賊
「今日も網にかかった感触がありましたな」
夜遅くに、千鳥足でアステリオ家の屋敷に帰ってきたエスコットは、それまでの体たらくが嘘のようなしゃっきりとした顔で報告した。
「隣に座った男はさして興味がないふりはしておりましたが、ギラギラと光る目は隠しきれておりませんでしたな。これで都合何人になるでしょうな。エルスターク王子はもちろん、アガート王子にもバルクーク王子にも噂は届いていようかと」
「毎晩遅くまで、お疲れ様」
フレイヤの労いの言葉に、エスコットは赤らんだ鼻をひと撫でして笑う。
「なあに、楽しいばかりの仕事でしたわい」
それから、ふと真顔になる。
「それはそうと、歓迎の準備も整えておきませんとな」
「キルドラが中心になってやってくれているわ」
フレイヤは答えた。
「王都の人間が相手だからって、舐めてかかるわけにはいかないものね」
「そうでございますな」
エスコットは頷く。
「草原には草原の、王都には王都の戦い方がございます。舐めてかかれば末代までの恥辱となりましょう」
「ええ」
ここのところ毎晩、エスコットは夜の街へと繰り出していた。
酒と女が集まる場所には男が群がり、そして金と情報が飛び交う。
そこでエスコットは噂をばらまいていた。取り戻した“ソレータルの夜空”はアガート王子に献上するのだ、と。
アステリオ家の当主たるヴォイドの許しが出ない以上、フレイヤがアガート王子に対して正式に“ソレータルの夜空”献上を申し入れることはできない。
だが、そういう空気を醸成することならば、できる。
広々とした草原と違って、この薄暗い王都では、ときに噂話一つが鉄の鏃よりも鋭い武器となり得る。
エルスタークは信じるだろう。
フレイヤはそう確信していた。
エルスタークという男の人となりをフレイヤは知っている。そして、アステリオ家をいかに見くびっているのかも。
あなたは、自分が歩くのに邪魔な石を道の外に蹴飛ばしただけのつもりなのかもしれないけれど。
フレイヤは思った。
アステリオ家は、石ではない。あなたを引き裂く牙も爪も持った獣だ。そのことを、教えてさしあげる。
義母のルーシアが屋敷に戻ったのは、その翌日のことだった。
「お嬢様」
侍女のミリアが、キルドラや騎兵隊の面々に混じって作業をしていたフレイヤを呼びに来た。
「奥様が、お戻りになられました」
「分かったわ」
フレイヤは顔を上げて、汗を拭った。
「今行くわ」
「その格好で、でございますか」
ミリアは顔を曇らせた。
フレイヤは確かに、日雇い人夫のような格好をしていた。それで、大貴族の血を引くルーシアを迎えに出るのは、いかにも無作法だった。
「いいのよ」
フレイヤは微笑んだ。
「義母上も、もうご存じだわ」
「さようでございますか。……ですが」
「お待たせしてはいけないわね」
まだ心配そうな顔のミリアの肩を叩くと、フレイヤは小走りに駆け出した。
「おう」
馬車から下りたルーシアは、果たして出迎えたフレイヤの格好に目を見張った。
「誰かと思ったぞ」
「義母上、このような格好で、申し訳ございません」
フレイヤは笑顔で言った。
「諸々、準備を整えておりますゆえ」
「生き生きしておるな」
ルーシアは眉をひそめはしたが、フレイヤの無作法を咎めなかった。
「よい。王都のやり方では、決して勝てぬのだ。シェナイ流とやらでやってみるがいい」
「はい」
フレイヤは、義母を父の部屋へと案内する。
ルーシアに、アガート王子への献上の件の口添えを頼むためだった。
ルーシアの帰還を誰よりも待ちわびていたのは、ほかならぬヴォイドその人だった。
「旦那様。ルーシア、戻りましてございます」
「おお、ルーシア!」
ヴォイドを前にしたときにルーシアの発する甘い猫なで声に、フレイヤの背筋はいつもぞぞぞっとするのだが、ヴォイドにとってはその声が魅力的に響くようだった。
「長きお暇をいただき、申し訳ございませんでした」
「いいのだ。近う寄れ」
ヴォイドは嬉しそうにルーシアを手招きする。
相好を崩すヴォイドに、ルーシアは言葉巧みに“ソレータルの夜空”の話題を持ちかけた。
だがルーシアの口添えがあっても、ヴォイドはやはり首を縦には振らなかった。
「ルーシア。“ソレータルの夜空”が戻った今こそ、もう一度フレイヤをエルスターク王子の婚約者にするのだ」
ヴォイドは力強く言った。
「そなたの力ならばできる」
「それは無理と、今も申し上げたばかりでございましょう」
ルーシアが柔らかくたしなめる。
「アガート王子にお譲りする方が、現実的な案でございますわよ」
「いや、そんなことはないのだ。俺には分かっている」
「でも、旦那様」
父と義母の会話が堂々巡りになってきたところで、フレイヤはそっと部屋を出た。
腕組みをしたキルドラが待っていた。
「殿様はどうだ」
フレイヤは首を振る。
「相変わらず」
「あの女の説得でもだめか」
「そうね。今のところ」
「もう草原に連れ帰るしかないんじゃねえか」
「それができれば、今すぐにでもそうしているわよ」
しばらく二人で話していると扉が開き、ルーシアが出てきた。
ルーシアは疲れた顔に呆れたような表情を浮かべていた。
「駄々っ子と同じだな、あれは」
先ほどヴォイドに聞かせていたのとはまるで違う、低い嗄れ声だった。
「前は、もう少しまともなお方だったと思ったがのう」
「父上は、今まで王都で間違えすぎて、何が正解なのか見失ってしまわれたのでございます」
フレイヤの言葉に、ルーシアは肩をすくめて息を吐いた。
「まあもうしばらくは、話してみるがの。時間がかかるぞ、あれは」
おそらくそれまでに事態は動く、とフレイヤは見ていた。
アステリオ家の屋敷に賊が侵入したのは、それから数日後の深夜のことだった。
高い壁を造作もなく乗り越えた賊は、滑るように屋敷へと近付いたが、キルドラが中心となって作り替えた庭の照明の配置は、どの明かりがどう遮られたかによって敵の人数を把握することができるように計算されていた。
「二十五人」
三階の窓から庭を眺めていたキルドラは、フレイヤに言った。
「予想よりも多いな」
「ありがたいわ」
フレイヤは答える。二人ともすでに、騎乗服姿だった。
「エルスターク王子も本気っていうことだもの」
フレイヤは窓から身を離す。
「キルドラ、部下の指揮をお願い」
「ああ」
「私は父上にお伝えしてくるわ」
「先に始めているぞ」
「ええ、頼むわ」
フレイヤが階段を駆け下りると、老執事のエスコットが追い付いてきた。短い槍を手にしている。
「お嬢様、いよいよですな」
「ええ」
いよいよ。その通りだ。
父の寝室の前まで来ると、フレイヤはその扉を開けることを一瞬ためらった。
きっとこれが、最後のチャンスだ。
前へ。
ロイスの言葉を自分に言い聞かせる。
覚悟を決め、フレイヤは扉を開いた。
「父上! 起きてください、父上!」
大声で叫びながらベッドに駆け寄り、眠りこけていたヴォイドを揺り起こす。
隣で眠っていたルーシアも目を開ける。
「何事だ」
ヴォイドは寝ぼけた目を開けた。
「フレイヤか。その格好は何だ」
「賊です」
フレイヤは端的に答えた。
「賊が、“夜空”を奪いに侵入してまいりました」
「なに」
「我々の命も狙っているようです」
「な、なんだと」
ヴォイドが慌てて上体を起こし、その隣でルーシアも息を吞む。
「賊が、この屋敷にだと」
娘と妻の前で、ヴォイドは憐れなほどにうろたえた。
「い、い、一体誰が。ゴルルパか」
「エルスターク王子の手の者かと」
「それ見たことか」
ヴォイドは震える声で叫んだ。
「フレイヤ。お前がアガート王子に擦り寄ろうとなどするから。エルスターク王子の怒りを買ってしまったではないか。俺の言う通りにしておけばよかったものを。いったいどうするつもりだ」
「戦うしかありますまい」
フレイヤは努めて冷静に答えた。
「敵は下賤な賊。交渉の余地などありますまい」
「戦うだと」
ヴォイドの身体はぶるぶると震えた。
「この人数でか。無茶なことを。敵は何人いるのだ」
「ざっと見て、二十五人」
「……なに?」
ヴォイドが、驚いたようにフレイヤを見上げた。
「何人だと?」
「二十五人でございます」
フレイヤは答えた。
「それが一斉に、屋敷への侵入を図っております」
「……二十五人」
ヴォイドが呟く。ルーシアが、はっと隣の夫を見た。夫の身体の震えが止まっていたからだ。
「……そうか」
ヴォイドが、ぽつりと呟いた。
「フレイヤ」
低い声で、ヴォイドは娘の名を呼んだ。
「はい」
「今、ようやく理解したぞ」
ヴォイドはベッドの上で胡坐をかいた。静かな声だった。
「そうか。俺はこの王都で、その程度の男と思われていたか。お前の言う通り、アステリオ家の名はそこまで地に墜ちていたのか」
自分を見上げるヴォイドの目に、フレイヤの胸は詰まった。
あらゆる感情が溢れ出しそうになって、それでもフレイヤはそれを必死にこらえ、「はい」とだけ答えた。
「この俺を討つのに、二十五人だと。バカ王子め、もう少し計算の出来る男だと思っておったが」
ヴォイドは、フレイヤの背後に目を向けた。
「エスコット」
「はっ、ここに」
「俺の剣を持ってこい。いつもの飾りのようなあれではなく」
「大殿が三つ首岩の会戦でウルグク目がけて投げつけた、あの剣でございますな」
「おう、それだ」
「かしこまりました」
駆け出すエスコットの声が喜びに震えていた。
ヴォイドがゆっくりと立ち上がる。その身体から立ち上る草原の男の香気を、フレイヤは久しぶりに嗅いだ。
「このヴォイド・アステリオを討つのに二十五人だと」
ヴォイドはもう一度言った。
「桁が一つ足りぬわ。なあ、フレイヤ」
「はい」
フレイヤは頷く。
「おっしゃる通りでございます」
「気付くのが遅すぎたな」
ヴォイドはフレイヤの肩を叩いた。
「すまん、フレイヤ」
フレイヤは首を振る。何も答えられなかった。
「ルーシア」
ヴォイドはベッドの妻を振り返る。
「はい」
「お前はここで待て。すぐに終わる」
そう言って獣のような笑みを浮かべたヴォイドを、ルーシアは初めて出会った男のように見た。




