姿に声を上げて驚いた。
ショートカットにパーカーを着て、印象は桃子とは違うが顔はそっくりだ。
次女のさくらはシングルマザーだ。小学生の息子が一人いて、近所のアパートに住んでいる。
さくらは本当はずっと同性愛者であることに悩んでいたが、親のためにどうにか「家族」を持とうと努力した。だが、やはり心のない相手との結婚生活は無理だった。さくらは桃子と忠に告白し、離婚を決めた。
さくらは食器を洗いながらクッキーを摘んで頬張りながら言う。
「私はお母さんが何かに耐えながら生きてるの知ってたよ。もうそういう我慢、やめちゃっていいんだよ。お父さんといるのが嫌だったら私と娘と住んだっていいんだし、パートをやりたいならやったっていいんだから」
「でも、私、おばあさんよ」
「だから何」
さくらは洗い物を終え、手をぶんぶん振って水気を飛ばすとまたクッキーを頬張った。
「お母さんは人を笑顔にする。今からだって遅くない。人に関わること、やってみなよ」
「バイトなんかに出たら、ご近所さんに家のことを心配させるし」
「噂なんかよりお母さんの人生の方が大事。キラキラ働いてる姿を見せたら誰も何も言わなくなるよ」
「い、今まで桃ちゃんの苦しみに気づけてなくてごめんね」
桃子とさくらの会話に突然乱入者が出現。二人は大声を上げた。
「お父さん!いつも気配消してるのやめてよ!」
「さくら!あんたもお父さんのこと言えないのよ!」
交通安全の文字がデカデカと書かれた蛍光イエローのベストを着た忠が桃子の前に出ると頭を深く下げた。髪を仕事の時と同じく七三に分け、四角いスチール眼鏡をかけた小柄な男だ。
「今まで、ごめんね。我慢もさせたくないし、好きに生きて欲しかったんだけど、君は文句も言わないでいつもニコニコして頑張ってくれてて。今まで本当にありがとう。さくらもゆりも、問題なく育ってくれたのは君のおかげだよ」
忠は顔を上げると床に姿勢を正して座った。
「僕、家事は苦手だけど、桃ちゃんが働きに行ってる時はちゃんとやるし、料理も勉強するよ。だから、桃ちゃんもやりたいこと、やって」
桃子は今までこの伴侶が最高だと思ったことはなかった。弱々しくて桃子の顔色ばかり伺って、赤城のように男らしくない。一緒にいても「お似合いのカップル」と言うより「召使いとお嬢様」という構図になっているのが面白くなかった。
「分かった。じゃあ喫茶店の看板娘になってみようかしら!」
「楽しそうでいーんじゃない?やってみようよ」
さくらがスマホを手に桃子の隣に腰掛けた。
桃子はまだ見ぬ世界に、年甲斐なく胸が躍っていた。