戦の終わり
ガラザド。
シェナイから呼び寄せた楽隊の奏でるゴルルパ調の音楽に身を委ねながら、フレイヤが思い出すのは、大族長ウルグクの息子、ガラザドの姿だ。
人間としては怖気を震うほどに嫌いな男だったが、おそらくゴルルパの戦士としての資質は父のウルグクよりも上だった。
その身体に流れるゴルルパ独特のリズム。それはシェナイの人間にはない、騎馬民族のリズムだ。
ガラザドの流れるような連携攻撃を、己の身をもって受けたフレイヤには分かる。
あれは、まるで旋律だった。
フレイヤはホールの床を叩くかのように靴を踏み鳴らす。
ガラザドの足運び。天幕の端まで自分を瞬く間に追い詰めてみせた、あの滑らかな動き。
シャーバードの踊りには決してあり得ないリズムを、フレイヤの身体が刻む。
しなやかに、軽やかに、だが力強く。
その場で見守る誰もが、フレイヤに目を奪われていた。
フレイヤの動きは、王都の常識から言えば、女性がするにはあまりに無作法な動きだった。もっと遠慮なく言えば、それは滑稽な動きだった。
事実、最初にフレイヤが動き出した時は眉を顰める貴婦人や顔を見合わせて笑う青年たちもいた。
だが、もう誰も笑っていない。
それは、フレイヤの動きの一つひとつに、真実味があったからだ。
これは単に異民族の動きを真似ただけの見世物ではない。
実際に、西の果ての大草原ではゴルルパが毎夜こうして踊っているのだろう。
そう思わせるだけの凄みが、フレイヤの舞いにはあった。
唐突に打ち鳴らされた打楽器の大きな音とともに、音楽のリズムが変わる。
フレイヤも動きも変えた。
これは、大族長ウルグクの動きだ。
フレイヤは、なぞる。フレイヤと対峙したウルグクが、傍らの“真なる戦士の剣”の鞘の上で、指を動かし刻んでいた独特なリズムを。
あれはウルグクの身体に流れていたリズムだ。当代随一の、真のゴルルパ戦士のリズム。
まるでネコ科の獣を思わせる柔らかな動き。
不意に、後方から弧を描いて何かが飛んできた。
それは、鞘に入ったままの剣だった。
フレイヤはほとんどそちらも見ずにそれを掴むと、すらりと鞘を抜き放つ。
「あれだ」
誰かが興奮したように声を上げた。
「一撃でモーグを仕留めた、戦女神の剣だ」
その言葉に、どよめきが広がる。
確かにそれは、オルガイの命を断った剣だった。
フレイヤはしなやかに腕を回し、剣を振るう。
使い慣れた剣は、まるでフレイヤの腕の延長のように滑らかに空を切り裂いた。
令嬢たちから、黄色い歓声が上がった。
「来たれ」
フレイヤがゴルルパ語で一声叫ぶと、後方で音楽をかき鳴らしていた楽隊が、さっと二つに割れた。
その間を歩いてくる一人の男に、再度どよめきが上がる。
現れたのは、分厚い蛮刀を手にしたゴルルパの戦士。
胸に走る一筋の傷跡も生々しいその男は、キルドラだった。
感情の見えづらいゴルルパ特有の表情のまま、悠然と観衆の中を抜けてホールの中央にゆっくりと歩み出たキルドラは、フレイヤと向かい合う。
そのまま、ごく自然に身体を揺らし始める。
フレイヤには分かる。それは、キルドラのリズム。
滑らかさとともに、どこかごつごつとした岩のような固さもある。
ガラザドのものとも、ウルグクのものとも違う、キルドラだけのリズム。
フレイヤは自らのリズムも変えた。
借り物の、ゴルルパの大族長のリズムではなく。
シェナイを守り続けてきたアステリオ家の一族、勇者ヴォイドの娘たるフレイヤ自身のリズムに。
観衆はそこに、シャーバード伝統のステップを見た。だが、もはや原形を留めぬほどに自由に変えられていた。
フレイヤがガラザドを斬ったときに、身体に流れていたあのリズム。
音楽が徐々に激しくなる中、二人はゆっくりと間合いを詰めていく。
そしてついに、互いに斬り結んだ。
きん、という音とともに火花が散った。
次の瞬間には、再び火花が散っていた。と思ったら、もう次の火花が。
鍛えた刀身のぶつかり合う金属音が、まるで一つの打楽器のように音楽と呼応し合っていた。
だが、その速さたるや。
腕自慢の貴族の青年たちでも呆気にとられる速度だった。
剣舞とは、こんな速さでするものではない。これでは本気の斬り合いだ。一瞬でも気を抜けば、どちらかが死んでしまう。
だが、フレイヤとキルドラは互いに笑みさえ浮かべ、剣を振るい、ぶつけ合い続けた。
ときに華麗なステップを交え、ときに大げさな身振りを交え、まるで広大な草原でじゃれ合う草原狼の兄弟のように。
本当は、もう一匹いたのよ。
心の中で、フレイヤは叫ぶ。
大事な草原狼が、ここにもう一匹。
その心を察したように、キルドラが剣の速度を速める。
ロイスの代わりはできない。だが、お前とともにいることはできる。
激しい動きに、治りかけていた胸の傷から血がじわりと滲む。
だがキルドラもフレイヤも、それを気にはしなかった。
冷めた目でそれを見ていたエルスタークは、妙に落ち着かない気持ちになっていた。
目の前で繰り広げられている、蛮族風味の趣味の悪い出し物に心を動かされたわけではない。
ただ、心がざわざわと落ち着かないのだ。
フレイヤと異民族衣装の男とが、激しく剣を打ち合っている。
正直、フレイヤがあそこまで剣を使えるとは思ってもみなかった。
フレイヤが野獣のようなあのモーグの傭兵を討ったなどという荒唐無稽な噂は、アガートが嫌がらせ半分で流したに過ぎないと思っていた。
だが、この腕前ならば、もしかして、と思わないでもなかった。
しかし、エルスタークは武技になど興味はない。
まあ、田舎貴族の娘にはお似合いの大道芸であろう。
武技とは所詮、卑しい者が生きのびるための術だ。そんなことがいくら達者だろうと、感銘を受けるエルスタークではなかった。
この胸のざわめきは、もっと違う何かだ。
気付くと、フレイヤと異民族の男が妙にこちらに近付いてきていた。
激しく動き回り、ステップを踏みながら、いつの間にか少しずつ、徐々に場所を移動していたのだ。
剣をぶつけたフレイヤが、ちらりと目を向けてきた気がした。
その瞬間、背筋がぞくりとした。
フレイヤだけではない。相手を務めるもう一人の男も、時折、ほかの人間には気付かれないくらいのごくわずかな一刹那、エルスタークに目を向けるのだ。
落ち着かない原因はこれか、とエルスタークは悟る。
二人は、ただ単に第二王子の反応を気にして、彼に目を向けているわけではない。
そこには、明らかな意志が込められていた。
――まさか。
エルスタークは、そこでようやくフレイヤの意図に気付く。
この野蛮な一族は。
エルスタークは刺客を放ち、フレイヤを含むアステリオ家の一族を殺そうとした。それは事実だが、公に認めたわけではない。
だから、エルスタークにはやましいことなどない。
エルスタークには、贖わなければならない罪などないのだ。
しかし、そんな理屈がこの辺境育ちの山猿に通じるのか。
命とは、奪うものであって奪われるものではない。
エルスタークは今までそう考えていた。
だが、この時初めて、自分の命を奪われる可能性に思い至る。
ばかな。
エルスタークは自分の考えを笑い飛ばす。
アガートやバルクークに狙われるのなら、まだ分かる。
だが、たかが田舎の一貴族ごときが王子であるエルスタークの命を狙うなど。
あっていいことではない。
そのとき、フレイヤがキルドラの蛮刀を弾き返しながら、目だけでエルスタークを見た。
エルスタークは息を吞む。
今度こそ、はっきりと分かったからだ。
殺意。
フレイヤともう一人の男がエルスタークを見る目に込めているのは、紛れもなく殺意だった。
殺す気か、この私を。
エルスタークは思い出す。
目の前で殺気を漲らせたこの女が、二十五人の刺客を一人残らず返り討ちにし、あの野獣じみた蛮族の戦士までも平然と討ち取ってみせた女戦士であるということを。
伝聞だけだった情報が、今、血肉を持った具体的な人間としてエルスタークに迫っていた。
この女ならば、やりかねない。
そう思った瞬間、目の前で繰り広げられている派手な剣舞が、エルスタークにとって全く別の意味を持った。
まさか、この場で私を殺す気か。
エルスタークは、アガートを見た。
アガートも、エルスタークを見ていた。
相変わらずの軽薄な笑顔を浮かべていたが、その目は笑っていなかった。
黒々とした、底のない闇のような目で、アガートはエルスタークを凝視していた。
冷酷な兄が、恐怖する弟を観察しているのだと、エルスタークは気付く。
やめろ。
エルスタークは、この場を離れようとした。
だが、フレイヤが彼を見据えると、エルスタークの足は震え、その場に縫い付けられたように動かなくなった。
激しい剣戟に、歓声が上がる。
父王が楽しそうに目を細めている。
令嬢たちが黄色い歓声を上げている。
誰もが、フレイヤに目を奪われていた。
どうして誰も気付かないのだ。
こいつらは、私を殺そうとしているのだぞ。
もうやめろ。演奏を止めろ。
そう叫ぼうとしたが、乾ききった口はぱくぱくと動くばかりで声は出なかった。
異民族の男が吼えた。
エルスタークに目を向けたまま、フレイヤに蛮刀を叩きつける。
「ひ」
届くはずもないのに、エルスタークはまるで自分の身体が真っ二つに斬られたかのように感じた。
それを剣で受け止めたフレイヤが、手首を捻って思い切り上に巻き上げる。
おおっ、と歓声が上がった。
フレイヤの剣によって、蛮刀が宙に跳ね上げられたからだ。
蛮刀はくるくると回転しながら宙を舞うと、エルスタークの目の前の床に突き立った。
フレイヤが身を躍らせる。
その手に持つ剣には、まだモーグを斬ったときの血がべっとりとついているようにさえ見えた。
エルスタークの前まで駆け寄ってきたフレイヤは、笑顔だった。だが、その目は憎しみに燃えていた。
よせ。やめろ。
エルスタークは必死に首を振ろうとした。
フレイヤは、エルスタークのように持って回った言い方はしなかった。
他の人間には聞こえない低い声で、明快に、端的に、一言だけ告げた。
「死ね」
フレイヤが身をよじって腕を振る。
助けてくれ!
エルスタークは声にならない悲鳴を上げた。
剣は、エルスタークのすぐ前を通過していった。
後ろから飛びかかってきていたキルドラが、フレイヤの剣を受けて吹き飛ばされる。
実際には剣は当たっていなかったが、キルドラは派手に床に転がると、苦しそうにもがいた。胸の傷から流れる血に、悲鳴が上がる。
フレイヤはエルスタークに最後の一瞥を投げて、キルドラに飛びかかると、そのすぐ脇の床に剣を突き立てる。
誰もが、フレイヤは本当にこの男を殺したのだと思った。
だが、音楽が終わると同時にキルドラが立ち上がったのを見て、ほっと息を吐く。
深々と頭を下げた二人に、割れんばかりの拍手が降り注いだ。
「見事だ」
王も、満足そうに手を叩いていた。
「若い頃、王都まで攻め寄せてきたあの部族を、余も見たことがある」
王は感慨深げに言った。
「ヴォイドの娘フレイヤよ。シェナイを守るアステリオ家の武功を思い出したぞ」
「もったいなきお言葉」
フレイヤは優雅に腰を折り、キルドラはその脇でひざまずいて頭を垂れた。
再び、大きな拍手と大歓声。
「いやあ、すごい迫力でしたな」
ホール中央に進み出たアガートは満面の笑みでそう言うと、肩で息をしているフレイヤとキルドラの手を握る。
「ありがとう、フレイヤ嬢。素晴らしかった」
「ありがとうございます」
それからアガートは、まるで今気づいたかのようにエルスタークに目を向けた。
「おや、どうした。エルスターク」
つられて第二王子を見た人々は、あっと息を吞み、それから直視せぬように目を伏せた。
エルスタークは、まるで冥府から命からがら生還したかのような、魂が抜かれた表情をしていた。
今まで人々が見たことのない、呆けたような顔。
そのズボンがびっしょりと濡れ、足元に水たまりができていた。
恐怖のあまり、第二王子は失禁していたのだ。
「どうやらエルスターク王子はお疲れのご様子だ」
アガートが手を叩くと、側近のマレリーが真っ青な顔で飛んできた。
「さあ、余興は終わりです。踊りましょう」
エルスタークが担ぎ出されていく中、アガートは何事もなかったかのように快活な笑顔で言った。
「曲を!」
「何度か、かすったぞ」
引き上げた控室で、キルドラは自分の二の腕に付いた切り傷を見て苦笑する。
「本気の殺意が乗っていたな」
フレイヤは、まだ興奮が冷めやらない様子で荒い息をついていた。傍らに付き添うミリアが心配そうにその額の汗を拭う。
「俺は向こうで先に着替えるぞ」
キルドラは、部屋の隅に立てられた衝立を指差す。
その腕をフレイヤが掴んだ。フレイヤの手は震えていた。
「どうした。まだ興奮が」
キルドラはそう言いかけて、口をつぐむ。
フレイヤの目から、大粒の涙があふれていたからだ。
「キルドラ」
フレイヤは言った。
「なんだ」
「ミリア」
「はい」
ミリアが返事をするが、フレイヤは彼女の方を見ていなかった。どこか、遠くを見つめていた。
「父上。母上。兄上。エンドラさま。シュルト。義母上」
フレイヤは親しい人々の名を呼んだ。
「エスコット。……ロイス」
そこまで言うと、フレイヤは両手で顔を覆った。その肩が激しく震え、くぐもった泣き声が漏れた。
「お嬢様」
ミリアも口を手で押さえ、嗚咽を漏らす。
子供のようにしゃくりあげるフレイヤの肩を、キルドラが後ろから抱いた。
「やっと終わったんだな、お前の戦が」
キルドラの声は優しかった。
「もういい。思う存分、泣け」
次回、最終話です。




