ロイス
“ソレータルの夜空”。
詩的な名前を持つその大ぶりの宝石は、アステリオ家の家宝だ。
深い濃紺の結晶の中に、輝く粒状の白い結晶がいくつも入ったそのさまが、まるで伝説上の楽園ソレータルの夜空のようであるとして、この名が付けられた。
かつて、アステリオ家の先祖がゴルルパの襲撃を撃退した折、戦利品として得たものだという。
金銭的価値もさることながら、この宝石は別の大きな価値を持っていた。
それは、国を護った者の神聖なる証だ。
シャーバード王国には、俗に“護国の三宝”と呼ばれる、他民族に対する勝利を象徴した三つの宝物がある。
王家が所有する、かつてアシュトン帝国の皇帝を捕虜とした際に得たという“皇帝シークの宝剣”。
南の大貴族ソリーグ家が所有していた、異民族の大船団を打ち破った際に敵の指揮官が身に着けていたという“双子竜の鎧”。
この豪奢な鎧は、先代国王がソリーグ家との婚姻を進める過程で、既に王家のものとしてしまっていた。
そして最後の一つが“ソレータルの夜空”だ。
この宝石は、西の異民族ゴルルパに対する勝利の証として、アステリオ家が今日まで所有してきた。
第二王子エルスタークがアステリオ家との婚姻に合意した理由はただ一つ、この“ソレータルの夜空”を手に入れるためであった。
王国の土地と民を他民族の手から護ったのだという神聖な勝利の証は、欲しても手に入るものではなかった。
王権を盤石なものとしたい王家は、これら“護国の三宝”全てを手に入れようとしている。
次の王座を巡って第一王子と暗闘を続けているエルスタークにとっても、“ソレータルの夜空”を有するということは、大きな武器となるはずだった。
アステリオ領シェナイ。
突然たった一人で帰ってきた姫の姿を見て、門番は仰天したが、フレイヤはどこへも連絡しないよう告げて街へ入った。
まずは、ロイスを訪ねよう。
フレイヤはそう決めていた。
彼女よりも一つ年上のロイスは、騎兵隊の隊長シュルトの息子で、今では彼自身も騎兵隊の指揮官の一人になったと聞いている。
ロイスとフレイヤとは、いわゆる幼馴染の間柄だった。
武勇を貴ぶ領主ヴォイドのもとを、その片腕であるシュルトが頻繁に訪れていたことから、フレイヤも自然、ロイスとよく顔を合わせていたのだ。
幼い頃は互いに身分も性別も関係なく、友達同士のように気さくに口をきいたものだったが、成長するにしたがって二人の距離は離れていった。
騎兵隊に入りたかったフレイヤとしてはロイスと変わらず親しくしたかったのだが、ロイスの方がフレイヤとの身分差を意識してだろう、臣下としての態度を明確にして二人の関係に一線を引いた。
だが結局、無茶なやり方で騎兵隊に飛び込んできたフレイヤを、陰に日向に支えてくれたのもロイスだった。
フレイヤは軍人の家系とも思えぬ、ロイスの穏やかな風貌を思い出す。
元気にしているといいのだけど。
ゆっくりと馬を進めながら、フレイヤはシェナイの街を懐かしく眺めた。
三年ぶりの故郷は、そう大きくは変わっていなかった。
相変わらずの賑やかな街の活気は、戦時の備えと同義だ。
突如、風のように襲来するゴルルパに対処するため、街ではいつでも何かを建てる騒々しい音が響き、人々は活発に動き回っていた。
王都の賑やかさとはまた違う、せわしなくも地に足の付いた活気だ。
少なくともフレイヤには、そう思えた。
街の中心部を抜け、騎兵隊の兵舎に近付いたところで、誰何を受けた。
このまま誰にも咎められずに兵舎に入ることができたらどうしよう、とフレイヤはそちらを心配していたくらいだったので、騎兵隊の規律が緩んでいなかったことにほっとする。
「誰だ、貴様。下馬せよ」
フレイヤの馬の前に立ちはだかった三人の兵士のうち、最も若い男が声を荒げてフレイヤを睨んだ。
「この先は騎兵隊の兵舎だ。貴様のようなものが近付く場所ではない」
若い兵士は威嚇するように、馬の鼻先に槍を突き出す。フレイヤはそれに答えず、フードを下ろした。
そこからこぼれた長い赤毛に、三人は目を見張る。
鼻まで覆っていたマフラーを解くと、若い兵士は「女か」と声を上げた。
「誰かの縁者か。それとも、女だてらに騎兵隊に入隊しに来たのか」
その兵士が言うと、隣にいた兵士が「ばかな。じゃじゃ馬姫様でもあるまいに」と笑う。
だが、彼らの後ろに立つ一番年配の兵士は笑わなかった。
「……姫様」
フレイヤの顔をまじまじと見て、その兵士は信じられないという顔で首を振った。
「まさか姫様でございますか。王都にいらっしゃる筈では」
「帰ってきたのよ」
フレイヤは馬上で微笑んだ。
「ロイスに用があるの。通ってもいいかしら」
「え?」
若い二人の兵士は年長の兵士を振り返る。
「今、ロイスさまを呼び捨てに」
「ばか。このお方が、貴様が言った姫様その人だ」
声を潜めたその言葉に、たちまち二人の顔が青ざめた。
「そ、そんなまさか。どうして」
「で、ではこの方が、三つ首岩の会戦で先陣を切ってゴルルパに突っ込んでいったという、あの」
「ありがとう。通るわね」
目を白黒させている兵士たちの脇を、フレイヤは駆け抜けた。
兵舎の脇の木に馬を繋ぐと、懐かしい兵営の中を歩く。
兵舎に近付くと、ちょうどそちらから歩いてくる一団に出くわした。
皆、騎兵隊の騎乗服を身にまとっている。
中央を歩く長身の青年が周囲の兵士たちから報告を受けているらしく、歩きながらてきぱきと指示を出し、それを受けた兵士たちは順次、走り去っていく。
やがて兵たちが全て去り、一人になったその青年は、整った顔を微かに曇らせ、うつむき加減で物思いにふけりながらフレイヤの方に歩いてきた。
フレイヤは笑いを噛み殺して、声をかけた。
「ロイス」
名を呼ばれ、青年が顔を上げる。
「あ」
フレイヤの姿を目にした途端、その顔にまるで少年のような笑みが浮かんだ。
「姫様。戻られていたのですか」
「ロイス。久しぶりね」
フレイヤは微笑む。
「シェナイに着いて、真っ先にここに来たわ」
「ご無事のお帰りで、何よりでございます」
そう言いながら、ロイスはフレイヤの前に立った。
フレイヤも女性としては背が高い方だが、こうして並ぶとやはりロイスの方が頭一つ分も高かった。
「あなた、また背が伸びたかしら」
「そうでもないと思いますが」
自分を見上げるフレイヤに、ロイスは苦笑して首を振る。
「三年前、姫様を見送らせていただいた頃には、もうこれくらいの背丈だったかと」
「そうだったかしら」
フレイヤは首を傾げ、それからロイスの尖った顎に目を留めた。
「少し瘦せたわ」
「色々と身に余る役目も多いゆえ」
ロイスは笑顔のままで、自分の引き締まった腹を手で叩く。
「姫様は、やはり王都に行かれて、お美しくなられましたな」
幼馴染の率直な言葉に、フレイヤは目を伏せた。
「よして。あなたにそんなことを言われると恥ずかしいわ」
「思ったことを言ったまでです」
ロイスはフレイヤの表情を慈しむように目を細める。
「お一人で戻られたのですか。大殿はご一緒ではなく」
「父上は戻らないわ」
フレイヤは言った。
「私も、三年前はもうここには二度と戻らない覚悟で出ていったのだけれど。結局戻ってきてしまったわね」
「ここは姫様の故郷」
ロイスは穏やかに、飾り気のない口調で言う。
「いつでもお戻りになればよろしい」
「ありがとう」
フレイヤは、今では黒騎士と呼ばれている幼馴染の顔をもう一度見上げた。
三年ぶりのロイスは、フレイヤの知るロイスのままだったが、けれどやはりどこか少し違っていた。
言葉にできないその差異が妙にくすぐったくて、フレイヤはすぐに目を逸らす。
「早馬は、いつ着いたかしら」
「三日前に」
端的に、ロイスは答えた。
「驚きましたが、まさか本当にお一人で戻られるとは」
「三日も前に着いたのね。私はずいぶんゆっくり来てしまったわ」
フレイヤは苦笑する。
けれど、それはシェナイの自分に戻るためには必要な時間だった。
「ロイス。“ソレータルの夜空”が奪われた話は聞いているわね」
その言葉に、ロイスも表情を改める。
「もちろんです」
「それなら、襲撃のときの状況も聞いているでしょう」
「はい。カーク様の付けた護衛は、決して少なかったとは思いませぬが」
ロイスは言った。
「それでも、賊は恐れることもなく襲撃をかけてきたと」
「ゴルルパでしょうね」
「まあ、間違いはないでしょう」
ロイスは微かに表情を曇らせる。
「風の如く騎馬で現れ、雨のような矢を降らせて護衛を排除し、“ソレータルの夜空”を奪っていったそうです。そんな真似ができるのはゴルルパ以外にいないでしょう」
「そのせいで私、エルスターク王子との婚約がだめになったの」
努めて何でもないことのように、フレイヤは言った。
「だからここに戻ってきたのよ」
だが、フレイヤの試みは失敗した。
「えっ」
ロイスはそう言ったきり、絶句した。何か言おうとして口を開いたが、言葉が見付からないようにまた口を閉じる。
「王子に、はっきりと言われたわ」
フレイヤは微笑む。
「“ソレータルの夜空”の無い私になんて、何の価値もないんですって」
ロイスは目を見開いたが、何も言わなかった。フレイヤは肩をすくめる。
「まあその計算高さが、王家が王家たる所以なのかもしれないわね。だからロイス。あなたの力を貸してほしいのよ」
「無論です」
フレイヤの言葉が終わるのも待たずに、ロイスは頷いた。その目が据わっていた。
「姫様を侮辱する者は、たとえ王子といえども」
「違うの。王子はいいの」
慌ててフレイヤはロイスの思い違いを正す。
「そっちは後回しよ。まずは奪われたものを取り戻すのが先決でしょう」
「奪われたもの。ということは」
ロイスの目が鋭さを帯びた。一見穏やかそうに見える彼も、やはり黒騎士の異名を取るほどの手練れの戦士なのだ。
「“ソレータルの夜空”をですか」
「ええ」
「しかし、おそらくすでにウルグクの手に渡っているはずですぞ」
ロイスはゴルルパの大族長の名を口にする。
「そうでしょうね」
フレイヤは頷いた。
「だから取り戻しに行くわ」
「軍を動かすのですか」
「いいえ」
フレイヤは首を振る。
「三人で行こうと思ってるの」
「三人?」
ロイスは眉間に微かにしわを寄せた。
「たった三人ですって?」
「ええ」
フレイヤは右手を開くと、名前を挙げながら、指を折って数える。
「私と、あなたと、それからキルドラ」
それからフレイヤは、ロイスの目を覗き込んだ。
「一緒に行ってくれる?」
呆気にとられたように、ロイスはフレイヤの顔を見返す。
長い沈黙があった。
やがて、黒騎士の異名を取る戦士は顔を伏せた。その肩が震える。
ロイスは、笑っていた。
「たった三人でゴルルパに」
笑いを含んだ声で、ロイスは言った。
「私が行かないと言ったら、どうするおつもりですか」
「その時は、二人になるわね」
フレイヤは努めて平然と答える。
「ちょっと厳しくなるけど、仕方ないわ」
「……姫様」
ひとしきり肩を震わせた後で、ようやくロイスは言った。
「私は先ほど姫様のお姿を見て、やはり王都へ行かれてずいぶんと美しくなられたと思ったのです。すっかり垢抜けて、都のご令嬢になられたと」
「ええ。そう言ってくれたわね」
「ですが、話をしてみれば何のことはない。中身はあの頃のまま、変わらないではありませぬか」
そう言ってフレイヤを見るロイスの目は、優しかった。
そこに含まれる深い親愛の情に、フレイヤは自分の胸が切なくうずくのを感じ、微かに戸惑う。
「じゃじゃ馬姫と呼ばれた頃のフレイヤさまと」
ロイスはフレイヤのあだ名を口にした。
「当たり前よ。私を誰だと思っているの」
胸のうずきを隠すように、フレイヤはわざと乱暴な口調で言った。
「王国の西の槍、ヴォイド・アステリオの娘なのよ」
ロイスは笑顔で頷く。
「そうですな。姫様はゴルルパの天敵たる大殿の血を引くお方。そして、我らアステリオ騎兵隊の一員でございました」
そう言うと、ロイスはフレイヤから一歩離れた。
そのまま滑らかな動作で、地面にひざまずく。
「たった二人だけのお供に、我が名を挙げていただき光栄です」
ロイスは言った。
「姫様が奪われたものは、必ずや奪い返しましょう。たとえこの命に代えても」