それから
扉が静かに開き、カークが顔を覗かせる。
「フレイヤ」
アステリオ家の嫡男は真っ赤に充血した目で、そこに立つ妹を見た。
「父上がお呼びだ。お前も入れ」
「はい」
兄に続いて、フレイヤは父の寝室に足を踏み入れる。
何日も前から、この部屋にはもう濃密な死の気配が立ち込めていた。
モーグに受けたヴォイドの傷は、とうとう治らなかった。
それでもヴォイドは、その強靭な生命力で今日まで持ちこたえてみせた。
次期シェナイ領主となるカーク・アステリオが、王都に到着する日まで。
カークとヴォイドの面会には、娘のフレイヤも、この日まで片時も離れることなく付き添ってきた妻のルーシアも、立ち会うことは許されなかった。
ヴォイドは、後継ぎにしか話すことのできないことを伝え、そしてカークもそれを聞き届けた。
だからだろう。入って来たフレイヤの顔を見たヴォイドは、やつれた顔にさっぱりとした表情を浮かべていた。
「フレイヤ。カークからシュルトの話は聞いているな」
父の声はかすれて、聞き取りづらかった。かつては、戦場中に響くような怒号の主であったのに。
「はい」
フレイヤは頷く。
黒騎士ロイスの父、シュルトは、騎兵隊の隊長を退き引退したいとカークに申し出てきたのだという。
フレイヤとキルドラは誰にも伝えていなかったが、シュルトのその決断には、自分の行為によって息子を間接的に死なせてしまった後悔が影響しているであろうことは想像に難くなかった。
機密事項をゴルルパに漏らし、手引きして家宝を奪わせたことに弁明の余地はない。
けれど、それがシェナイの将来を憂う気持ちからの行為であること、そしてそのおかげでフレイヤがエルスタークに嫁がなくて済んだこともまた事実だった。
全ての事柄は、善悪、功罪、損得、そういった相反する両面を兼ね備えている。
ロイスが死んでしまったのは、自分に力がなかったからだ。
自分にもっと力があれば、きっと全てはもっと良い方向に向かっていた。
フレイヤは、そう考えている。
だから、シュルトを責める気にはなれなかった。
「これが、アステリオ家当主としての、俺の最後の仕事となるであろうな」
ヴォイドは薄く笑うと、弱々しく手招きしてフレイヤをベッドの脇に呼んだ。
「フレイヤ・アステリオ」
「はい」
「汝を、アステリオ騎兵隊の隊長に任ずる。キルドラとともに、アステリオ騎兵隊を率いてシェナイを守れ」
「お受けいたします」
フレイヤは答えた。
「全身全霊をもって、その任務を」
「フレイヤ」
ヴォイドは、フレイヤの手を握った。
「お前が戦場に付いてきたとき、俺は本当に困ったのだ」
そう言って、フレイヤを見上げ、目を細める。
「だが、お前がいてくれてよかった。今は心からそう思う」
フレイヤの目から、堪えきれず涙がこぼれた。
「シェナイを頼む。フレイヤ」
父が死んだのは、それから二日後のことだった。
フレイヤを騎兵隊長に任命した後、ほとんど目を覚まさなくなり、最後は眠るようにして逝った。
父の亡骸はシェナイには運ばず、王都に葬られた。
それは、父の遺志だった。
「どうしても成功したかったこの王都で、お前に見守られながら眠るのも、悪くはない」
生前、ヴォイドはルーシアの手を握り、そう言っていた。
父の負傷以来、献身的に寄り添ってきたルーシア。仲睦まじい二人の様子は、最後に本当の夫婦になったように見えた。
「……だがな」
父を葬った墓所からの帰り道、馬車に同乗したフレイヤに、ルーシアは言った。
「旦那様は、意識が朦朧とするといつも私の手を握って、うわごとのように呼んだのだ。ファナ、ファナ、と」
フレイヤは小さく息を吞んだ。
ファナ。
それは、フレイヤとカークの実母の名だった。
フレイヤは、ルーシアと初めて会った日のことを思い出す。
王都に着いたばかりの、まだ寒い日だった。
ルーシアは品定めするような冷たい目でフレイヤを見て、それから自分の娘を「これ」と呼んだ。
「これを、王家に嫁がせよと。なんとまあ、やりがいのある仕事を与えてくださることよ」
そのあまりの言いように、フレイヤの心は身体よりもなお冷たくなった気がしたのを覚えている。
フレイヤの心の中にある母のイメージは、ファナだった。包み込むように愛情を注いでくれる、母性そのもののような存在だった。
だが、ルーシアはあまりにファナとは違い過ぎた。
「旦那様の心の中にいたのは、結局はそなたらの母君だったのだ。だがそれも、仕方のないことだ」
ルーシアは寂しそうに微笑む。
「私は、そなたらを自分の子と思ったことは一度もなかったのだから」
それは、フレイヤも分かっていた。だからこそ、カークはルーシアを激しく拒絶したのだ。
「そもそも、自分が母親としてどう振る舞えばよいのかも分からなかった。だから、そなたらを駒として扱った」
ルーシアはそう言って、窓の外に顔を向けた。
「だが、そなたが私を呼び戻しに来てくれた時は嬉しかった」
「私も、義母上を自分の母親と思ったことは一度もございません」
フレイヤは言った。
「けれど、義母上はともに戦う仲間として、誰よりも頼りになるお方でございました」
「そうか」
窓の外を見たままで、ルーシアは言った。
「それならば、私もアステリオ家に嫁いだ意味があったのう」
その目から伝う涙を、フレイヤは見ないふりをした。
葬儀を終え、諸々の手続きを済ませると、カークは再び慌ただしくシェナイに戻っていった。
もともと、父のように王都に留まるつもりなどなかったが、それに加えて、大敵ヴォイドの死を知ったゴルルパがどのように動くのか、読み切れないところがあったからだ。
留守を守っているのが、すでに引退を申し出ているシュルトだけでは不安だった。
そんなカークにも、王都で予想外のことがあった。
一連の戦いを通して高まったアステリオ家の武名に惹かれた何人もの大貴族から、カークに縁談の話が持ちかけられたのだ。
ルーシアは、送られて来た手紙の束を机に積み上げ、
「カーク殿にも、アステリオ家の安泰のためには良き妻を娶ってもらいませんとな」
と言った。
苦虫を嚙み潰したような顔で、カークは、
「義母上にお任せいたします」
と答えた。
「私は父以上に、この王都でうまくやっていく才覚に欠けているという自覚があります。私には、シェナイでゴルルパどもの動静を睨んでいる方が性に合っているのです。だから、王都での複雑怪奇なことは全て、義母上にお任せいたします」
カークは、彼らしい生真面目な口調でそう言った。
「それが、父の遺言でもありますので」
その言葉にルーシアは少し驚いた顔をした。それから妖艶に微笑んで頷く。
「分かりました。この王都のお屋敷は、私が守ってまいりますので、どうぞご安心を。来年の国王陛下の舞踏会には必ずお越しくださいますよう」
シェナイに発つ前、カークはフレイヤに、
「あれを母だと思うから腹が立つのだ。よくできた参謀だと思えばいい」
と言い残していった。
カークがそう簡単に割り切れる人間ではないことは、フレイヤにはよく分かっていた。だからカークは最後まで、複雑な顔をしていた。
それでも、屋敷にいる間に何度も義母と打ち合わせをしていった生真面目な兄のことを、フレイヤは誇りに思った。
そして、今。
フレイヤは、キルドラとミリアとともに、シェナイへの道を旅していた。
王都でしか暮らしたことのないミリアに、フレイヤは、
「王都のことを何も知らないままで、シェナイでだけ暮らしていてはいけないことは分かっているの。それでは、アステリオ家はまたすぐに立ち行かなくなる。シェナイには、あなたのような人が必要なの」
と口説き、そしてミリアの同意を得たのだった。
今、フレイヤが乗るはずだった馬車にはミリアが乗っている。
初めての長旅に緊張しつつもどこか楽しそうなミリアが、フレイヤには微笑ましかった。
当のフレイヤは、馬に跨っている。
馬車よりもこっちの方が楽なのだ。
「ガラザドの話は聞いたか」
自分の馬を寄せてきたキルドラが、世間話のように言った。
「おかしな動きをしているらしいな」
「ええ。軍を率いて、草原の端をうろうろしているって」
「お前とロイスにやられたのが、よほど屈辱だったのかもな」
キルドラが笑う。
「笑い事じゃないわよ」
そう言いながらも、フレイヤはレゴウの谷でのあの夜のことを思い出す。
あの日のガラザドの、屈辱に塗れた悔しそうな顔を。
もしかしたら今のガラザドにとって、私とロイスは、私にとってのエルスターク王子のような存在になっているのかもしれない。
受けた屈辱を必ず晴らさなければ、そこからもう前に進むことのできない存在。
だとすれば、たとえウルグクの意向に反しても、ガラザドはシェナイに攻め込んでくるはずだ。
単なる憂さ晴らしではなく、フレイヤと同じだけの熱量を持っているのであれば。
もしも、雪辱を果たしたいのなら、それだけの覚悟で来なさい。
フレイヤは思った。
たくさんの大事なものを失っても、それでも後悔はしないだけの覚悟で。
そして私も、全力で迎え撃つ。
「帰ったら、また忙しくなるな」
キルドラが、今はずいぶんと小さくなった王都を振り返った。
最も高い“東の尖塔”の先は、まだ見えた。
「あれを真下から見上げたら、首が折れそうになった」
キルドラはそう言って笑った。
「だが、真下から見上げるのが一番面白い」
「だから言ったでしょ」
フレイヤも笑う。
アステリオ家の屋敷がどこにあるのかは、もう目の良いキルドラにも見えなかった。
ルーシアは、その屋敷に残っている。
一人では大きすぎる屋敷を改装して、身の丈に合った大きさにするのだ、と言っていた。
もともと、父が野心を抱いて大増築するまでは、その程度の大きさの屋敷だったのだ。
父亡き今、金だけがかさむその規模の屋敷を維持する理由はない。
カークの結婚相手を選ぶことが当面の楽しみだ、と笑っていたルーシアと、フレイヤが次に再会するのは、兄の結婚式だろうか。
もしもその前に二人が顔を合わせるとしたら、きっと何かのっぴきならないことが起きてしまったときだ。
舞踏会で恥を晒したエルスターク王子の支持層は、その後かなり数を減らしたようだが、まだアガート王子の一人勝ちという状況にはなっていない。
むしろ、エルスターク王子が後退した分、弟のバルクーク王子が台頭してきたというのだから、王位争いには貴族たちの思惑が複雑に絡み合っているということなのだろう。
アステリオ家の武名とエルスタークに踏みにじられた尊厳を取り戻すという目的のためだけに奮闘してきたフレイヤに、そんな中で繊細な立ち居振る舞いができるとは思えなかった。
舞踏会ですっかり有名になった「王都の戦女神」のあだ名も、フレイヤには邪魔でしかなかった。
父の「シャーバードの西の槍」と同様に、身を伴わない名声など、うまく利用され、使い道がなくなれば捨てられるのがオチなのだろうから。
「草原が恋しいわ」
フレイヤは言った。
草原を走る風の匂い。
草原狼たちの毛並みの柔らかさ。
今は、無性にそういうものに包まれたかった。
「早く帰りたい」
「ああ。そうだな」
フレイヤの気持ちを汲んだように、キルドラが言った。
「王都は、面白いところもあったがやはり俺には生きづらかった。あの石畳の臭いにも最後まで慣れなかった。取り澄ましたような貴族の連中にもだ」
そう言って、肩をすくめる。
「俺なら一言で済むところを、あいつらは自分の本心が見えなくなるまで何重にも何重にも丁寧にくるんでから喋る。おかげでこっちには、何を言いたいのかさっぱり分からん」
キルドラの言い方が面白くて、フレイヤは微笑んだ。
「そうかもしれないわね」
ルーシアとアガートの手紙のやり取りなどは、まさにその極地だった。
「だから、俺は一言で言うぞ」
キルドラが不意に真剣な顔で、フレイヤを見た。
「フレイヤ。愛している」
キルドラの耳だけが赤かった。
「俺とともに草原で生きよう」
「うん」
フレイヤは頷く。
「嬉しい」
キルドラと、草原で生きる。それができたら、どんなに幸せだろう。
「でも、私には父上から任された騎兵隊が」
「分かっている」
キルドラはフレイヤが皆まで言わないうちに喋り出した。
「お前が騎兵隊を率いるなら、俺は全力でそれを補佐する。お前が騎兵隊を率いることができなくなったなら、俺が代わりに率いる」
「私が、騎兵隊を率いることができなくなったら?」
フレイヤは目を瞬かせた。
「それって、どういうこと」
「ああ、くそ。王都の連中の喋り方がうつった」
キルドラは悔しそうに言った。
「だから、俺とお前の子供ができたらということだ」
そう言った後で、キルドラはフレイヤの目を覗き込んだ。
「嫌か」
フレイヤはもう言葉ですら答えなかった。
馬から身を乗り出してキルドラに抱き着くと、そのままの勢いで口づけをする。
二人の乗馬が、歩きづらいと言いたそうにいなないた。
令嬢フレイヤ・アステリオは屈しない 完
令嬢フレイヤ、完結となります。
連載開始から一年以上かかってしまいました。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。
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