王都の戦い
思わぬ反撃にあったエルスタークが屈辱に震えながら次の策を弄し始めた頃、アステリオ家でも状況は進展していた。
アガート王子に宛てて、“ソレータルの夜空”を献上したいという正式な書簡が当主ヴォイド・アステリオの署名入りで出されたのは、エルスタークの差し向けた賊が皆殺しの憂き目に遭ってから二日後のことだった。
アガート王子の反応は早かった。
アステリオ家にはすぐに、その意向を歓迎する、との返信が届いた。
だが、それで安心するわけにはいかなかった。
アガート王子であれバルクーク王子であれ、“ソレータルの夜空”を献上すると言われれば、歓迎するに決まっている。
だから、その返事が来ることは最初から分かり切っていた。
問題は、それに対する見返りだ。
護国の三宝と引き替えに、アガート王子はアステリオ家に何を提供してくれるのか。
今までの様々な交渉事において、ヴォイドは、アステリオ家に十分に配慮する、などという相手の曖昧な物言いに満足していたのが常だった。
それで何らかの担保を与えられたものと安心していた。
何の敵意も持たない相手を、理由もなく裏切るはずがない、と考えていたのだ。
だが、王都ではその程度の裏切りなど当たり前のことだった。むしろ、騙される方こそが愚かなのだという風潮すらあった。
今まで何度、そんな曖昧な口約束を反故にされてきたことか。
そのたびに、アステリオ家の貴重な財産は流出していったのだ。
苦い経験があるからこそ、この乾坤一擲の交渉を失敗するわけにはいかない。
ましてやアガート王子は、人柄だけで言えばエルスターク王子と大差ない、酷薄な人物なのだ。
“ソレータルの夜空”を渡してしまったが最後、後から何を交渉しようとしても後の祭りとなる可能性は十分にあった。
交渉には、繊細さと大胆さとが要求された。
賊との戦いでは無敵の活躍を見せたアステリオ家の面々だが、残念ながら、こういった方面では誰一人としてまともに役立たなかった。
キルドラは最初から自分の仕事とも思っていなさそうだったし、フレイヤにしても、できるだけ利を多く、という希望だけが独り歩きして、それを相手にどう適切に伝えればいいのか分からなかった。
ヴォイドにおいては、言わずもがなだ。
そんな中で力を発揮したのは、やはり義母のルーシアだった。
ルーシアはヴォイドの影武者のようになって、アガート王子との交渉を全て一手に引き受けた。
賊を迎え撃つときに、フレイヤたちが生き生きしている、とルーシアは言ったが、フレイヤから見れば、今のルーシアの方がよほど生き生きしていた。
兄のカークが見たら、「あの女狐も、俺などよりも男に生まれるべき人間であった」などとまた落ち込みかねない旺盛な仕事ぶりだった。
アステリオ家とアガート王子との間には、何通もの書簡が行き来した。
互いの本当の目的をはっきりさせず、決して直接的な物言いをしない、その迂遠なやり取りは、辺境育ちの自分達には真似ようとしても到底できない。フレイヤは舌を巻いた。
それが、王都での戦い方なのだ。
生きる場所が違う、と言ったのはキルドラだ。
「俺たちが草原を愛するように、ここの人間たちはあの湿った石畳を愛している。同じように石畳を愛せないなら、ここで生きるべきじゃない」
そうかもしれない、とフレイヤは思う。
きっと私もそうだ。慣れることはできても、王都の石畳を故郷のように愛することはできない。
だから、全てが終わったら、そのときは。
それを考えると、フレイヤはいつも、心に草原の風が吹き抜ける気がする。
帰ろう。シェナイへ。
それは、後戻りすることではない。きっとロイスも許してくれる。
王子との交渉とは別に、フレイヤが驚かされたのは、ヴォイドに対するルーシアの態度の変わりようだ。
ヴォイドに話しかけるときのルーシアの、鼻にかかったような甘ったるい声は今までと変わらない。けれど、フレイヤはそれが嫌ではなくなっていた。聞くたびにいつも背筋に走っていた怖気を感じなくなったのだ。
それがなぜなのか、フレイヤにもだんだんと分かってきた。
今までのルーシアの声は、完全な造り物だった。甘い声を出していても、その裏には声のような甘い感情など一片たりとも込められてはいない。
それは、商人が金払いの良い常連客に向ける愛想のいい笑顔と、何ら変わらないものだった。
けれど、今のルーシアは違う。
父を見る眼差しだけで分かった。ルーシアはまるで、父に恋をする乙女のようだった。
だから、その甘い声にも、感情が乗っている。フレイヤは少しこそばゆくこそ感じても、それを嫌だと感じることはなくなっていた。
義母が変わったのは、あの夜からだ。
フレイヤは考える。
賊の襲撃があった夜。
ヴォイドと同衾していたルーシアは、身体を震わせる夫を冷たい目で見ていた。
侵入してきた賊に命が狙われているということへの恐怖はあっても、夫を頼ろうという気配は微塵もなかった。
しかし、討手が二十五人と聞いたヴォイドは、そこでようやくシェナイの勇将としての誇りを思い出した。
父がベッドから立ち上がったときに、フレイヤは確かにむせかえるような草原の男の匂いを感じた。
ルーシアは、それに打たれたのだとフレイヤは思っている。
ゴルルパと相対していた頃の父が持っていた、生物としての純粋な強さ、オスの凄みのようなものに。
ルーシアとアガートとの交渉が大詰めを迎えた頃、一通の招待状が届いた。
「もうこんな時期でしたな」
エスコットがそう言った通り、それは毎年一度開催される国王主催の舞踏会への招待状だった。
「アガート王子も来るのか」
キルドラの問いに、フレイヤは頷く。
「ええ。それに、エルスターク王子も来るわ」
「なに」
キルドラは嫌な顔をする。
「それなら行かん方がいい。殿様と奥方にだけ行ってもらえ」
この頃にはキルドラもルーシアを“あの女”ではなく奥方と呼ぶようになっていた。
彼には王都の人間同士の細やかな機微のようなものはまるで分からないが、それでもルーシアの仕事ぶりには畏敬の念を持ったようだった。
「いいえ」
フレイヤは首を振る。
「この舞踏会が、私の王都での最後の目的なの。これを抜きにしてシェナイへは帰れないわ」
そう言って、キルドラに微笑みかけた。
「こっちには私情も大いに絡むのだけど。キルドラ、協力してくれるかしら」
「俺など最初から私情でしか動いていない」
キルドラは肩をすくめた。
「お前の美しさを解さぬここの人間どもが、もう二度とお前を傷つけることのないようにと。そのためなら臭い石畳も我慢するさ」
「ありがとう、キルドラ」
フレイヤが言うと、キルドラは真面目な顔で首をかしげた。
「だが、舞踏会だと? そんな場で俺にできることが何かあるかな」




