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淑女

「ありがとう、キルドラ」

 フレイヤは、目の前に立つ精悍な青年のごつごつとした硬い手を取った。

「あなたが来てくれれば、百人力だわ」

「百人力? 俺はどこまで行っても一人の俺だ。過剰な期待はするな」

 キルドラは不愛想な顔に微かに困惑したような表情を浮かべた後で、そう言ってフレイヤの手を振りほどく。

「三人と言ったな。俺とお前と、それからロイス」

 キルドラは言った。

「ロイスにはもう会ったのか。あいつは行くと言ったのか」

「ええ」

 フレイヤは頷く。

「ロイスも行くって言ってくれたわ。だから三人で行くのよ。ゴルルパの領地を突っ切ってウルグクから“ソレータルの夜空”を取り返すの」

 幼馴染の三人が馬を駆り、大草原を一筋の矢のように駆け抜けていく様を、フレイヤもキルドラも思い浮かべた。しかしキルドラは顔をしかめて首を振った。

「夢のような話だ」

 キルドラの表情は険しかった。

「もしもお前以外の女がそんな話を持ちかけてきたなら、草原を丸一日、馬で走らせて、自分の言っているのがどれだけ無謀で突拍子もないことなのか思い知らせてやるところだが」

「あなたと一日中、馬で駆け回れるの」

 フレイヤはその様子を想像して、微笑んだ。

「楽しそうだわ。私にもその試練が必要なら、今からでも」

「要らん」

 キルドラは苦笑いとともに首を振る。

「お前のことだ。どうせ王都からシェナイまでも、馬で帰ってきたのだろう」

「正解」

 フレイヤは目を見張る。

「どうして分かったの」

「それ以外の方法で帰ってくるお前が思い浮かばないからだ」

 キルドラは肩をすくめた。

 三年前、シェナイから王都へと向かったときのフレイヤは確かに馬車に乗っていた。キルドラ自身、その姿を見送ってもいた。

 だがやはりキルドラには、淑やかに馬車で帰ってくるフレイヤの姿は思い浮かばなかった。

「あなたには全部お見通しなのね」

 どこか嬉しそうに言うフレイヤに、キルドラは皮肉交じりに尋ねる。

「だが普通のご令嬢というのは、そんなことはしないのではないのか」

「しないでしょうね」

 フレイヤは素直に頷いた。

「私は結局、立派な淑女にはなれなかったのよ」

 この三年間を思い起こすフレイヤの口調は、どうしても自嘲めいた響きを帯びてしまう。

「なりたかったし、なろうと努力はしたのだけれど」

 淑女が馬に乗れることは、別に構わない。けれどそれは教養の範囲内での話だ。

 馬とともに寝起きし、戦場を縦横無尽に駆けるようなことを、淑女はしてはいけない。

 だから王都での三年間は言うならば、フレイヤのそれまでの人生を違う色に塗りつぶす日々だった。

 しかし、塗りつぶせば塗りつぶすほど、その下で熱を帯びてくるのだ。かつての命を懸けた誇らしき日々の記憶が。

 もし、エルスタークと結婚していたら。

 フレイヤは思う。

 消し去ることができたのだろうか。魂と結びついているかのような、この熱を。

「それでいい」

 キルドラがフレイヤの感傷を断ち切るかのように、きっぱりと言った。

「馬にも乗れない女を、俺は美しいとは思わん」

 キルドラには、フレイヤの気持ちを慮るつもりはさらさらない。物心ついた時から父親とともに草原を駆けてきたこの男は、そういった気遣いとは無縁だった。

 だからこそ、その言葉は真っ直ぐにフレイヤの胸を打った。

「王都のご令嬢になるというのがそういう意味ならば、俺はお前がお前のままでよかったと思う」

 キルドラはフレイヤの顔を真っ直ぐに見つめ、そう言った。

「お前の美しさは、シェナイの人間だけではなく、ゴルルパも魅了したではないか。あの日の会見でのことを、俺はまだはっきりと覚えているぞ。王都の令嬢を見たことはないし、その美しさを俺は知らんが、お前が自分の美しさを失わずに済んでよかったと思う」

「キルドラ」

 フレイヤは熱を持った自分の頬に手を当てる。

「その辺でいいわ。その、すごく照れるから」

「どうして照れる」

 キルドラは細い目をわずかに見開いた。

「美しいものを美しいと褒めるのは当然だろう。夜明けの星も沈みかけの太陽も、馬に乗るお前も、同じように美しい」

「星や太陽と、私を並べないで」

 フレイヤは頬に手を当てたまま首を振る。

「もうその辺でいいって言ってるでしょう」

「そうか」

 キルドラは肩をすくめた。

「お前がそう言うなら、もう言わん」

 それから、キルドラは探るようにフレイヤの顔を見た。

「それはそうと、ウルグクにはどうやって会うつもりだ」

 その視線に、再び抜け目ない鋭さが戻ってきていた。

「三人で連れ立って草原を馬で走れば、たちまちゴルルパに見付かる。囲まれて、矢を射かけられて終わりだ。族長に会うことなど、望むべくもない」

「ええ」

 フレイヤは頷く。

「私にもそれくらいのことは分かるわ。だから、走るのは夜だけにするわ。昼間は岩陰で隠れて休んでいるの」

「正気か」

 キルドラは呆れたような顔をした。

「暗闇の中を、どうやって走る。馬は鼻や耳で危険を感じ取るが、上に乗る人間はそうはいくまい。馬を走らせようにも、方角も分からんではないか」

「方角は分かるでしょう」

 フレイヤは言った。

「星を見れば」

「星だと? 都合よく毎晩星が出るとでも」

 そこまで言ってから、キルドラは自分の言葉に思い付いたように目を瞬かせた。

「乾季、か」

「ええ」

 フレイヤは頷いた。それ以上は何も付け加えない。

 ゴルルパの血を引くキルドラには今さら説明するまでもなかったからだ。

 今、草原は乾季を迎えている。空に多少の薄雲がかかることこそあれ、星が全く見えなくなるほどに雲がかかることはまずない。

 月明かりと星を頼りに、馬を走らせることができる。

「この時期の草原は乾季だと、まだ覚えていたか」

「忘れなかったわ」

 フレイヤは答える。

「騎兵隊で戦うために命懸けで覚えたことは、全部覚えている」

 その目に挑戦的な光が宿っていることが、キルドラにも分かった。

 あなただってそうでしょう?

 フレイヤの目は、そう語っていた。

 キルドラの背筋をぞくりとさせるほどの強さを秘めた光。そして、その強さに本人はおそらく気づいてはいない。

「よかろう。どうせ退屈していた身だ」

 キルドラは言った。

「フレイヤ、お前の話に乗ろう」

「ありがとう、キルドラ」

 フレイヤは顔を輝かせる。

「頼りにしているわ」

「出発はいつにする」

「準備もあるし、それに兄上への挨拶もしないといけないの。だから、なるべく近いうちに」

「まだカークのところにも顔を出していないのか」

 キルドラはさすがに鼻白んだ顔をした。

「カークは、今はシェナイの領主だ。俺たちがウルグクと事を構えることになったら一番困るのはカークだぞ。きちんと話を通しておけ」

「そうね」

 フレイヤは素直に頷く。

「あなたの言う通りだわ」

「まったく、突っ走るのは馬に乗っているときだけではないな」

 キルドラはそう言って、また微かに笑った。

「だが、そういうお前が好きだ」

「照れるからやめてって言ってるでしょう」

 顔を赤くしたフレイヤが腕を振り上げると、キルドラは困った顔をした。

「どうしてだ。何がいけないのか、俺には分からん」






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