シェナイ流
王都は今日も、くすぶったような暗い影の下にあった。
もともと日当たりの悪い土地というわけではない。
だが、多くの人が集まり、家々が密集するうちに、いつしかその影が地面を覆い尽くし、日の光は届かなくなった。
だから王都の中心部にはいつもこもったような湿った臭いが漂っている。
来たばかりの頃はこの臭いが嫌で仕方なかった、とフレイヤは思った。
石畳を覆う汚泥を避けるために履かざるを得ないこの高いヒールの歩きづらい靴も、草原の街で暮らしてきたフレイヤには苦痛だった。
けれど、いつの間にか慣れてしまった。
この臭いにも、この靴にも、何の感慨も抱かなくなってしまった。
こつ、こつ、と小気味よい音を響かせて歩くフレイヤの隣には、まだそれに慣れない草原の民の血を引く男が一人。
「ああ、くそ」
派手にくしゃみをして、キルドラは毒づいた。
「王都ってのはどこに行ってもこの臭いだな。もう鼻の中にまで染み着いてしまった」
「私も慣れるまで、結構時間がかかったわ」
フレイヤは言った。
「でも、嗅覚って他の感覚と比べればずっと早く慣らされるものらしいから、あなたもあと少しの辛抱よ」
「俺は慣れたいとは思わん」
キルドラは汚泥の上に唾を吐く。
「日がここまで差しこまぬせいだ。だからいつまでたっても泥が泥のままで、そのうちに腐るんだ。為政者にそれが分からんはずがないだろう」
「そうね」
フレイヤは認めた。
「でも、邪魔だからって家を壊して住んでいる人たちを追い出すわけにもいかないでしょ?」
「俺が王ならそうする」
キルドラは不遜な言葉を吐いた。
「全部ぶっ壊して、今の何倍も風通しのいい街に作り替えてやる」
「そうね。あなたならそうするわね」
フレイヤは笑った。
「それも面白いかもしれないわね」
並んで歩く二人の前後には、護衛の男がさらに三人付き従っている。
いずれもシェナイから連れてきた、騎兵隊の選りすぐりだ。
フレイヤは、義母であるルーシアの実家を訪れた帰りだった。
予想はしていたが、やはり義母は、フレイヤが婚約を破棄されたあの日以来、父の元には戻っていなかった。
不遇な人生の逆転を賭けた乾坤一擲の策が破れた以上、その残骸にいつまでも縋るのは自分のプライドが許さない。
ルーシアはそういう女だった。
だから、彼女の実家を訪ねたときも、最初は取り次いでさえもらえないのではないかと危惧した。
だがルーシアは意外にもさばさばとした表情で、血の繋がっていない娘を迎えた。
……あの人は、どこまでもあの人だったわね。
フレイヤは、先ほどの義母とのやり取りを思い返していた。
「女僧にでもなろうと思っている」
フレイヤとキルドラの前に姿を見せたルーシアは、化粧っ気のない顔を綻ばせ、砕けた口調で言った。
「外戚になって王家を牛耳るという夢を、一度でも見ることができたのだ、それでよしとする。満足とは言わないが、それ以上は望むなという神の仰せなのであろう」
だがフレイヤとしては、義母にそんなさっぱりと潔く諦められては困るのだった。
「義母上、今日伺ったのはほかならぬその件でございます」
フレイヤは傍らに控えるキルドラに目配せして、それから切り出した。
「“ソレータルの夜空”をゴルルパから取り返しました」
「ほう」
ルーシアは微かに目を見張った。父よりは年下とはいえフレイヤよりも遥かに年長なはずなのに、化粧もしていないその目元にはまだ妖艶さが漂っていた。
「取り返したとな。シェナイで戦でも起こしたのか」
「戦までは、さすがに。ですが、それに近いことはいたしました」
フレイヤが答えると、ルーシアは喉の奥でくっくっ、と笑った。
「なるほど。道理でそなた、初めて出会ったときの粗野な顔に戻っておると思ったわ」
「左様でございますか」
フレイヤが自分の頬に手を当てると、ルーシアは頷く。
「この田舎娘を王子に嫁がせるには、相当骨が折れると、その当時も思ったものよ。だが、王都育ちのやわな令嬢には蛮族から家宝を取り返す才覚はあるまい。何事にも良い面と悪い面とがある」
ゴルルパを躊躇なく蛮族と言い放ったルーシアにキルドラの眉がぴくりと動いたが、そもそもルーシアは最初からキルドラを一瞥すらしていなかった。
「それで、どうする」
ルーシアはわずかに身を乗り出した。
「そなたをまたエルスターク王子の婚約者に捻じ込むというのは、さすがにきついぞ。そなたが王都を離れている間に、幾人もの貴族の娘が立候補している。はっきり言えば、女としての魅力だけでいえば、もはやそなたに勝ち目はない。“夜空”を足してとんとんといったところか」
「そうでございましょうね」
フレイヤは頷いた。
この極めて打算的な物言いが以前のフレイヤは嫌いだったが、今はルーシアのこういう性格がありがたかった。
余計な感情抜きに、義母と娘という立場も関係なく、損得だけで話をすることができる。
「アガート王子に献上しようと考えております」
「なに」
ルーシアの目が光を帯びた。
「アガート王子にただでくれてやろうというのか」
「十分な恩は売るつもりでおりますが」
「甘いな」
ルーシアは優雅に首を振った。
「恩などいくら売ったところで、それをありがたく思うような育ち方はしておらぬ。王家の人間というのは、そういうものだ」
「義母上のおっしゃる通りかと」
フレイヤは慌てなかった。
「ですから、アステリオ家の力を見せつけた上で恩を売ります」
「力?」
ルーシアはわずかに目を見張る。
「もはや力などあるまい。アステリオ家の蓄財は、そなたのお父上が全て吐き出しておしまいになったのだから」
「はい。財貨はございません」
やはり。
フレイヤは思った。
やはりルーシアほどに聡明な女であっても、力とはカネであると信じて疑わない。
それがこの王都に住む人間の限界なのだ。
ルーシアが異民族の血を引くキルドラを下賤の者として、一瞥すら与えぬように。
アステリオ家の持つ異質な力が、王都の人間には見えていない。
だからこそ、付け込む余地がある。
「今までは王都のやり方に従おうと力を尽くしましたが失敗いたしました」
フレイヤは微笑んだ。
「ですから、今度はシェナイ流でやらせていただきたく」
その表情に、ルーシアが表情を曇らせる。
「何を企んでおる。あまりに無謀な真似は、命を縮めるぞ」
「命など、とうに縮めてまいりました」
フレイヤは答えた。
「危険は義母上にも及ぶやもしれませぬ。こちらにおられては義母上を十分に守れませぬゆえ、アステリオ家の屋敷に戻っていただきたく存じます」
その言葉に、ルーシアは鋭い目で義理の娘の顔を見た。フレイヤも王都育ちの女の顔を見返す。
しばらく、二人は無言で見つめ合った。
やがて、ルーシアが表情を和らげ、ふ、と笑みを漏らした。
「そうか。もう一勝負するか」
「はい」
「ヴォイド様には、嘘偽りなく感謝しておる」
ルーシアは言った。
「最初の夫とわずか一年で死に別れ、この家に帰され、あとは何も為さぬまま朽ちていくばかりと思っていた。だが、ヴォイド様は私に夢を見させてくれた。欲していたのが私ではなくこの家の力だったとしても、王家に手が届く夢を見ることができた」
そう言うと、ルーシアは憐みのこもった目でフレイヤを見た。
「だが、男としてのあの方には、私は何の魅力も感じたことはない。娘のそなたに言うことでもないがな」
「父上は、おそらく義母上を女性としても好いておいでです」
フレイヤは答えた。
「ですが、男女の心のことは理屈ではないゆえ、言っても詮無いことと存じます」
「言うようになったのう、垢抜けぬ小娘であったのに」
ルーシアは声を上げて笑った。
「まあよい。どうせ、ここに座していても朽ちていくだけの身よ。そなたがもう一度勝負をするというのなら、それに乗らぬ手はあるまい」
そう言った後で、ルーシアは思い出したように付け加えた。
「アステリオ家当主の妻として、な」
「ありがとうございます」
フレイヤはそこでようやく表情を緩めた。
「それでは屋敷でお待ち申し上げております」
「うむ」
頷いた後で、ルーシアはふと表情を改めた。
「この件について、ヴォイド様は何と仰せだ」
「父上は」
フレイヤは笑顔のまま、わずかに言い淀んだ。
「エルスターク王子の線を諦めきれぬご様子で」
「やはりな」
ルーシアは嘆息した。
「出会ったときから、少々ずれたところのあるお人であった」
違う。
危うく、フレイヤはそう言いそうになった。
父は偉大な方です、と。
だが、やむを得ぬこととすぐに己を律した。
仕方ないことだ。ルーシアは本当の父の姿を知らないのだから。
シャーバードの西の槍。勇猛なるゴルルパの間で今もその名の轟く勇将ヴォイド・アステリオの戦場での姿を。
「話の分かる女でよかったな」
フレイヤの隣を歩くキルドラが、遠慮のない物言いをした。
「あとはお前の親父さんを説得するだけだな。とはいえ、この前のあの剣幕ではとてもじゃないが、どうにもなりそうではなかったが」
「そうね」
フレイヤは頷いた。
「まあ、だめならだめで仕方ないわ。その時はシェナイ流でやるわ」
「そのシェナイ流とやらだがな」
キルドラは顔をしかめた。
「むちゃくちゃなことを全部シェナイ流で片付けるのはやめろ。お前がそれを口にするたびに、俺は一体どんな野蛮な土地で暮らしてきたのだったかと妙な気分になる」




