別れ
ゴルルパ兵は、その後も姿を見せなかった。
昼間、茂みに潜んでいる間、時折、巡察隊の姿を遠くに認めることはあったが、彼らも何かを探して動いている様子はなかった。
「ウルグクから、指示が来ていない可能性があるな」
キルドラが言った。
夜間の行軍の途中。
三頭の草原狼を休ませるために小休止をとっている時だった。
レゴウの谷を出て、すでに三日。
草原の出口に位置するシェナイに、着実に近付いていた。
さすがにここまでゴルルパ兵に動きがないのは不自然だった。
レゴウの谷からシェナイへと、追手を撒くための迂回をすることもなくほとんど最短距離を走っているのだ。
行きの道中で目にしたゴルルパの通信網をもってすれば、フレイヤたちを捕捉することはそう難しくはないはずだった。
「連中、もう俺たちを追っていない可能性が高いな」
キルドラは、そう結論付けた。
「どういうこと?」
「分からん」
キルドラはフレイヤの問いに首を振る。
「ウルグクがどういう風の吹き回しなのか。それは俺にも分からんが、ここまで俺たちを泳がせることに何か利があるとは思えん。巡察隊の動きを見ても、奴はひとまず俺たちから興味を失ったと見てもいいだろう」
「満足したということ?」
フレイヤは呟く。
「ロイスを殺したことで」
「ウルグクはロイスに、そこまでの価値を見出してはいないだろう」
キルドラは努めてそっけなく答えた。
「俺たちと違ってな」
その言葉に、フレイヤの胸はまたずきんと痛む。
「じゃあ、どうして」
「だから分からんと言っているだろう」
キルドラは鼻を鳴らした。
「その場にいなかった俺よりも、お前の方がよほど思い当たることがあるんじゃないか。ウルグクがどうして俺たちを生かして帰そうとしているのか。やつに何か言ったのか。何か見せたのか」
「舞は見せたわ」
フレイヤは言った。
「あとは、目の前でガラザドと戦った。それくらい」
「舞か」
キルドラは、フレイヤの武骨な騎乗服を見た。
「あのドレスで、舞ってみせたんだな」
「ええ」
「俺も見てみたかった。駆けつけたのが、少し遅かったな」
「もう、踊らないわ」
フレイヤは目を伏せた。
「ごめんなさい」
「謝ることじゃない」
キルドラは首を振る。
「お前の舞だ。好きにすればいい」
もう二度と、あの舞は踊らない。
あれは、ロイスが最後に見てくれた舞だ。
それを上書きすることは、たとえ相手がキルドラでも、フレイヤにはできなかった。
「後は、可能性としては」
話題を戻すように、キルドラが言う。
「追う理由がないのかもしれないな」
「どういうこと?」
「“ソレータルの夜空”」
キルドラは、フレイヤの傍らに置かれた木箱に目を向けた。
「それがもし本物ではないのだとしたら。やつらはまんまと偽物を掴ませたのだから、取り返す必要もないわけだ」
「その可能性は、私も何度か考えたわ」
フレイヤは木箱を引き寄せると、蓋をそっと持ち上げた。
「……見事なものだな」
箱の中を覗き込んだキルドラが、素直な感想を漏らす。
「天と地と、夜空が二つか」
キルドラの言葉通り、月明かりの下でも“ソレータルの夜空”の美しさははっきりと分かった。
深い濃紺色の宝石。
その中に、白い粒状の結晶が散りばめられている。
伝説の楽園ソレータルの夜空と名付けられるのも分かる美しさだった。
「太陽の下でも、一度見てみたわ」
フレイヤは言った。
「だから、分かる。これは本物よ」
ウルグクは、そこまで姑息な手を打ってこなかった。
奪えるものなら、奪ってみろ。そう言わんばかりに目の前に置く。
それも勇を尊ぶゴルルパの気風なのだろう。
「そうか」
キルドラが顎だけで頷く。
「それなら、よかった」
よかった?
その言葉にフレイヤは引っかかりを覚える。
よかったのだろうか。本当に。
アステリオ家の家宝、“ソレータルの夜空”。
シャーバード王国の誇る護国の三宝の一つ。
フレイヤは、代々受け継がれてきたこの宝石に、自分たちの誇りの源泉を求めた。
だがそれでよかったのだろうか。
この宝石は、ロイスを犠牲にしてまで奪い返す価値のあるものだったのだろうか。
かけがえのない幼馴染の命と釣り合うだけのものなのだろうか。
「また悩んでいるな」
フレイヤの表情を察して、キルドラが言った。
「自分の決断が間違いだったのではないか、と」
「ごめんなさい」
フレイヤは目を伏せた。
「前へ進まなきゃいけないのに。分かってはいるのよ」
こんなことを今さら悩んだところで、ロイスが戻ってくるわけではない。
それは分かっていた。
だが、こういうふとした拍子にフレイヤの脳裏には悔恨がよぎる。
あのとき、ああしていれば。
あのとき、ああしていなければ。
そうしたら、自分の隣には今もロイスがいてくれたのではないか、と。
「世の中には、比べられんものを無理に比べようとするやつがいる」
キルドラは静かに言った。
「そんなことをしても意味がないのにな」
フレイヤは顔を上げてキルドラを見た。
キルドラはフレイヤではなく、星空を見上げていた。
「たとえばこの満天の星と、それからお前と」
そう言って、キルドラはフレイヤに顔を向けた。
「そのどちらが美しいかと問われても答えようがない。美しさの種類が違うからだ」
そうだろう、とキルドラは呟く。フレイヤに言っているようで、自分に言っているようでもあった。
「そんなことを聞いてくるやつには俺は、ばかめ、としか答えん」
「……そうかもしれないわね」
頷いて、フレイヤは箱の蓋をそっと閉めた。
地上の夜空は消え、頭上の空だけが残る。
「帰って来たぞ」
どこからか戻ってきた草原狼たちを見て、キルドラが立ち上がる。
「再開だ。進もう」
レゴウの谷を出てから五日目の夜。
ついに、遥か遠く霞むようにしてシェナイの街の灯が見えた。
もうここは草原の終わりだった。
フレイヤを乗せていた太陽が、そこで足を止めた。
月と星も、それに倣うように駆けるのをやめる。
「……そうね」
フレイヤには、彼らの気持ちが分かった。
旅は、終わった。
彼らは役目を果たした。
あの日、フレイヤと結んだ彼らなりの契約が、今終わったのだ。
フレイヤは太陽から下りると、その首に腕を回し分厚い毛皮をゆっくりと丁寧に撫でた。
「ありがとう、太陽。色々と無理をさせてごめんなさい」
太陽は何も答えない。じっと、フレイヤにされるがままになっていた。
太陽を撫で終えると、フレイヤは月と星も同じようにして撫でた。
「ありがとう、月。ありがとう、星」
まるでそれが別れの儀式だったかのように、太陽が一声吼えた。
「達者でな」
キルドラが言った。
「今度は俺たちみたいな自分勝手な人間に捕まるんじゃねえぞ」
太陽が身を翻す。
それに、弟たちが続いた。
「ありがとう」
フレイヤはもう一度叫んだ。
三匹の草原狼は、たちまち夜の闇の中に消えた。
さようなら。
フレイヤは、それでもしばらくの間、彼らの去っていった方向を見つめていた。
それを後ろで見守っていたキルドラが、不意に頭に手をやって「むっ」と声を上げた。
「これは」
「……ええ」
フレイヤも天を見上げた。
ぽつり、ぽつり、と天から水滴が落ちてくる。
草原に黒い染みを作っていく。
雨。
乾季の終わり。
草原は、これから雨期に入るのだ。
「……行きましょう」
フレイヤは草原に背を向けた。
振り返ることなく、シェナイの灯に向かって歩き出す。
ぱらぱらと降り出した雨は、やがて大きな雨音を立てて草原に降り注ぎ、歩き続ける二人を包んだ。




