第1話その5
バイト初日、俺は再び英さんの家のマンションを訪れた。現在の時刻は午前9時、10分前。自分の家からここまで自転車と電車を使って1時間かかる。だから朝の7時台には起きないと間に合わない。
『今日7時に起きたけど朝の7時に起きたの、この前小田川とビデオ通話した時以来だな』
眠すぎてあくびが止まらない。まさかまた7時に起きなければいけない生活に戻るなんて。
あくびで大きく開いた口を手で押さえながらエレベーターのボタンを押す。エレベーターの中に入るとまたあくびが出始め、再び手で押さえてから9階のボタンを押した。
『しかも試用期間開けたら9時じゃなくて7時からになるんだよね?5時に起きないといけないなんて学生時代より早いんだけど?』
申し訳ないけどこれは無理だわ〜と思った。俺は1ヶ月で辞めることを心の中で決意する。
寝惚け眼を擦りながらエレベーターを出て外廊下を歩く。ドアの前に立つ。「909号室 英」というネームプレートを見て確認してからチャイムを鳴らした。しばらく経ってインターフォンから、
「今、行きます」と英さんの声が聞こえた。
「おはようございます」とお互い挨拶して、
「今日からよろしくお願いします」と、英さんから頭を下げられた。
俺も同じように、
「こちらこそよろしくお願いします」と、言ってお辞儀する。玄関には里桜名もいて俺を出迎えてくれた。
「部屋の説明をしますね」
と、英さんは俺をリビングに通してから話した。
「まずこの棚に入ってるのは里桜名のおもちゃと絵本。里桜名が棚から取り出したら片付けさせてください」
「片付けって里桜名……ちゃんは自分でできるんですか?」
「里桜名で良いですよ」
ふふっと、俺のちゃん付けにおかしそうに笑う。
「はい。里桜名は一人で物を片付けることはできますし一人でお着替えもできます」
「え!?そこまで!?三歳でそれってすごくないですか?」
「ですよね。里桜名はだいたい一人でなんでもできちゃうんです。あ、なんでもっていっても全部できるわけじゃないし手伝わないといけないときもありますが」
「そうなんですね」
むしろそうじゃないと3歳児って思えないんだけど?
「私の娘なのに私と違ってすごくしっかりしていて本当にいつも頼もしいんです」
里桜名が寄ってきて英さんに抱きつく。娘の頭を優しく撫でる姿は母親そのものだった。
何がどこにあるかの説明を一通り受けて、今日一日することと気を付けるべきことを教わる。里桜名は他の子と比べて成長が早いようで何が良くて悪いのかもほぼ理解できているらしい。
「あまり手がかからない子なんですよ。でもまだ三歳なのでできるだけしっかり見ててくださいね」
「はい、もちろんです」
『というか相手は三歳児なんだから、よく見てないと何をしでかすか分からないでしょ。いくらしっかりしているとはいえ』
どれだけしっかりしているかも分からないし、そもそも親の評価は当てにならない。自分の子どもに対して過大評価する親って少なからずいるだろうし、この人もそうかもしれないのだ。
「では、後はよろしくお願いします」
「はい」
俺と里桜名は玄関で英さんを見送る。彼女は自分の娘に、
「里桜名、君塚さんと仲良くしてね」と、手を振った。
「うん」
里桜名も同じように手を振る。そして……母親が行ってしまったと理解したとき、少し寂しそうにしてたのは……、
『気のせいじゃないよな……』
終始、ポーカーフェイスをしているけど流石にそれは表に出るのか。
『無理もないよな。三歳って母親に甘えたい時期だろうし』
里桜名はドアのほうをじっと見ていた。母親が出かけて行ったことは知っている。けれど、それでもじっと見ていた。
『もしかしたら引き戻して帰ってくるかもとか思ってんのかな?』
なんか俺まで 悲しなってきた。
もうすでに、英さんが里桜名に朝ご飯を食べさせていた。掃除や洗濯、食器洗いも一通りは終えているらしかった。昼の12時に里桜名にお昼ご飯を食べさせるまで俺はすることがなかった。
『することがないって言っても里桜名の面倒は見ないといけないんだけど』
こういう時って俺から積極的に話しかけて一緒に遊ぶべきなのか?それとも本人から声を掛けてくれるまで見守るべきなのか?
『今まで小さい子の面倒なんて見たことないし、何をすればいいかなんて分かんねー』
里桜名は棚からクマのぬいぐるみを取り出して、一緒に絵本を読み始めた。
俺はリビングのテーブルの側にあったイスに座ってその姿を見ていた。
『楽しんで……いるんだよな』
3歳児にしては終始落ち着いている。このぐらいの子ってこんなに落ち着いているもんだっけ?
里桜名が窓の外を見た。リビングの奥の方に窓があり、その向こう側にはきれいな青空が広がっていた。
ぬいぐるみを置いて翼を羽ばたかせてその窓の方に飛ぶ。窓の下から1.5mくらいの高さで静止して窓に手に突き、その外側をじっと見ていた。
『そういえばこいつ堕天使だった』
当たり前のように飛ぶからそれが異質なことだと全く気付かなかった。
『本当に人間じゃなくて魔族なんだな』
里桜名は窓の外を見る。ただひたすら見ている。
『空を見て何が楽しいんだろ?』
もしかして空に飛行機か何か飛んでいるかもしれないと思った俺は窓の方に行き里桜名の隣に立った。
『特にこれといって変わったものはないな』
ごく普通の青空。雲が一つ、二つ、三つ、四つ……と色んなところに点在している、ごく普通の青空だった。
『ま、日差しが暖かくていいなとは思うけど』
今は春、気候も穏やかでぽかぽかしていて絶好のお出掛け日和。
『もしかして外に出たいって思ってるのかな?』
危ないから外には出さないでと言われている。でも小さな子どもとはいえ、家の中にずっといるのはつまらないんじゃないか?
『というか、こいついつまで空見てんだ?』
時計見たら10時を過ぎていた。
『こいつそんなに空好きなのか……?』
この空のどこが良いのか分からないけれど、そんなに好きなら仕方がない。俺は里桜名の青空鑑賞を邪魔しないように、ただ隣にいて空を眺めることにした。