条件
「ねえ、ミリア。ちょっといいかしら」
今日も忙しく立ち働いていた侍女のミリアは、廊下でフレイヤに呼び止められた。
「はい、お嬢様」
ミリアは返事する。
「お願いがあるのよ」
笑顔のフレイヤは、生き生きとしていた。まるで少年のような笑顔だった。
ミリアは今でも覚えている。
エルスターク王子に婚約を破棄された時のフレイヤの、寄る辺ない背中を。
それを見ていたのは、付き添いの侍女であるミリアただ一人だ。
あれほどに悲しい背中を、今までミリアは見たことがなかった。これまでの自分の全てを否定され、崩れ落ちてしまいそうになるのを必死にこらえている背中。
崩れてしまわないからこそ、悲しかった。感情のままに泣き喚いてもらった方が、ミリア自身もどれだけ心が楽だったことか。
そしてフレイヤは、屋敷に帰るまでの馬車の中で、その短い時間で、全てを吹っ切ってみせた。きれいさっぱりと、それまでの努力も執着も捨て去ってしまった。
フレイヤが捨てた王都のあれこれの中にはきっと、ミリアも含まれている。
シェナイから戻ってきたフレイヤは、まるで別人のように活発になって、表情も生き生きとしていた。
あの思い出すだけでぞっとする賊の襲撃のあった晩、ミリアはこの家の主たちの本当の姿を目の当たりにした。
それは、ミリアの全く知らない世界だった。
ミリアは、王都で雇用された使用人だ。老執事のエスコットのように、アステリオ家領から同行してきた人間ではない。
だから、フレイヤに王都での常識や生活全般に関わるこまごまとしたことを教育するのは、ミリアの役目だった。
ダンスや難解な教養には専門の家庭教師が付いたが、それだけで王子に嫁ぐ完璧な令嬢が作り上げられるものではない。
もっと日常的な所作や振る舞い、考え方。
王都の令嬢としてのフレイヤの大部分を作ってくれたのは、ミリアだった。
だから、自分の教えたことが抜けていくにつれて、反対に生気を取り戻していくフレイヤを、ミリアは複雑な気持ちで見ていた。
フレイヤのためを思って精一杯やったことが、実はフレイヤの足かせとなっていた。
そのことに、少しの虚しさを感じてもいた。
そのフレイヤがこんなことを言い出した時、ミリアは困惑した。
「ここのところ、すっかりシェナイの頃の習慣で暮らしていたけれど、また王都の令嬢に戻ろうと思うの」
「それは一体どのような意味でございましょうか」
「今度、国王陛下主催の舞踏会があるでしょう。今のままではとても出られないわ」
フレイヤは言った。
「それに、アガート王子のところに“ソレータルの夜空”を献上に上がるときにも、私が行く必要があるから。こんな姿ではだめだものね」
フレイヤは後ろで無造作にまとめた髪を、手で掴んで苦笑する。
「シェナイの力を見せることはできた。次の戦いには、ミリアに教えてもらった王都の力も必要なの」
自分の力が、必要。
その言葉にミリアは瞬きした。
「だからもう一度、私を鍛え直してほしいの」
フレイヤが言う。
ミリアは答えることも忘れ、その精悍な顔を見つめていた。
自分のやってきたことは無駄ではなかった。
ほかならぬフレイヤ自身が、そう言ってくれた。そして、また力を貸してほしい、と。
「ねえ、お願いミリア。髪も、あなたに結ってもらうのがやっぱり一番素敵なのよ」
そう言ってにっこりと笑うフレイヤに思わず笑い返しそうになって、それからミリアは急いで厳しい顔を作ってみせた。
「お嬢様。そんな風にお笑いになってはいけません。笑うときは口に手を当てて、口元を見せぬように」
「はい」
フレイヤは嬉しそうに、口元に手を当てて微笑んだ。
「条件が整ったぞ」
執務室で、ルーシアがアガート王子からの書簡を広げた。
「こちらからは、“ソレータルの夜空”の献上と、王位争いが軍を交えての戦いに発展した際の、軍事力の提供を約束する」
「王位争いに、そこまで絡むのか」
キルドラが顔をしかめる。
「家宝だけじゃ足りねえのか」
「いいえ。むしろ、その条件はありがたいわ」
書簡の文字を鋭い目で見つめ、フレイヤは言った。
「アガート王子が、アステリオ家の力を当てにしてくれているということですもの。ですわね、義母上」
「うむ」
ルーシアは頷いた。
「“ソレータルの夜空”にしか興味がなかったエルスターク王子と違い、アガート王子はこちらの武力にも大きな期待を寄せていることが分かった。それも、やはりあの晩の一件が大きいと見て良い」
「武門の名誉を、多少は回復できたか」
ヴォイドが言うと、ルーシアは笑顔で頷く。
「ええ。旦那様のおかげでございます。あの夜の旦那様のご活躍といったら、もう」
甘い声で、うっとりと目を細めるルーシアに、キルドラは鼻白んだ顔をする。
「よく分からんが、武力も合わせて高く売れるということか」
「ええ。でもそれだけじゃないわ」
フレイヤは言う。
「もしもエルスターク王子が王位争いに勝ってしまったら、アステリオ家に未来はない。間違いなく、何らかの理由を付けて取り潰されるわ。だから、軍をもって争うような事態になったら、それはアステリオ家存亡の危機ということ。軍事力の提供どころか、敵の主力を私たちが叩くくらいのつもりで戦わなければならない」
「軍事力の提供なんて、当たり前の話ってことか」
「ええ。売るまでもない。自分たちのためにも、率先して戦わなければならないのだから」
そう言ってから、フレイヤはルーシアを見た。
「でも、それを高く売り込んでくださったのは義母上の手腕だわ」
「アガート王子にとっては、対抗相手がバルクーク王子になる可能性もあるのでな」
ルーシアは言った。
「アステリオ家の戦力を、いかなる場合にも提供してもらえるという条件は大きい。それはつまり我らがアガート王子にそう思わせるだけの力を示したということだ」
「こちらとしては、売られたケンカを買っただけだが」
キルドラが拍子抜けしたように言った。
「王都の人間にとっちゃ、それがずいぶんと新鮮だったってことか」
「軍事力で決着をつけるような事態になったら、むしろ幸運と思うべきかもしれない」
フレイヤは言った。
「私たちが積極的に関われるということですもの。アガート王子が自ら負けを認めて引き下がったり、暗殺されたりしてしまうというのが、最悪中の最悪」
「そうなったら俺たちも、力を振るう場所がないということになるか」
「ええ。だからこそ、今度の舞踏会も重要になる。ね、キルドラ」
フレイヤの言葉に、キルドラは複雑な顔で頷く。
「まあ、俺もやるとは言ったがな。しかし」
「その話は後でゆっくりとしましょう」
フレイヤは義母に向き直る。
「義母上、アガート王子からの条件は」
「うむ。まずはアステリオ家の地位の尊重。シェナイの統治権と、ゴルルパとの単独交渉権の維持」
それがまず何よりも重要だった。フレイヤは頷き、続きを促す。
「それに、資金の提供。金額は」
ルーシアの口にしたその数字に、ヴォイドが目を剥いた。
さすがのフレイヤも絶句する。
キルドラは、あまりぴんと来ない顔で、指を折っている。
「いっぺんに運べる額ではない」
一人、ルーシアだけが平然としていた。
「明日から数回に分けて運び込ませる。その最後の一回を受け取り次第、“ソレータルの夜空”を献上する」
つまりは、先払い、ということだ。フレイヤはその意味を考える。
フレイヤたちが絶句するほどの金額であっても、アガート王子にとっては交渉材料として使うことのできる、つまりは最悪の場合無駄になってもいい金額ということなのだろう。
そして、信頼をこちらに預けることで、アステリオ家を武門として遇そうとしている。
だからこそ、武力の上での失態は決して許されない。
「“ソレータルの夜空”を王子の屋敷に届けるのは、フレイヤ。そなたの役目だ」
ルーシアは言った。
「今度こそ、絶対に失敗は許されぬぞ」
「はい」
フレイヤは頷いた。
「たとえどんな妨害に遭おうとも、必ずや」
「まるで獣ではないか」
中庭に佇む三人の男たちを窓越しに眺め、エルスタークは眉をひそめた。
北の蛮族モーグ。
男たちは、いずれも、岩からそのまま切り出したかのようながっしりとした体躯をしていた。顔中に塗りたくった紫の顔料が不気味だった。
感情の読み取れない茫漠とした顔で、思い思いに地面に座っている。その姿はまるで獲物を待つ肉食獣のようでもあった。
時折、一人がまるで獣の唸り声のような言葉を発し、それに他の男がにやりと笑う。
男たちの獣臭が、ガラス越しにここまで臭ってくるかのようで、エルスタークは窓から顔を離した。
「まだゴルルパの方が人らしい姿をしている。言葉は通じるのか」
「はい。傭兵稼業をしている連中でございますので」
マレリーは答える。
「たどたどしいですが、共通語も多少は話します。命令は通じます」
「野蛮には野蛮を当てる、とはよく言ったものよ。野蛮という言葉が、戯れに人の形をとったかのような連中ではないか」
エルスタークは笑った。
「金に糸目はつけぬ。だが決して討ち漏らすな」




