王都へ
遥か彼方に、高い尖塔の先端が見えた。
「王都よ」
フレイヤは言った。
「あれは王都で最も高い、城の“東の尖塔”の屋根だわ」
「ふうん」
フレイヤの前を歩く馬の背に跨るキルドラが、亀のように首を伸ばした。
「ここから見てあの高さなら、ずいぶんと高いな」
「ええ。見上げると首が折れそうになるような高さよ」
フレイヤの言葉に、キルドラは苦笑する。
「それは真下から見上げるからだろう」
それから、声の調子を改める。
「無事着いたな」
キルドラは真面目な顔でフレイヤを振り返った。
「ゴルルパの襲撃はなかったな」
「ええ」
フレイヤは頷く。
彼女が胸に抱く革の袋の中には、“ソレータルの夜空”が入っている。
フレイヤの周囲は、彼女自らが選りすぐったアステリオ騎兵隊の精鋭十人が固めていた。
「今回は、ゴルルパに情報を流す人間がいなかったということね」
「ああ。そうかもしれん。まあ、情報が入ったところで今回はゴルルパは動いたかどうか」
キルドラは肩をすくめる。
「襲ってきたらきっちり撃退してやろうと思っていたのに、当てが外れたな」
それからもう一度、前方に見える王都の尖塔に目を向け、からかうような声を出した。
「だがお前は、戦いはこれからだと言うのだろう、フレイヤ」
「ええ。言うわ」
フレイヤはきっぱりとした口調で答える。
「本当の戦いは、王都に着いてから始まるのよ。あなたには王都はきっと窮屈でしょうけれど」
「そうだろうな。だがまあいいさ」
キルドラは前を見たまま、背中で答えた。
「もしロイスがいれば、そんな面倒なことはお前の役目だ、俺はシェナイに残る、と言っていただろうがな。もう俺のほかには、お前に付いていける者がおるまい」
「ありがとう、キルドラ」
フレイヤは微笑んだ。
「でも、あなたはロイスの代わりなんかじゃないわよ」
ゴルルパの血を引く逞しい背中にそう声をかける。
キルドラは笑いを含んだ声で「どうだか」と言って背中を一揺すりした。
「本当だってば」
フレイヤも笑顔で言う。
フレイヤは本当に、キルドラをロイスの代わりなどと思ってはいなかった。
ロイスもキルドラも、フレイヤにとっては唯一無二の存在だ。代わりの人間など、立てられるわけもなかった。
だからロイスは、今でもフレイヤの胸の中にいる。
お前は、ずっと前を向いていろ。前だけに、進め。
厳しくも優しい、その言葉とともに。
「さあ、あと少しよ」
フレイヤは部下たちを見まわし、声を張った。
「気を緩めず、周囲の警戒を怠らずに進みましょう」
おう、と部下たちが応える。
アステリオ家の精鋭たちは王都へと近付いていた。
フレイヤの兄カークがついに“ソレータルの夜空”をアガート第一王子に献上することを認めたのは、キルドラを交えて話し合ったその二日後のことだった。
今日はもう遅いので、といったん日を改めて、翌日再度三人で話し合い、その席でフレイヤとキルドラはウルグクやガラザドとのやり取りについても詳しく話した。
その場でも、カークは結論を出さなかった。
さらに一晩じっくり一人で考えた末、翌朝フレイヤとキルドラを呼び、カークは言った。
「お前の言う通り、“夜空”は手放そう」
「よろしいのでございますか」
フレイヤは兄の顔を心配そうに見る。
カークの目の下にははっきりそれと分かる青黒いクマができていた。
先祖累代の宝である“ソレータルの夜空”を手放すという重大な決断をするにあたって、この生真面目な兄が一人でどれだけ悩んだのか、フレイヤにも想像がついた。
「私が言い出したことでございますが、手放せばもう二度と戻っては来ませぬ。それでもよろしいのですか」
「ああ。構わん」
カークは言った。
「私の心を決めさせたのは、お前たちの話したゴルルパどものことよ」
「ゴルルパの」
フレイヤとキルドラは顔を見合わせた。
「ウルグクやガラザドのことでございますか」
「それも含めてだ」
カークはそのやつれた顔に、微かに寂しそうな表情を見せる。
「ゴルルパ全体にいまだ残っている、我らが父上への畏れだ」
カークはそう言うと、窓からシェナイの街を見下ろした。
「何よりも勇を尊ぶ草原の民が、大敵ヴォイドの名を前にすると怯むのだ。父上のその威光なくして、お前たちの生還は叶わなかった。そうであろう」
「はい」
それはフレイヤも草原で直に感じたことだった。
「おっしゃる通りです」
「ゴルルパを恐れさせたのは、護国の三宝たる“ソレータルの夜空”の輝きか? 違う。父上の偉大な勝利こそが、獰猛なゴルルパにすら、シェナイの民は強兵なり、という恐れを抱かせたのだ」
カークは、木箱を執務机の上に置いた。
「私は、お前の策に乗る」
そう言って、カークは再びフレイヤたちに背を向ける。
「持っていくがいい。“ソレータルの夜空”はアステリオ家の誇りを守ってはくれぬ。我らの誇りを守ることができるのは、ほかならぬ我ら自身だけだ。お前たちはそれを教えてくれた」
「……ありがとうございます、兄上」
両手で木箱を押し戴いたフレイヤを、カークは振り返らなかった。
「だが覚悟しておけ」
背を向けたまま、カークは厳しい声で言った。
「私は認めたが、父上まで同意なさるかどうかは分からぬぞ。アステリオ家のことは全て、最後は当主たる父上が決めるのだ。父上をこの兄のように、簡単に説得できると思うなよ」
「肝に銘じます」
フレイヤの答えに、カークが小さく笑った。
「何の足しにもならぬとは思うが、父上には、兄も“ソレータルの夜空”を手放すことに強く同意していましたと言うがいい」
「……兄上」
「お前は真っ直ぐに、お前の道を駆けろ」
振り向いたカークがフレイヤの顔を見た。その笑顔に、フレイヤの胸は詰まった。あの日のロイスの青ざめた笑顔を思い出した。
「振り向かずに行け、フレイヤ」
カークは言った。
「我が自慢の妹よ」
「戦いはこれからよ」
フレイヤは自分に言い聞かせるように言った。
決して、無駄にはできない。
ロイスの犠牲を。兄の信頼を。
全てを背負って、私は戦う。
「キルドラ。私たちは絶対に負けるわけにはいかない」
「当たり前だ」
キルドラは明るい声で答えた。
「わざわざ負けるために、誰が王都へなど来るものか」




