モーグ
フレイヤは腕で強引に身体を引き上げて、馬車から飛び降りた。
キルドラと向かい合っている異様な男を素早く観察する。
たどたどしい共通語と、金色の髪。紫色のように見えた皮膚だが、よく見ると手やくるぶしの肌は白かった。
あの紫色は、顔料か何かだ。
そう分かったとき、かつて家庭教師から教わった知識が目の前の男と結びついた。
アシュトン帝国とその隣国ルク王国の北、猛き大河リエントを越えた先の不毛の地に住む八つの凶暴な氏族。
あれは、モーグという名で呼ばれる民族だ。
あの紫は、フィレンの花の色だ。モーグの地には、あの花ばかりが密集して咲き誇る、フィレン野と呼ばれる平原があるのだと聞く。
そして、フィレンの染料を顔中に塗りたくるのは、八つの氏族の中でも“牙”の氏族の特徴だった。
「貴様、モーグか」
剣を抜き放ちながら、フレイヤがそう尋ねると、男はわずかに目を見張った。
「この国の者でも、その名を知るか」
アシュトン帝国の絶対的な敵対者。そう見せかけておきながら、時には傭兵としてアシュトンの戦列に加わるしたたかさも見せる、油断ならない民族。
それが、フレイヤの学んだモーグという人々だ。
「シャーバードの女と、ゴルルパの男」
男は言った。
モーグの戦士は、牛でも割くのかという巨大な斧を手にしていた。
その刃がすでにべっとりと汚れているのは、先ほどまでフレイヤの乗る馬車を牽いていた二頭の馬のうちの一頭の首を一撃で切り落としたからだ。
「戦うのは、お前ら二人でいいのか」
御者のグリンは、投げ出された体勢のまま地面に蹲ってぶるぶると震えている。
ミリアは馬車の中で息を殺していることだろう。
「お前こそ、私たち二人と一人だけで戦う気か」
そう言いながら、フレイヤはじわりと間合いを詰めた。呼応するように、キルドラも反対側から間合いを詰める。
「死ぬときは、誰もが一人」
モーグは言った。
「ならば、戦う時も一人でいい」
この男は、ゴルルパとはまた違う野性を持っている。
フレイヤはそう判断した。
何をしてくるか分からない。油断はできない。
「“牙”の氏族の戦士、オルガイ」
戦士はそう名乗った。
「名乗る名があるならば、名乗れ。ないならば、黙って死ね」
「シャーバードの西の槍、ヴォイド・アステリオの娘、フレイヤ・アステリオ」
フレイヤが名乗ると、オルガイは肩を揺らして笑う。
「良い」
「キルドラだ」
キルドラの名乗りは短かった。
余計な装飾のない、己の名だけを告げる名乗り。それはキルドラらしいとフレイヤは思った。
「良い」
オルガイはもう一度言った。
「では、殺し合おう」
その瞬間だった。
オルガイの全身の岩のような筋肉がぐっと緊張したと思ったときには、もうフレイヤの目の前に巨大な斧が迫っていた。
信じ難い速さの突貫だった。
受け止めたらだめだ。
剣なんて、身体ごと真っ二つにされる。
とっさにフレイヤは地面に身体を投げ出した。
よけきれなかったスカートの裾と数本の髪の毛が、斧に切り裂かれて舞った。
倒れたフレイヤにもう一度斧を振り上げようとしたオルガイは、うるさそうに斧を振って短剣を弾き落とした。
キルドラが、今までフレイヤが見たことのない鬼気迫る表情で駆け寄ってきていた。
「フレイヤから離れろ!」
キルドラは叫んだ。蛮刀を振りかざしながら、左手で腰から抜いた短刀をもう一本投げつける。
オルガイは、今度はよけもしなかった。岩の塊のような左肩を前に突き出して、そこで短刀を受けた。
そのまま、傷など意に介すことなく斧を振り上げる。
フレイヤの脳裏に、真っ二つにされるキルドラの姿がよぎった。
「だめ、キルドラ!」
しかしキルドラは怒りの表情のまま、蛮刀をオルガイに叩きつける。
蛮刀と斧がぶつかり合う激しい金属音。
弾き飛ばされたのは、キルドラの蛮刀の方だった。
がら空きになったキルドラの胸目がけて、オルガイが斧を一閃する。
鮮血。
「キルドラ!!」
「浅い」
オルガイがモーグの言葉で唸った。
キルドラは胸から血を滴らせながらも、蛮刀を構えてオルガイを睨みつけた。
たった一合で、右腕が痺れて感覚がない。
鉄の胸当てがなければ、致命傷だった。
戦士としての格の違いは明らかだった。
それでも、背中を見せるわけにはいかない。フレイヤを守るためなら、死んでも構わない。
「噂に聞くモーグってのは、その程度か」
キルドラは笑ってみせた。
「もう少し腕が立つと思ってたぜ」
「馬に乗らねば、ゴルルパなどその程度」
オルガイはそう応じた。
「まあ、知っていたがな」
その間に起き上がったフレイヤは、破れたドレスを素早くたくし上げ、腿の上で縛る。
オルガイはキルドラと向かい合ったまま、フレイヤに背を向けていた。立ち上がったフレイヤに、一瞥すらよこさない。
女だと思って侮っているのか。
それとも、さっきの攻防で実力を見切ったとでもいうのか。
間合いを測るフレイヤの目の前で、オルガイがキルドラに突進する。その斧の凄まじい一撃を、今度はキルドラは蛮刀で受け流した。
だが、それでも威力を殺しきれず、体勢を大きく崩される。
無防備な姿を晒したキルドラの前で、オルガイが腰をぐっと落とした。斧に、必殺の力が乗せられるのがフレイヤにも分かった。
いけない。
フレイヤは地面を蹴った。勝手に身体が動いていた。
だめだ。
絶対に、だめだ。
キルドラまで、失いたくない。
キルドラがいないなら、生きていたって仕方ない。
「やめて!!」
悲鳴のような声を上げて、フレイヤはがら空きのオルガイの背中に飛びかかった。
だが、その隙はモーグの戦士がわざと晒していたものだった。
背後のフレイヤの動きをまるで見ていたかのように振り向いたオルガイが、片頬だけで笑う。
斧を握る右腕が、ぼこりと膨れ上がった。
この斧に乗った力は。フレイヤは悟る。キルドラではなく自分を斬るためのものだったのか。
「フレイヤ!!」
キルドラが必死の形相でオルガイに切りかかろうとするが、崩れたままの体勢ではとても間に合わなかった。
オルガイ目がけて全力で突っ込んでいたフレイヤは、もう止まれなかった。
斧で両断されて、フレイヤは死ぬ。間違いなく、そのタイミングだった。
オルガイが斧を振るう。
フレイヤは歯を食いしばった。
こんなところで。
こんなところで、死んでたまるものか。
前だ。
ロイスの声が聞こえた気がした。
フレイヤ、忘れるな。前だぞ。
その声に導かれるように、フレイヤは思い切り踏み込んだ。立ち止まるのではなく、臆するのではなく、前へ。もっと速く、もっと強く、前へ。
誰かに、背中を強く押された感覚があった。
オルガイの斧が、竜巻のような音とともに空を切った。
それよりも先に、フレイヤがその懐に飛び込んでいたからだ。
フレイヤの剣はオルガイの岩のような胸を深々と貫いていた。
「二人ではなかったか」
オルガイはそう言うと、ごぼりと血を吐いた。
「迂闊だったな。もう一人、ともに戦っていたか」
そのまま、ぐらりと前のめりに倒れる。のしかかられそうになったフレイヤを、脇から抱き締めるようにして引き寄せたのはキルドラだった。
ずしん、という地鳴りのような音とともに崩れ落ちたオルガイは、そのまま動かなくなった。
「フレイヤ」
キルドラが真っ青な顔でフレイヤの頬を両手で押さえた。
「無事か。俺は、もうだめかと」
その声が震えていた。
「怖かった」
キルドラは頭から水を浴びたかのように汗びっしょりになっていた。
「こんなに怖かったのは、生まれて初めてだ」
「それは」
私の台詞。
あなたを失うことが、本当に怖かった。
自分が死ぬことよりも。
想いが溢れて、言葉にならなかった。
フレイヤは、そのままキルドラの唇を自分の唇で塞いだ。




