家名の危機
「今、何と言った」
カークの声は震えた。
「この“ソレータルの夜空”をどうすると」
「再度、王家に献上いたしたく」
フレイヤはもう一度言った。
「王都へと運ぶ手はずを整えていただきたいのです」
「ば」
カークは言葉を詰まらせた。
「ばかを言うな」
カークは宝石の入った木箱を自分の脇に抱え込む。
「これは、ロイスを犠牲にしてまで取り戻した我らの誇りではないか。それをまたあのエルスターク王子に渡すだと。そのようなこと、できるはずが」
だが、フレイヤの表情は変わらなかった。傍らに控えるキルドラも、驚く素振りも見せなかった。すでに二人で相談をしていたのだということにカークも気付く。
「キルドラ、お前もか」
カークは唸った。
「お前とロイスが命懸けで取り戻したものではないか」
「ロイスならこう言うだろうな」
キルドラは答える。
「姫様の御心のままに、と」
「ああ、ロイスならそう言うだろう。あれはそういう男だった」
カークは認めた。その声に、隠し切れない悲しみが混じる。
「だが、キルドラ。お前自身はどうなのだ。ゴルルパの中心、レゴウの谷まで長駆潜入して、ようやく奪い返したものを、また右から左へ王家に明け渡すなど」
「俺はもともと、それが自分の誇りだとは思ってはいない」
キルドラの答えは率直だった。
「俺がこの旅に付き合ったのは、フレイヤに誘われたからだ。だから、そいつをどうするかは奪い返したフレイヤに任せるさ」
「お前までそんなことを」
「エルスターク王子との婚約は、父上と義母上の起死回生の策でございました」
フレイヤは言った。
「それまでに、父上はあまりに散財をし過ぎた。兄上もご存じでございましょう、アステリオ家の経済状況を」
「それは、まあな」
カークは口ごもる。
ゴルルパを打ち破り治安が安定すると、シェナイには近隣諸領から人々が押し寄せた。
西方とシャーバード王国とを結ぶ交易が盛んになり、シェナイは大いに栄えた。
はずだった。
だが、父ヴォイドは領地の発展に注ぐべき財産を、王都での政治工作に注ぎ込んだ。
その結果、シェナイには薄靄のような頽廃の空気が漂い始めている。
都市は、それ自体がひとつの生き物のようなものだ。
人とカネ。
その二つが適度に循環していれば、都市も健康でいられる。
人が減れば、都市は痩せる。
だが、人ばかりが増えても使うべきところに金を使うことができないと、都市は徐々に腐っていく。
王都にも確かに感じるその腐臭を、フレイヤはシェナイにも感じ取っていた。
都市の規模が小さい分、その変化は王都よりも遥かに早く訪れるだろう。
変わるときは、一瞬で変わる。枝先で静かに熟していた果実が、あるとき不意にぼとりと落ちるように。
「アステリオ家には、カネが要ります。この街を真っ当に立て直すだけのカネが」
「だからといって」
それでもカークは首を縦には振らなかった。
「アステリオ家を辱め、お前に恥をかかせたエルスターク王子に我らの誇りを差し出すことには反対だ。たとえ、父上がそうせよとおっしゃられても」
「エルスターク王子にではありません」
「なに」
「アガート第一王子」
フレイヤは言った。
「あの方こそが“ソレータルの夜空”を最も高く売れる相手です」
「高く売れる、だと」
カークが顔色を変える。
「あの宝石は我らの誇りなのだぞ。それをお前は」
「お怒りはごもっともでございます」
フレイヤは兄の怒りを正面から受け止めた。
「“ソレータルの夜空”は、我らの誇りの象徴。けれど兄上、私はロイスを失って気付いたのです。象徴ではあっても、やはりどこまでいってもそれはただの宝石でした。本当の誇りとは、我らシェナイ人ひとりひとりの胸の中にこそあるのではないかと」
「お前の言いたいことは分かる」
ロイスの名に、カークは渋々頷く。
「だが、一度手放せばもう手には入らぬのだぞ。ゴルルパに奪われるのとはわけが違う。力づくで取り戻すことは叶わぬのだぞ」
「あまり言いたくなかったことですが」
フレイヤは、傍らに無言で控えるキルドラをちらりと見た。
「席を外そうか」
キルドラは言った。
「領主の重要な相談事に、俺がいるのは良くあるまい」
「ううん、いいの」
フレイヤはキルドラの目を見た。
「あなたもここにいて」
「ああ。お前もいろ、キルドラ」
カークも言った。そこは兄妹の意見は一致していた。
「客観的に聞け。私とフレイヤと、どちらの意見に理があるのか」
「そんなことを俺に頼むのか」
キルドラは唇を皮肉気に上げた。
「ゴルルパの血を引く俺に」
「まだそんなことを言っているのか」
カークはキルドラを睨んだ。
「それを最も気にしているのはお前だぞ、キルドラ」
「なに」
「私は今まで気にしたことなどない。お前はお前だ、キルドラ。それともお前にとってはゴルルパの血の方が重要か」
キルドラは肩を竦めて苦笑した。
「おかしな兄妹だ」
そう言うと、手振りで話の続きを促した。
「ありがとう、キルドラ」
フレイヤは微笑む。
「兄上、“ソレータルの夜空”を大事に持っていたのでは、アステリオ家は存続も危うい段階まで来ております」
フレイヤは言った。
「経済面だけの話ではありません。父上の失策と私の婚約破棄で、アステリオ家の名声は地に墜ちました」
「それは分かっている」
カークは唸るように答える。
「だが、フレイヤ。よく考えろ。アガート王子に“夜空”を献上するということは」
アガート第一王子は、エルスターク第二王子の異腹の兄。第四王子であるバルクークとともに、エルスタークと次期国王を争う男の一人だった。
「完全に王位継承争いに踏み込むことになる。判断を誤れば、まさにそれこそがアステリオ家の危機となるのだぞ」
「何を今さら」
フレイヤは苦笑した。
「父上は既に踏み込んでおられたではないですか」
「む」
カークは苦虫を噛んだような顔をする。
確かにフレイヤの言う通りだった。
娘を第二王子の婚約者とした時点で、ヴォイドはとっくに旗幟を鮮明にしていたのだ。シェナイのアステリオ家はエルスターク派につくのだと。
だがエルスターク王子は“ソレータルの夜空”を手に入れられなかった怒りに任せて、アステリオ家をあっさり自派から切り捨てた。
「結局のところ、エルスターク王子にとっては、“ソレータルの夜空”の無いアステリオ家など、一顧だにする価値もないものだったのです」
婚約者を公衆の面前で辱めて、婚約を破棄してもまるで構わない程度の、ちっぽけな存在だったのだ。
「当家がそこまで侮られた理由は明らかです」
「父上の振る舞い、か」
「はい」
父ヴォイドの愚かな振る舞いは、王都におけるアステリオ家の評価を固めるのに十分だった。
王都の人々は、ゴルルパを直に見たことがない。
だからその乗馬の絶技も、騎兵の突進力も知らない。彼らを草原で破るということが、どれだけ偉大で信じがたいことなのか、まるで分かってなどいないのだ。
彼らが知るのは、醜く太って右往左往する当主ヴォイドの姿でしかないのだから。そんな男の成し得たことが、偉大な業績であるはずがないと思っているのだ。
「“ソレータルの夜空”を取り返したので当家の誇りと面子が保たれた、などと思うのは単なる自己満足です」
フレイヤは言った。
「王都では、アステリオ家は今や嘲笑の対象でしかないのです。いつでも捻りつぶせる虫けらのごとき存在だと思われています。だから私たちは思い知らせてやらねばなりません。アステリオ家を辱め、敵に回したならば、いったいどうなるのか。長き年月にわたってゴルルパと対峙してきた者を敵に回すということの、その意味を」
フレイヤは言葉に力を込める。
「そうすることで初めて、家名存続の目も出ようというもの」
「……お前の言うことは分かる」
カークは渋々認めた。
「王都の人間に、ゴルルパの恐ろしさは伝わらぬ。いくら口で言ったところで、実際に目にしてみねば分からぬものだからな。ゴルルパと国境を挟んで対峙し続けるという崇高な使命の意味も、彼らは分かってなどおらぬであろう」
そう言いはしたが、カークはそれでも首肯しなかった。
「だがフレイヤ。お前の話には、私怨が含まれてはいないか」
「含まれておりません」
そう即答した後、フレイヤはにこりと微笑んだ。
「と言えば、信じてくださいますか」
「信じるわけがあるか」
カークはため息をつく。
「昔から勝負ごとに負けると、勝つまで絶対にやめようとしなかったお前が、今回はやけに潔いとは思っていたのだ。婚約を破棄されたからといって、すぐに王都から戻って来るとは」
「王都では、令嬢としての教育が行き届いておりましたゆえ」
フレイヤは答えた。
あのまま王都にいてはだめだったろう。
覚悟して自ら牙を抜いたフレイヤが、再びシェナイのじゃじゃ馬姫に戻るまでには、一人で王都からシェナイまで馬を走らせるだけの時間が必要だった。
「エルスターク王子に対して、私怨がないと言えば嘘になります」
あの日の屈辱。それを思うと、今でも体が熱くなる。
「けれど、冷静になる時間は十分にございました。これはエルスターク王子への当てつけや復讐を企図しての策ではございません。結果的にそうなるかもしれないというだけの話です」
フレイヤはそこまで話して、キルドラを振り返る。
「どう、キルドラ。私の言ってることはおかしいかしら」
「今のところ、俺はわくわくしてるがな」
キルドラは言った。
「相手が誰であれ、舐められたままというのは気分が悪い。それがろくに戦も知らぬ王都の連中だというのなら、なおさらだ。カーク、シェナイ人の気質というのは、そういうものだと思っていたがな」
「ああ、生粋のシェナイ人のお前がそう言うのなら、それは間違いないだろう」
カークは頷いた。
「だが、俺はまだこの話を認めぬ。続けろ、フレイヤ」




