フレイヤ・アステリオは屈しない
シャーバード王国で一年に一度行われる、国王主催の舞踏会。
そのもともとの始まりは、三代前の王の代に、宿敵アシュトン帝国に対する戦勝祝いを盛大に行おうということから始まったのだという。
長年苦杯を舐めさせられていたアシュトン帝国を破り国中が沸いていたこともあり、大々的に開かれた舞踏会には大小ほとんどの貴族が参加し、それと併せて王都全体で催された祭りには、世界中から旅人が押し寄せた。
この時の王都は、シャーバード王国始まって以来の賑わいだったという。
その大成功を記念して、毎年この日には国王主催の舞踏会が開かれるようになった。
無論、よほどの節目の年でもなければ規模はさして大きくはない。
だが、王都に集まる貴族の従者や使用人たちだけでも相当な数になるし、彼らを目当てにした商人の屋台、さらにそれが目当ての旅人たちで街は溢れかえる。
そんな、いつにも増して賑やかな街を、アステリオ家の馬車は走り抜けていく。
混雑した道でも、馬車は軽快だった。
車体に描かれたアステリオ家の紋章を見ると、人々は慌てて道を開けたからだ。
「いやあ、まったく走りやすいったらねえですよ、お嬢様」
御者のグリンが上機嫌に言う。
「やっぱりあの獣みてえなやつの晒し首が効いてるんですかねえ」
「そうかもしれないわね」
華やかな青いドレスを纏い、美しい令嬢然としたフレイヤは答えた。
「それより子供が飛び出してくるわよ、ちゃんと前を見て」
「へい」
グリンが手綱を引く。
二度目の襲撃の後、アステリオ家の門前には再び賊の首が晒された。その中に混じった、シャーバード王国ではほとんど見かけることのない北の蛮族の首に、王都の市民たちは目を見張った。
まるで鬼か何かのような凶暴な人相に、噂が噂を呼び、それを一目見ようと屋敷の前に群がる見物人は絶えることがなかった。
市民たちの間では、賊に二度までもアステリオ家を襲わせた黒幕はエルスターク王子に違いない、という噂が、確たる証拠もないままに、もはやほとんど事実として語られていた。
エルスターク王子は、アステリオ家の二つの光、すなわち美しいフレイヤ嬢と護国の三宝たる“ソレータルの夜空”を手放すのが惜しくなり、アガート王子に奪われるくらいならいっそのこと、と嫉妬に狂って賊を差し向けたのだ、と人々は噂し合った。
庶民は、地味な事実よりも派手な虚構を好む。
エルスタークがそこまでして欲したものとして、“ソレータルの夜空”よりも先に自分の名が挙がっていると知ったフレイヤは困惑した。
エルスタークは、女としての自分に未練などないだろう。未練どころか、そもそも最初から性的対象という意味での女として見られていたかどうかも怪しい。
けれど、フレイヤの名がここまで王都で高まっているのには具体的な理由があった。
一つは、ミリアの通報で駆け付けた衛兵たちが目にした、魁偉な風貌のモーグの死体に深々と突き刺さったままになっていた剣だ。
それは、フレイヤの帯剣だった。
衛兵たちの驚きは相当なものだったようで、たちまち、
「美しい花のようなご令嬢が、熊のような蛮族の大男を一撃で仕留めたらしい」
という噂が飛び交った。
もう一つは、その噂が広まるとともに流れ始めた、その日、馬を駆るフレイヤを見たという噂だった。
美しいドレスの裾も裂けたまま、馬を駆って屋敷へと駆け戻るフレイヤ嬢の勇姿を見た、と言い出す市民が何人もいたのだ。
襲ってきた蛮族をたちまち片付けて、王都を華麗に馬で駆け抜けていく美貌の令嬢。それはまるで戦女神のようなお姿だった、と。
噂というのは本当にいいかげんなものだ、とフレイヤは思う。
実際のフレイヤは、キルドラとミリアにたしなめられて、キルドラの操る馬の後ろに大人しく座っていただけだというのに。
それに、確かにモーグのオルガイの胸に剣を刺したのは自分だが、一人で易々と討ち取ったわけではない。キルドラの助力と、それにおそらくはロイスの助けもあって、命からがらようやく勝ったのだ。
だが、それらの無責任な噂とともにアステリオ家の武名は加速度的に高まっていった。
噂の影には、おそらくアガート王子もいるとフレイヤは睨んでいた。
広まり方があまりに急だったからだ。
義母のルーシアも、「あの王子ならそれくらいのことはするであろう。利用できるものは何であれ利用し尽くす方だ」と言っていた。
それならば、存分に利用すればいい。
こちらもそれを利用するだけだ。シェナイと、アステリオ家の未来のために。
エルスタークの苦々しい顔が目に浮かぶようだ。
だが、こちらは苦々しいなどというものではない。もとより怒り心頭だ。
父を。キルドラを。エスコットを。よくも軽率に傷つけてくれたな。
「お嬢様」
隣に座るミリアが、フレイヤの膝に手を添える。
「また怖いお顔をなさっていますよ」
「ああ」
フレイヤは急いで品のいい笑顔を作る。
「ごめんなさい、ミリア」
「私も分かっております。お嬢様にとって、今日の舞踏会は戦場と同じだということを」
ミリアは真剣な顔で言った。
「けれど、最初からそんなお顔ではエルスターク王子にも、何か企みがあるのかと気取られます。どうか、笑顔を」
「そうね。あなたの言う通りだわ」
頷き、フレイヤは息を吸い込む。
落ち着きなさい、フレイヤ・アステリオ。
今は、あなたは王都の令嬢でいなければ。
「ミリア。あなたと二人でパーティに向かうのは、あの日以来ね」
フレイヤは言った。
「エルスターク王子主催のパーティの日」
「あの日は」
ミリアは目を伏せた。
「私も辛うございました」
それは、フレイヤが婚約を破棄され、それまで王都で培ってきた全てを失った日。
「そうね。あの日はつらかった」
フレイヤもそう呟く。
あれからもう半年以上が経った。
その間にフレイヤは、失ったものを取り戻そうとあがき、そしてもっとたくさんのものを失った。
“ソレータルの夜空”も、大好きだったかけがえのない幼馴染も、幼いころから仕えてくれた老執事も。
今日までの歩みに、後悔がないと言えば嘘になる。
今でも、どこかで道を間違えていなかったら、ロイスもエスコットもまだ生きていてくれたのではないかと思うことがある。
これからもきっと折に触れてそう思うだろう。
そこまでの大きな犠牲と引き替えにして、私が得たものは、何だろう。
魂。
誇り。
尊厳。
そういう既存の言葉では言い表せない何かが、今の自分の中には満ちている。
そんな気がしていた。
辛いことばかりだった今日までの日々を、強い力で肯定してくれる、何か。
後悔を上回る闘志を生み出す、何か。
それが何なのかは、はっきりとは分からない。
だが、きっと本質的に、私は戦うために生きる人間なのだろう。
フレイヤは思った。
アステリオ家のフレイヤは屈しない。
屈するよりも、戦うことを選ぶ人間だ。
私が屈したように見えたならば、それは力を溜めたところだ。最後に勝つための力を。
「見ていて、ミリア」
フレイヤは言った。
「今日の私は、あの日のように泣いたりはしないわ」
「はい」
ミリアの目は、もう潤んでいた。
「お嬢様の勇姿、見届けさせていただきます」
「お嬢様、着きますよ」
グリンの明るい声に、フレイヤは前に向き直る。
王宮の大きな門が、道の先に見えていた。




