父の世界
「ならん」
首を振ると、顎の下のたるみが一拍遅れてぶるんと震えた。
「言ったはずだ。“ソレータルの夜空”はエルスターク王子に引き渡すと。そうあるべきなのだ。それがもともとの約定なのだからな」
そう言うと、アステリオ家当主ヴォイドは、険しい目付きで娘を睨んだ。
「アガート王子はエルスターク王子の政敵だぞ。当てつけのように“夜空”をアガート王子になど渡してみろ。アステリオ家は誇りも何もなく、餌をくれる者に尻尾を振る駄犬かと、王都中の笑いものになるわ」
アステリオ家の屋敷。当主が政務を執る、執務室。
かつてはアステリオ家の力を誇示するように、壁には華やかな絵画が何枚も飾られ、調度品も床もぴかぴかに磨かれていた。
だが今や、部屋の隅には蜘蛛が巣を張り、ヴォイドが太い腕を置く大きな執務机にはうっすらと埃が積もっていた。
エルスターク王子との婚約が破棄され、ルーシアとフレイヤが相次いで屋敷を出ると、光を失ったこの屋敷からは多くの使用人が去っていった。
老執事エスコットや忠実な侍女のミリアはフレイヤの帰りを待ってくれていたが、それでもこの広い屋敷をわずかな人数で切り盛りするのは困難だった。あまり使わない場所の清掃が行き届かなくなるのも無理はなかった。
執務机の埃は、アステリオ家の現状を如実に示していた。
ヴォイドはあれからというもの、この執務室に立ち入ることなどほとんどなかったのだ。だから、この部屋の掃除は後回しにされてきたのだ。
「お言葉ではございますが」
机を挟んで父の前に立つフレイヤは言った。
「父上は、まだアステリオ家に誇りが残っているとお思いですか」
「なに」
ヴォイドはぎょろりと目を剥く。
かつては、その眼光ひとつで騎兵隊の荒くれ者たちを一瞬で静かにしたものだった。
だが、いまや酒に濁った眼には何の威厳も感じられない。
父に睨まれても、平然としていられること。それが逆にフレイヤには悲しかった。
「王都でアステリオ家がどのように言われているのか、この屋敷に残られている父上の方がよほどよくお分かりかと思っておりましたが」
ヴォイドは、ふう、とため息を吐くと、また首を振った。
「まだまだ未熟だな、フレイヤ」
「と、いいますと」
「妬み、嫉み」
ヴォイドは重々しく言った。
「この王都には、そういう汚い感情が渦巻いておる。皆、王家との結びつきの強いアステリオ家を羨んでおるのだ。口さがない連中というのは、どこにでもいる。いいか、フレイヤ。そういう連中の言うことにいちいち心を動かされてはいかん。雑音には耳を貸さず、冷静に自分と周囲の状況を見定めるのだ」
父は、老練な自分が未熟な娘に訓戒を垂れているつもりなのだろう。だが、今この場で最も冷静に状況を見ることができていないのは、ヴォイドその人だった。
「お前自らが勇を振るい、ゴルルパから“夜空”を取り返してきたのだと伝えれば、エルスターク王子の胸中にも必ずや変化が起きる。一度はもう手に入らないと思ったものが手に入ると分かったときの喜びは大きいぞ。そして、アステリオ家はそこまで自分に尽くそうとしてくれているのか、という感動すら覚えるだろう。フレイヤ、我らが乗じるのはそこだ。我らの忠義に報いるには、お前を再度婚約者として迎えるしかないと、王子にそのように思わせることができれば我らの勝ちだ」
フレイヤの隣でヴォイドの話を聞いていたキルドラが、微かに顔を歪めたのがフレイヤにも分かった。
フレイヤも不快だった。
父は、エルスタークという人物を何だと思っているのだろう。
彼がそんな義理や人情にほだされる人間であったなら、おそらくはそもそも最初からフレイヤを婚約者には選ばなかった。
フレイヤと婚約したことも、それを破棄したことも、徹頭徹尾、ほかの王子たちとの継承権争いに勝つための手段に過ぎなかった。エルスタークはそういう人間だ。
「殿様、俺の聞いた限りでは、第二王子ってのはそんな湿り気の強い人間ではないようだったけどな」
フレイヤの気持ちを代弁するかのようにキルドラが言った。
「向こうさんだって、もうフレイヤとの婚約を破棄しちまった以上、“ソレータルの夜空”を手に入れるにしても他の手を使うと思う。少なくとも、フレイヤともう一回婚約するっていうのは外聞が悪すぎるんじゃねえか」
そうなのだ。フレイヤは小さく頷く。草原暮らしのキルドラにすら、そのくらいのことは分かるのだ。
あれだけの公衆の面前で、フレイヤに恥をかかせる形で婚約を破棄した以上、エルスタークがまたフレイヤを婚約者に迎えるなど、自分の浅慮や迂闊さを認めるようなものだ。
エルスタークが喉から手が出るほどに“夜空”を欲しがっていることは間違いないが、それでもフレイヤと再婚約をすることはあり得ない。ましてや父の言うような甘っちょろい感傷に駆られてなど。
「親父も言ってた」
キルドラは言った。
「ウサギの穴を一つ見付けたからといって、ずっとそこに張りつき続けるのは間違いだ。ウサギはこの世に一匹だけではないし、ウサギの穴だっていくつもあるのだと」
「エンドラは武人だった、王都の政治は分からん」
ヴォイドは苦々しい顔で首を振った。
既にこの世を去った盟友の名を出されるのは、ヴォイドにとっても気分のいいものではないようだった。
「キルドラ。フレイヤと“夜空”の護衛が終わったのだから、いつまでも屋敷に留まらずにシェナイに戻れ。ゴルルパへの備えとして、カークの力になれ」
「“夜空”の処遇が決まるまでは」
フレイヤは素早く口を挟んだ。
「キルドラには残ってもらいます。今の屋敷の態勢では不十分です。万が一にも、再び賊に奪われるようなことがあってはなりませんから」
確かに屋敷の人間が少なくなったことは、ヴォイドも認めざるを得なかった。
ふん、と鼻息を吹いて、それからヴォイドはもう一度言った。
「とにかく、アガート王子に献上するなど、言語道断。この俺がもう一度ルーシアに諮り、エルスターク王子へと引き渡す算段を決める。フレイヤ、お前も王子の婚約者として恥ずかしくない振る舞いを、もう一度身に付けておけ」
執務室を出ると、キルドラが盛大に舌打ちした。
「本当に話の通じねえ殿様だぜ。フレイヤがエルスタークの婚約者になるなんて、一番あり得ない話じゃねえか」
「父上の世界では、まだそうなのよ」
フレイヤは言った。
「それはそれとして、父上の世界が私たちの世界と重なるのをのんびりと待っているわけにはいかないわ」
「じゃあ、動くのか」
「ええ」
フレイヤはそのまま廊下を抜け、「じいや」と声をかけた。
「お嬢様、お呼びでございますか」
老執事のエスコットが奥からひょこひょこと歩いてきた。いなくなった使用人たちの代わりにどこかを掃除していたのだろう、腰に汚れた雑巾をぶら下げていた。
「父上に話してみたけど、やっぱり今日も認めてもらえなかったわ」
フレイヤが言うと、エスコットは、
「左様でございますか」
と眉をひそめる。
「大殿様も、言い出したら聞かない方でございますからな」
「そうね」
自分の判断に自信を持つことは悪いことではない。戦場で、指揮官がそわそわ、おろおろとしていたら、兵たちも動揺する。
けれど、ヴォイドはこの王都という静かな戦場では、その判断を誤り続けてきた人だ。
「ご説得には、なかなか骨が折れるとは思いますが」
そう言いながらエスコットは優しい笑顔を浮かべ、居間の扉を開ける。
「ミリアに言って、飲み物を持ってこさせましょう。お嬢様も少しお休みになられては」
「ありがとう。でもいいの。別に疲れてないわ」
フレイヤはそう言って、エスコットに身を寄せた。
「実はじいやにお願いがあるの」
「私にでございますか」
エスコットがきょとんとする。
だが、フレイヤが声を潜めて話すのを聞いているうちに、エスコットの好々爺然とした顔に、シェナイ人特有の凶暴さを秘めた笑みが浮かんだ。
「それは、面白い話でございますな」
エスコットは言った。
「そういう話を待っていたのでございます。久しぶりに、このおいぼれの身体にも血が滾ってまいりましたぞ」
そう言うと、雑巾を廊下の手すりにぽんと引っかけた。
「これは、掃除などしている場合ではないわ」




