帰還
雨に濡れそぼるシェナイの街に、フレイヤとキルドラは帰還した。
カーク率いるシェナイ軍はまだ帰ってきていなかった。
北の国境アイゼルで、妹のために律儀にゴルルパを牽制してくれているのだろう。
カークに代わってシェナイを守っているのは、アステリオ騎兵隊の隊長を務めるシュルト。
ロイスの父だった。
苦しい旅ですっかり汚れた身なりで城に帰り着いたフレイヤとキルドラの二人を、シュルトは自らの執務室で出迎えた。
ロイスを思わせるそのがっしりとした体格も、息子よりも鋭いその眼光も、いまだ衰えてはいなかった。
かつては、シェナイの黒騎士と言えばロイスではなくこの男のことを指したのだ。
「姫様、よくぞご無事でお戻りになられました」
「心配をかけたわね、シュルト」
フレイヤは笑顔でそう答えると、木箱を差し出した。
「取り返してきたわ」
「おお、これはまさに」
蓋を開けたシュルトが目を見張る。
「“ソレータルの夜空”。我らシェナイの民の誇り。よくぞ取り戻してくださった」
「ええ。でも、それと引き替えに」
フレイヤは努めて淡々と、それを告げた。
「ロイスは死んでしまったわ」
「ロイスが」
シュルトは顔をこわばらせてフレイヤを見た。
フレイヤも、シュルトの目を見つめ返す。
「勇敢な最期だったわ」
フレイヤは言った。
「脇腹をやられてしまったの。それでもロイスは、ゴルルパの誰にも負けはしなかった。私たちに、前へ進めと言ってくれた」
「……そうでございますか」
シュルトは、木箱の蓋を閉めるとそれを静かにフレイヤに返した。
「姫様を護り、“ソレータルの夜空”を護ることができたのだ。ロイスも本望であったことでございましょう」
「……ええ。そうだといいのだけれど」
フレイヤは目を伏せる。
二人のやり取りを、キルドラはフレイヤの後ろで黙って見つめていた。
「……シュルト」
やがて、覚悟を決めたようにフレイヤが言うと、キルドラは一歩、身体を横にずらした。フレイヤとシュルト、二人の間にいつでも飛び込むことのできる位置に立つ。
「あなたなのね」
「……は?」
シュルトが訝し気にフレイヤを見た。
「何がでございますか」
「“ソレータルの夜空”を王都へ運ぶという情報を、ゴルルパに流したのは」
その言葉に、シュルトが目を細める。
「あなたが、これをゴルルパに奪わせたのね」
「……どういうことでしょうかな」
シュルトの声は、地から響いてくるかのように低かった。
「私がなぜ、ゴルルパどもに家宝の“夜空”を奪わせるような真似をせねばならぬのです」
「私の父は変わってしまった」
フレイヤは言った。
「あなたは、父の変化に気付いていた。王都での父のやりようを、深く憂いていた」
シュルトはフレイヤの父ヴォイドの片腕だった。
深い信頼関係に結ばれた二人は、主君と部下というよりも、盟友といっても良いような間柄だった。
ヴォイドもシュルトも、生粋の武人だった。だからこそ主従の垣根を越えて、ゴルルパから学び、騎兵隊を創設し、シェナイの将来について友人のように語り合うことができた。
だが、ゴルルパに対する大きな勝利の後、ヴォイドは武人であることをやめてしまった。
ヴォイドが王都へ去った後も、シュルトはシェナイで騎兵隊の隊長を務め続けたが、その心には深い憂いがあったのだろう。
ヴォイドは、シェナイの財を惜しみなく、王都での政治工作に注ぎ込み、そしてそのほとんど全てを無為に失ったのだから。
それでも、シュルトは耐えたのだ。
ヴォイドが、シェナイの誇りの証である“ソレータルの夜空”を王家に差し出すと言い出すまでは。
「エルスターク王子に“夜空”を差し出すことに、あなたが強硬に反対しているという話は、私も父から聞いていたわ」
フレイヤは静かに言った。
「それでも父は強行した。“夜空”を王都へ輸送することは、限られた者しか知らない秘密事項だった」
「だから私がゴルルパに漏らしたと、姫様はそう言いたいのですかな」
シュルトの口調はあくまで落ち着いていた。
「王家に奪われるくらいなら、いっそのことゴルルパにくれてやれ、と」
「父とともにゴルルパの騎兵戦術を学んだあなたなら、ゴルルパとの接点はある」
「そういうことであれば」
シュルトは傍らのキルドラに目を向けた。
「そこに控えるエンドラの息子キルドラこそ、接点が多いのではありますまいか」
キルドラは何も答えず、シュルトをじっと見つめている。
「キルドラは聞かされていなかったわ」
フレイヤは答えた。
「“夜空”がいつ王都へと運ばれるのか、その具体的な行程までは」
その頃すでに騎兵隊と距離を置き始めていたキルドラは、それを知る立場にはなかった。
「だから、私ですか」
シュルトは苦笑した。
「これは酷なお言葉だ」
「証拠は、何もない」
フレイヤは率直に認めた。
「だけど、確信している。私たちはあなたの息子、ロイスの態度をこの目で見てきたから」
息子の名に、シュルトの瞼が微かに震えた。
「あなたにそうされても仕方のないことを、父はしていた」
フレイヤは認めた。
「私自身、奪われて初めて気づいたことがたくさんあったわ」
失くして初めてその大切さに気付いた。それは、“ソレータルの夜空”だけのことではない。
フレイヤは自分の愚かさを思い知ってもいた。
だから、シュルトのしたことを責める気にはなれなかった。
けれど、これはけじめだ。
「ロイスは、まるで生きて帰るつもりがないみたいだったわ。自分の命に代えても、“夜空”を取り返そうとしていた」
ロイスの献身は、フレイヤへの忠義や友情、そして最期に告白した恋情に裏打ちされたものだったのだろう。
だが、それだけではなかった。ロイスは確かに、死に急いでいた。
「シュルト。それは、あなたのためでもあった」
父の過ちを、自らの命を懸けて償おうという気持ち。
それが黒騎士ロイスをして、自ら死へと駆り立てたのだ。
証拠はない。けれど、そうだという実感があった。
それは、ともに濃密な時間を過ごしたフレイヤとキルドラにしか共有し得ない感覚だった。そしてシュルトの顔を見て、フレイヤの考えは確信に変わっていた。
「……分かりませぬな」
やはりシュルトはそう言った。
「姫様が何をおっしゃられているのか」
「……そう」
フレイヤは頷く。
「ロイスは私に言ってくれたわ。フレイヤ、お前は前だけを向いていろ。前だけに進め、と」
「ロイスが姫様をそのような呼び方で」
シュルトの顔に微かに驚いた表情が浮かぶ。
「ええ、あの頃の呼び方で呼んでくれた。嬉しかったわ」
フレイヤはあくまで率直だった。
それは父から受け継いだ、王都では決して大成することのない気性でもあった。
「もっと何度もそう呼んでほしかった。だけどロイスはもういない。それがとても悲しいし寂しい」
フレイヤはシュルトを見た。
「でもロイスが言ってくれた通り、私は前だけを向く」
歴戦の戦士であるシュルトが気圧されるほどの強い目。
キルドラがその隣に立った。
「私たちは、前に進む。ロイスが後ろから見守ってくれているから」
二人の若者に見据えられ、シュルトはそれでも無表情を貫いた。
「あなたの過ちについての話は、これだけです」
フレイヤはそれから、深々と頭を垂れた。
「ごめんなさい、シュルト。私はあなたの大事な息子、ロイスを死なせてしまった。遺体すら持ち帰ることができなかった。全て、私の責任です」
姫の謝罪にも、シュルトは何も言わなかった。ただその場に石像のように立ち尽くしていた。
顔を上げたフレイヤは、もう一度シュルトの顔を見た。
ロイスに似た、その顔を。
「行きましょう」
フレイヤが身を翻す。
キルドラはそれに続こうとしたが、思い直したように足を止め、シュルトを振り返った。
「シュルト隊長。ロイスは何も言わなかった。あなたのことについては、最後まで何も」
キルドラはロイスの最後の姿を思い出し、目を細めた。
「黙って、勇敢に逝ったよ」
フレイヤを追ってキルドラが部屋を出ると、閉めた扉の向こうでくぐもった低い泣き声が聞こえた。
直ちに早馬を飛ばし、フレイヤはカークに帰還の報告をした。
カークが帰ってきたのは、それから十日も経った後のことだった。
一応後詰の軍は残してきたが、集結しかけていたゴルルパの軍勢も、シェナイ側が軍を引いたのを見て、それ以上の積極的な動きに出ることなく去ったという。
ゴルルパのこの態度には、指揮官として赴く予定だったガラザドの負傷も関係しているのかもしれなかった。
「よくぞ戻った、フレイヤ。長旅、ご苦労だった」
戦が起こらなくとも、軍を率いるだけで様々な心労があったのだろう。カークの顔は、別れたときよりもやつれていた。
傍目には、シェナイで英気を養ったフレイヤとキルドラの方が、疲れたカークを労う立場のように見えたが、カークは開口一番そう言った。
「兄上も、お疲れさまでございました」
「ロイスのことは、残念だった」
「ええ」
今でもその名を聞けば、胸が疼くように苦しい。
けれど、フレイヤは頷いた。前へ進むのだ。自分にそう言い聞かせる。ロイスの遺志を守るために。
「キルドラも、ご苦労だった」
その言葉に、キルドラは返事の代わりに肩をすくめる。
「ゴルルパの様子がどうであったのか、ウルグクとどのようなやりとりをしたのか。聞きたいことはたくさんあるが、詳しい話はまた後にしよう」
カークは言った。
「“ソレータルの夜空”は」
「はい。ここに」
フレイヤが差し出した木箱を開けたカークは、ほうっと息を吐いた。
「間違いない。これは我らシェナイの誇り」
そう言うと、黙ってしばらくその宝石に見入っていた。
「これを取り戻すために、ロイスは死んだのだな」
やがて、ぽつりとそう言った。
それから、蓋を丁寧に閉める。
「もうゴルルパなどに奪われぬようにせねばな」
「兄上。そのことですが」
自分を見上げるフレイヤの目に気付いたカークは、渋い顔をした。
「なんだ、フレイヤ。また何か企んでいるな」
「企みと言うほどのことでは」
フレイヤは言った。
だが、フレイヤの次の一言に、カークは言葉を失った。
「実は、この“ソレータルの夜空”、再度王家に献上いたしたく」




