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兄妹

「兄上、ご気分はいかがですか」

 椅子にうずもれるように座ったカークの呼吸がようやく落ち着いてきたところで、フレイヤは兄に静かに声をかけた。

「もう少し詳しい話がしたいのですが」

「ああ、うむ」

 まだ青い顔のカークは、それでも頷いて右手を挙げた。

「大丈夫だ、大まかの事情は呑み込めた。お前と第二王子との婚約が、“夜空”を奪われてしまったせいで破棄され、父上は倒れ、義母上は」

 そこまで自分で言ったところで、カークは口元を手で押さえた。

「うぷ」

「吐くなら、窓からになさいませ」

 フレイヤは窓を指差す。

「床を汚さぬように」

 だがカークは、こみ上げてきたものをどうにか堪え切った。

「私とて、この城の城主代理だぞ」

 苦いものを飲み込んだせいで目に涙を滲ませながら、カークは言った。

「それくらいのことを受け止めきれぬ男ではない」

 ああ、そうだった。この責任感。

 フレイヤは、また呼吸を荒くし始めた兄を苦笑混じりに見た。

 この生真面目な責任感こそ、カークの城主としての美点でもあり、フレイヤが早馬を兄に飛ばさなかった理由でもある。

 強い責任感に見合うだけの器量を、今の兄はまだ持ち合わせていない。

 それでも役目は重くなっていく。そのことが彼を苦しめているのだろう。

 しかし自分でも言った通り、今この城の統治者はカークだ。話を聞いてもらわなければならない。

「兄上は先ほど、賊の行方を追っているとおっしゃっていましたが」

 フレイヤは言った。

「進捗はいかほど」

「うむ」

 どうにか呼吸を整え、カークは頷く。

「賊は、ゴルルパだ」

 室内に二人きりだというのに、カークは声を潜めた。

「逃げた後を追わせたら、賊の潜んでいた辺りにゴルルパの痕跡があった。ということは“夜空”はすでに大族長ウルグクの手に渡っている可能性が高い」

「そうでしょうね」

 驚く顔も見せずに、フレイヤは頷く。

「どう取り戻すおつもりですか」

「軍の力を背景にして、“夜空”と賊の身柄を引き渡せ、とウルグクを圧迫する」

 カークはなおも声を潜めたまま言った。

「多少時間はかかるであろうが、我らには正面からの戦闘で何度も勝ったという強みがある。ウルグクも簡単に事を構えようとはするまい。取り戻せる可能性は高いと見ている」

「兄上、それでは間に合いません」

 フレイヤはきっぱりと言い切った。

「なに」

 カークは怯んだような目をフレイヤに向ける。

「何に間に合わぬ。お前と王子との婚約か」

「婚約のことはもういいのです」

 フレイヤは首を振った。

 怜悧な表情をしたエルスタークの顔が浮かんだが、もう胸が痛むことはなかった。

「正式に破棄されてしまった以上、今さらどうなるものでもないでしょう」

「それでは」

「恐れなければならないのは、“夜空”を取り戻そうとして交渉に時間を費やし、その間に錯乱した父上が王都でむやみに動いてしまわれることです。父上の行動次第では、アステリオ家は今度こそ全てを失います」

「ばかな、父上がそこまで愚かな行動を」

 カークは首を振って妹の言葉を否定しようとした後で、つらそうな顔でフレイヤを見た。

「そこまでなのか、今の父上は。あの女狐におかしな薬でも盛られているのではないのか」

 義母ルーシアのことを女狐と呼んだカークは、最初から彼女に好感は抱いていなかった。その気持ちは、フレイヤにも理解できた。

 けれど、父の醜態の全てをルーシアの責に帰すこともまた正しくないと、フレイヤは知っていた。

「いいえ」

 だから、フレイヤはまたきっぱりと断言する。

「父上ご自身が判断されてきた結果です。父上は王都で、全てを誤り続けてきたのです」

 そう。父は全てを誤ってきたのだ。

 ルーシアとの再婚も、その後の無様な右往左往も、そしてフレイヤとエルスタークとの婚約と引き替えに“ソレータルの夜空”を差し出そうとしたことも。

 ルーシアの入れ知恵があったにせよ、それらは全て、父の判断だ。

「戦場では一度も過ちなど犯すことのなかった父上が」

 カークは呆然と呟いた。

 戦場での雄々しかった父の姿は、フレイヤにとってはもうだいぶ遠い。

 しかし、今の醜く太った父の姿を目にしていないだけに、カークには今もなお信じられない気持ちが強いのだろう。

 兄の心境を考えるとフレイヤの胸も痛んだが、それでも言うべきことは言わなければならなかった。

「今、“ソレータルの夜空”を失った我が家は非常に難しい立場にいます。父上のシェナイでの華々しい勝利など霞んでしまうほどに」

 フレイヤの言葉に、カークは低く呻いた。

「王都での父上の度重なる失策に加えて、“夜空”を奪われたことでアステリオ家の価値がさらに失われつつあるということか」

「はい。あの宝石こそ、我らアステリオ家のゴルルパに対する勝利の象徴。だからこそ王国の“護国の三宝”の一つに数えられているのですから。あれが我らの手になければ、このシェナイを治める家は別にアステリオ家でなくともよい、という話になるではありませんか」

 それは今の段階では大げさな話ではあった。父がよほどのことをしなければ、アステリオ家がいきなり取りつぶされるようなことはないだろう。

 少なくとも、アステリオ家がいまだに王国の西の守りの要であることは間違いないのだから。

 だが、王都の事情を知らない兄にはそれは分からない。フレイヤの言葉は重い真実味を持って響いているだろう。


 それに、完全な嘘ではない。


 このままいけば、実際にアステリオ家がなくなってしまうのも時間の問題だろうとフレイヤは思っていた。王家とて、アステリオ家に代わって西を守る貴族をすぐには用意できないが、それは今すぐにはできない、というだけのことだ。

 いずれは、できる。

「ですので、交渉などしている暇はありません」

 フレイヤは言った。

「早急に“夜空”を取り戻さねば」

「戦をせよと言っているのか」

 すっかり追い詰められた態のカークの語尾が微かに震えた。

「“夜空”を取り戻すために、ゴルルパに戦を仕掛けよと」

「それも一つの方法ではありますが」

 フレイヤは兄の言葉を認める。

「ですが、軍の準備にも時間はかかります」

「そうだぞ」

 カークは慌てて頷いた。

「思いついたからといって、今日明日にいきなり動かせるようなものではないのだ、軍とは」

「ですから、私が取り戻してまいります」

 フレイヤが言うと、カークは眉間の皺を深め、要領を得ない顔をした。

「なに?」

「取り戻してまいります」

 もう一度、フレイヤは言った。

「私が、ロイスとキルドラと三人で、ウルグクの手から直接」

 カークがその意味を理解するまでにしばらくかかった。

 それから、カークはものすごい勢いで立ち上がった。

「ちょ、ちょっと待てフレイヤ。それは」

「霧雨号をお借りします」

「なに、霧雨? あれはお前と同じ悍馬だぞ」

 そう言った後で、カークは慌てて首を振る。

「違う、そんなことではない。そんなことはどうでもいいのだ。お前が、ロイスとキルドラと三人でウルグクのところに直接乗り込むだと?」

「はい」

 フレイヤは頷いた。

「もう二人にも了承を取っています。ですから、ゴルルパと戦になるとすればその後かと」

「正気か、フレイヤ」

 カークは愕然とした表情で妹の顔を覗き込む。

「そんなことができると思っているのか」

「できるできないではなく、やらねばならぬのです」

 フレイヤは答えた。

「“ソレータルの夜空”は我らアステリオ家の誇りであるだけでなく、このシェナイに生きる人々全ての誇りなのです。それをゴルルパに奪われたまま、向こうから返してもらうのを待つということがどういうことか、お分かりですか。兄上」

 その鋭い瞳に、カークは気圧されたように押し黙る。

「ゴルルパにお願いして“夜空”を返してもらったとしましょう。それでこの問題が解決するとお考えですか。敵に懇願して返された時点で、もうそれは勝利の証ではなくなってしまうのです。そんなものはもうただの大きな宝石にすぎません」

 フレイヤは無言で考え込む兄から目を逸らし、窓の外を見た。

 眼下に広がる、明るい日の光に照らされたシェナイの街並みを。

「誇りは自分の手で取り戻してこそ、誇りとして輝くことができるのです。それは宝石自体の輝きとはまた別の輝きであると、フレイヤは存じます」

 カークは答えなかった。

 フレイヤは執務室の壁に掛けられた地図に目を向ける。

「“ソレータルの夜空”を奪った以上、ゴルルパどももこちらの反撃を予期しているはず」

 そう言って、地図の一点を指差した。

「兄上には、シェナイの北、アイゼル方面からゴルルパに攻め込む姿勢を見せていただきたいのです。ゴルルパの注意をそちらに引き付けているうちに、私たちは南側のトラン方面から草原に出ます。こちらのルートは乾季でも水場が多く、夜も走りやすいですし、ウルグクがいるであろうレゴウの谷にも遠くありません」

 迷うことなく地図の上に指を走らせるフレイヤを見つめてカークはしばらく無言だったが、やがて諦めたように息を吐いた。

「フレイヤ。どうして私が男に生まれたのであろうな」

 自嘲するような笑い。

「そして、どうしてお前が女に生まれたのであろうな。この城を父上から預かるのに相応しい器を持ったのは、間違いなくお前の方であったのに」

「私には、兄上のように丁寧にこの街をまとめ上げる力はありません」

 フレイヤの答えは、あくまで明快だった。

「私は自分の思いのままに突進することしかできませんので。大きなものを任せられたとしても、目的地に着くまでに、きっとこの手からたくさんのものをこぼしてしまうことでしょう。そしてそれらを省みることもしないでしょう」

 そう言って、フレイヤは微笑んだ。

「それが私という人間なのです。男であるとか女であるとかは、あまり関係ありません」

「お前の強さの半分も私にあればな」

 城主代理としての虚勢を妹に見せることをとっくに放棄したカークは、弱々しく苦笑した。

 まだ顔色は悪かったが、それでも覚悟の決まった顔をしていた。

「いいだろう。お前の言う通りにしよう。お前たちがもし失敗したならば、その次は」

 そこでカークはようやく猛将ヴォイド・アステリオの長子らしいことを言った。

「私がゴルルパと真正面から戦をして、取り戻してやる」





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