戦の途中
しばらくの間、二人は情熱のままに互いの唇を貪っていたが、ドレスをぐっしょりと濡らす血に、先に我に返ったのはフレイヤの方だった。
「いけない」
フレイヤはキルドラから身体を離す。キルドラの胸当てからは真っ赤な血が溢れていた。
「キルドラ。治療をしないと」
縛っていたドレスの裾を解いて引き裂くフレイヤに、キルドラは苦笑する。
「大した傷じゃない。ちょっと大げさに血が出ただけだ」
「そんなことないわ。グリン! ミリア! もう大丈夫よ!」
ミリアはもう馬車から這い上がろうともがいていた。うずくまっていた御者のグリンも這い寄ってくる。どうやら腰が抜けているらしい。
「お嬢様。ご無事で何よりです」
「災難だったわね、グリン。あなたも無事でよかった」
そう言いながらフレイヤはキルドラの胸当ての紐をほどこうとするが、手が震えてうまくいかない。
「ああ、もう」
眉を寄せるフレイヤに、キルドラがもう一度キスをした。
「んっ」
フレイヤは目を瞬かせる。
「ちょっと、今はそれどころじゃ」
「すまん。あまりに愛おしかったんでな」
「もう」
涙目で頬を赤く染めながら、フレイヤはようやく紐をほどく。
途中からはミリアとグリンも手伝ってくれて、オルガイの斧に切り裂かれた胸当ては外れた。
「包帯代わりに布を」
「お嬢様は、もうドレスを破いてはなりません」
ミリアがそう言って自分のスカートの裾を裂く。
「それ以上ドレスが短くなったら、どうやってお屋敷までお帰りになるつもりですか」
「ごめんなさい」
フレイヤは、ミリアが手際よく包帯代わりのスカートをキルドラに巻くのを見て、ようやくほっとしたように息を吐いた。
「ありがとう、ミリア」
「私こそ、何のお役にも立てませんで」
ミリアは心から悔しそうな顔で言った。
「あいつに後ろから石でもぶつけてやろうと思っていたのですが、なかなか馬車から出られなくて」
「馬車でじっとしてなさいって言ったのに」
「そういうわけには、まいりません」
そんなことを話している間にも、キルドラの胸に巻いた布地にまたじわりと血が滲む。
「とにかく、早くお屋敷に戻りましょう」
「そうね」
だが、馬車は横倒しになってしまっているし、それを牽く馬のうち一頭はオルガイに頭を飛ばされ、もう一頭は足を挫いたのか立つことができない。
モーグの死体のことも含め、衛兵隊に通報するしかないだろう。
「グリン、ミリア、ここを任せてもいいかしら」
フレイヤは言った。
「突然、賊に襲われたと通報を。賊は、アステリオ家のフレイヤが討ったと」
「承知いたしました」
ミリアが頷く。
「先ほど、お嬢様があの男を討つのを見て、走り去っていく者がおりました。おそらくは、この男の監視役かと」
「よく見ていたわね」
蛮族の戦士が一人で来るわけはない。当然、この王都の誰かの手引きがあったはずだ。
「父上たちが心配だわ。キルドラ、あなたの馬に乗せて」
モーグのオルガイは恐るべき戦士だった。
屋敷を襲った賊の中には、異民族風の男が二人いたという。それが気がかりだった。
もしもモーグの戦士が二人も含まれていたのであれば、いかにヴォイドといえども、今の鈍った身体で勝つことができるだろうか。
「ここは私たちにお任せくださいませ」
ミリアが言った。
「お嬢様は、一刻も早くお屋敷へお戻りください」
「ありがとう」
フレイヤはドレスの裾をまくって馬に飛び乗ろうとした。
「待て、フレイヤ」
「お待ちください、お嬢様」
キルドラとミリアの声が重なった。
「手綱は俺が握る。お前は後ろだ」
「ドレスで跨るなど、もってのほかです。横にお乗りください」
緊急時ではあったが、この後に控える国王主催の舞踏会のためにも、王都であまりにもおかしな評判を立てるわけにはいかなかった。
仕方なく、フレイヤはキルドラに手綱を譲る。
「無理しないでね」
「心配するな」
キルドラは馬にまたがるときにはさすがに痛そうに顔をしかめたが、それ以上の弱音は吐かなかった。
「二人も、気を付けて」
そう言い残して、フレイヤたちの乗った馬が走り去ると、ようやくミリアとグリンは顔を見合わせて、ほっと息をついた。
「王都で暮らしていて、こんなに何度も死にそうな目に遭うなんて」
ミリアはそう呟き、それからおそるおそるモーグの死体を覗き込んだ。
「父上!」
屋敷はまるで戦のあとのように荒れていた。
賊はわずか五人だったというのに、前回二十五人の賊が侵入したときとは比べものにならない荒らされようだった。
とにかく、二人のモーグの暴れぶりが凄まじかったのだという。
ベッドに横たわる父の脇腹は、真っ赤に染まっていた。
「一人はどうにかなったのだがな」
ヴォイドはそう言って、自嘲気味に笑った。
「この鈍った身体では、モーグ二人はきつかった。不覚をとった」
ベッドの傍らには、真っ青な顔のルーシアが付き添っている。ヴォイドの手をしっかりと握る義母の手にも血の気がなくて、フレイヤはそれを痛々しく思う。
「医者は」
「俺が呼ぶなと言った」
ヴォイドは言った。額に大粒の汗が浮かんでいるが、それでもその目は強い意志の光を失っていなかった。
「誇り高き武門の当主が、たかが二匹のモーグごときに後れを取ったなどと言えるか。アステリオ家はその程度だったかと、アガート王子にも見限られるわ」
「ですが」
どう見てもその傷は、深手だった。キルドラが受けた傷とは比べものにならない。
「傷口は自分で縫った。運が良ければ助かる。助からないならば、そのときはそのときよ」
父はシェナイの武人らしい言葉を吐いた。
「いいか、フレイヤ。俺が負傷したことは伏せろ。国王陛下の舞踏会には出れぬが、お前は何事もなかったように出なければならぬ。お前自身の計画を遂行せねばならぬ。そうしなければ、我らの負けだ」
ヴォイドの言葉の意味は、分かった。
謀においては、どれだけ無様を晒そうともいい。だが武の勝負においては、決して後れを取ってはならない。
それは、アステリオ家の存在意義に関わることだからだ。
「はい」
フレイヤは頷いた。もう自分たちは、後戻りできないところまで足を踏み込んでいる。
これは、戦だ。
悲しみに足を止めたとしても、誰も同情して助けてなどくれない。
自分たちの尊厳を守るためには、勝利まで歩み続けるしかない。
「二人目のモーグが手強くてな」
モーグとの激しい戦いを思い出すように、ヴォイドは言った。
「危なかったが、後ろからエスコットが槍を突いてくれた。おかげで斬ることができた」
その静かな口調に、フレイヤはぴんとくるものがあった。
「……まさか」
「行ってやれ」
ヴォイドは目を伏せた。
「向こうの部屋で、眠っている」
「……じいや」
肩から斜めに身体を切り裂かれた老執事エスコットは、それでも口元に満足そうな笑みを浮かべたまま、横たわっていた。
フレイヤは、呆然とその遺骸を見つめた。
「モーグには、大殿以外の誰も歯が立たなかったのです。皆、近寄ることもできなかった。それでも、エスコット殿だけは怯まなかった。あの槍の一撃がなければ、今頃どうなっていたことか」
負傷した騎兵隊員の説明を、フレイヤはどこか遠いところで聞いた。
こぼれそうになった涙を、フレイヤは必死に堪えた。
やるべきことをやった人間だけが見せるその誇らしげな顔を、じっと見つめる。
ごめんなさい、じいや。私はまだ泣けない。
今はまだ、戦の途中だから。
「賊の死体は?」
「全て、中庭に引き出してあります」
「首を晒しましょう」
自分がどんな表情をしているのか、自分でも分からなかった。
それでも努めて冷静に、フレイヤは言った。
「前回と同じように、平然と。アステリオ家はモーグの戦士すらも難なく退けてみせた、と示すために」
「はい」
「始めましょう」
最後の戦いの場は、舞踏会だ。
フレイヤは思った。
それまで私は、涙は流さない。




