第二王子
薄暗い部屋の中央に置かれた大きな執務机。その上には、一枚の地図が広げられている。
中央やや南に王都が描かれたその地図は、シャーバード王国全土を網羅している。
燭台の明かりを頼りに長い手紙を読んでいたシャーバード王国第二王子エルスタークは、整った怜悧な顔を上げて薄く微笑むと、傍らに置かれた小箱からほっそりとした指で白い石を摘まみ上げ、地図上に置く。
こつこつ、と控えめなノックの音がして、エルスタークは地図を見つめたまま、「入れ」と言った。
「失礼いたします」
入って来たのは王子の忠実な側近、マレリーだった。
「カルコム家は、私を支持するそうだ」
地図から顔を上げることなく、エルスタークは言った。
「おお」
マレリーは顔を綻ばせ、王子に近付く。
「カルコム家が我が方に付けば、南の勢力図は一変しますな」
「うむ」
エルスタークは広げた地図を指差す。
「見ろ」
王国の南に散らばる黒い石を圧するかのような、大きな白い石。
「カルコム家の軍事力は南でも抜きんでておりますからな」
マレリーは明るい声で言った。
「いずれ、軍をもって雌雄を決せねばならぬ時は、重要な力になろうかと」
「うむ」
エルスタークは頷く。
「私とアガートを天秤にかけておったが、私に付くのが正解だとようやく理解した。これで母上もバルクークではなく私こそが次期王にふさわしいのだとご理解されることであろう。アガートにとっては大きな失地だ。焦るであろうな」
「その、アガート王子のことでございますが」
室内には王子と自分しかいないというのに、マレリーは声を潜めた。
「殿下のお耳に入れたき儀が」
「何だ」
エルスタークの表情に微かな緊張が走る。
「おかしな動きがあるのか」
「殿下は、護国の三宝の一つ、アステリオ家の“ソレータルの夜空”を覚えておいでですか」
「ああ」
エルスタークは不快そうに鼻を鳴らした。
「蛮族に奪われた、あの間抜けどもの家宝のことだろう」
エルスタークは地図の西方に目を向ける。
辺境、シェナイの地には、アステリオ家を示す小さな黒い石が置かれていた。
元々は白い石、すなわちエルスターク側の勢力として計算に入れていたが、あれだけの仕打ちをした後でまだ自分を支持するとはさすがのエルスタークも思ってはいなかった。
とはいえ、王都から遠く離れた辺境の、傾きかけた弱小勢力のことなどもう気にも留めていなかったし、捨てた元婚約者の顔など早くも記憶から薄らぎ始めていた。
「それがどうかしたか」
「アステリオ家のフレイヤ嬢が、ゴルルパの手から取り戻したようでございます」
「なに」
エルスタークは目を見張る。
「フレイヤが取り戻しただと? どうやって」
「そこまでは分かりませぬが」
マレリーは首をひねる。
「しかし、どうやらそれをアガート王子に献上しようと画策しているようで」
「なんだと」
それは聞き捨てならない話だった。
「確かか」
「街に放っている情報屋から、日を異にして二件、上がってまいりました。アステリオ家に仕える年老いた執事が、街の酒場で泥酔してこぼしたそうでございます」
マレリーは言った。
「殿下が婚約を破棄されてから、あの屋敷からは使用人もずいぶんと逃げ出しているそうで。その執事もずいぶんと不満を抱えていたようですが、その割には羽振りのいい飲みっぷりだったので、客を装った情報屋がそれとなく聞いてみたところ、アガート王子に家宝を譲るので近々すごい大金が入ってくる、その一部を退職金代わりにもらって辞めてやるのだ、とずいぶんな威勢だったそうで」
「売る、だと」
護国の三宝を、アガートに。
アステリオ家は没落させようと思っていたが、自分の行動の余波で、予想よりも早く没落させ過ぎたか。
エルスタークは素早く頭の中で計算を巡らせた。
自勢力の拡大に余念のないエルスタークは、人脈や軍事力などの具体的な力についてはすでに相当な水準で有していた。
王位へのだめ押しとするために必要なのは、権威だ。王となる者が纏う神秘性といってもよい。
この国の貴族たちが皆、次の国王はこの方だと理屈抜きに認めるような、権威ある何か。
それが、シャーバードの国土を異民族の手から守った英雄の証たる、護国の三宝だった。
そのうちの二つは既に王家、すなわち父王の手にある。
もしも最後の一つを、アガートが手にしたら、その影響はいかほどだ。
無視できぬ、とエルスタークは判断した。
決定的な要因とはならない。だが、アガートはそれを最大限に活用するはずだ。局面に無視できぬ影響を与えるだろう。
「アガートには、やれんな」
エルスタークは言った。
かといって、このタイミングで自分が手に入れるのはあまりに不自然だ。
アステリオ家のフレイヤとの婚約を、エルスタークは並み居る貴族の面前で破棄している。
新たな婚約者に据えようとしているサンテル家はアステリオ家など比べものにならないほど裕福だ。
愚かな当主ヴォイドであれば、それでもエルスタークに献上してくる可能性はなくもなかったが、さすがに娘のフレイヤが承諾しないだろう。
今さら家宝を献上したところで、失った面目を回復することなどできないのだから。
そんなことは、誰でも分かる。
「要は、アガートの手に入らなければいいのだ」
エルスタークは、マレリーに顔を向ける。
「“夜空”は、アステリオ家の屋敷にあるのか」
「そのようでございます」
マレリーは頷く。
「城門の記録を取り寄せましたところ、アステリオ家のフレイヤ嬢の一行が二十日ほど前に入ってきております。そのときに、持ち込まれたものかと」
「そうか」
エルスタークは酷薄な笑みを浮かべた。
「なあ、マレリー。草原のゴルルパどもは、まだあの宝石にたいそう未練があるようだな」
「は?」
急な話題の転換についていけず、マレリーが目を瞬かせる。
「ゴルルパでございますか? いえ、今のところそのような情報は……」
「いや、執心しておる」
エルスタークは断言した。
「蛮族どもめ、王都の人間を味方に引き込んでアステリオ家の屋敷を襲撃するとは。なんと執念深い奴らよ。そして誰も生き残ることができぬとは、なんと憐れなアステリオ家の一族。せめて家督はシェナイにいる長男に継がせてやるとよい」
「……ああ」
ようやく合点した顔で、マレリーは頷いた。
「その賊の人数は、いかほどでございましたか」
「そうよな」
エルスタークは、ヴォイドの醜く太った身体を思い出した。あれを殺すのに何人も要るとは思えなかった。それに、使用人もほとんどいない。
「手練れを、二十五人」
アステリオ一族を殺すだけならば多すぎる気はしたが、広い屋敷を捜索するのにはやはり人数が要るだろう。
「“ソレータルの夜空”は賊に奪われ、行方知れずとなる」
エルスタークの言葉に、マレリーが頷く。
「まあ、数年後にどこかから見つかるかもしれぬがな」
そう言って、エルスタークは冷たく微笑んだ。




