取り返しのつかないこと
三頭の草原狼が、夜明け間近の草原を駆け抜けていく。
最も大きい太陽に跨るのは、赤いドレス姿のフレイヤ。星に跨るのは、キルドラ。
だが、月に跨る戦士はもういない。
フレイヤは、太陽の背に顔をうずめ、彼が走るに任せていた。
太陽も彼女の気持ちを汲んだかのように弟たちに先を譲り、最後方を静かに走っていた。
星を駆るキルドラは、何も言わなかった。
慰めの言葉もかけなかった。
遮るものとてないレゴウ谷から続く道を、草原狼は走った。
やがて、朝日が昇るとキルドラは茂みを見付け、そこで草原狼を下りた。
三頭の草原狼はいずこへともなく消えた。
地面に降り立ったフレイヤは、赤いドレス姿のままでしばらく無表情のまま立っていたが、不意に脇に抱えていた木箱を頭上に振り上げた。
「捨てていくのか」
キルドラが静かに言った。
「俺はどちらでも構わん。捨てていきたければ、そうしろ」
そう言って、茂みに座り込む。
「お前がそれで前に進めるのならな」
フレイヤは頭上に木箱を振り上げたまま動かなかった。やがて、その身体をぶるぶると震わせた。
両目から大粒の涙が溢れた。
「私は」
フレイヤは声を絞り出した。
「私は、取り返しのつかないことを」
ロイス。
ロイス、ごめんなさい、ロイス。
一度溢れ出すと、もう涙も感情も止まらなくなった。
フレイヤはその場に崩れ落ちて泣いた。
私は、取り返しのつかないことをしてしまった。
かけがえのない人を失ってしまった。
心を深く抉る、どうすることもできない絶望。
それでも、どうしても捨てることはできなかった。
ロイスが命懸けで託してくれた、“ソレータルの夜空”を。
フレイヤは投げ出すように木箱を地面に置いた。
「ロイスが、私のことを、フレイヤって」
嗚咽しながら、フレイヤは途切れ途切れに言った。
「フレイヤ、走れって」
「そうか。あいつが」
キルドラは一瞬目を細め、それから頷いた。
「あいつが、お前をそう呼んだのか」
あの律儀な黒騎士が、姫様ではなく、フレイヤ、と。
その瞬間、ロイスは身分を越え、この世の全てのしがらみを越えたのだ。
そしてきっと、ロイスはフレイヤの中で永遠になった。
そのことにキルドラは、嫉妬を覚える。
友を失った悲しみと寂しさ。
そして、フレイヤの心を奪っていった友に対する羨望と嫉妬。
ロイス。最後まで、お前の優先順位の一番はフレイヤの幸せだったな。
キルドラは心の中で呟く。
俺にはできん。お前のような潔い愛し方は。
「……どうしよう」
途方に暮れたように、フレイヤは言った。
「私、あなたたちを、巻き込んでしまった。取り返しのつかないことに」
フレイヤは今さらながらに気付いたのだ。人の命を預かる、その責任の重大さに。
振り返ることなく、前へ進むことの勇敢さ。それは、無知と無謀の裏返しだった。
兄カークが何故、敵に臆病と謗られるほどに慎重なのか。
それが兄なりの勇敢さだと、理屈では分かっていた。だが、今の今まで本当に理解はしていなかった。
取り返しのつかないことには、誰であろうと責任を取ることはできない。
それでも、自らが責任を負うのだと口にすることの意味。
フレイヤはそれを知らなかった。
ロイスは、フレイヤのその無知の犠牲になったのだ。
「巻き込んだ、だと?」
キルドラが、細い目をぎょろりと動かしてフレイヤを睨んだ。
「俺とロイスが、お前に巻き込まれただと?」
キルドラは立ち上がると、涙をこぼすフレイヤに歩み寄った。
「いいか。俺たちは自分の意志で、お前とともに来た。俺たちが怪我をしようが死のうが、それは全て俺たち自身の決めたことの結果だ。お前に巻き込まれた結果ではない」
キルドラの目には、怒りが滲んでいた。
「二度と言うな」
キルドラは押し殺した声で言った。
「あいつの名誉と誇りのために」
こんなときに、俺という男は。
内心で、キルドラは自嘲した。
だが、俺はこいつを慰める言葉を持たない。
無力感とともにキルドラはそのまま身を翻し、茂みに身を横たえた。
フレイヤは唇を噛む。
キルドラの言いたいことは分かる。
ロイスは、自ら望んでフレイヤについてきてくれたのだ。
そして、自ら望んでその命を、フレイヤとシェナイの人々の誇りのためになげうってくれた。
けれど、その事実はフレイヤの心を決して軽くはしなかった。
アステリオ騎兵隊。
フレイヤはそこで過ごした日々を思い出す。
ゴルルパを相手に輝かしい戦勝を挙げた、シェナイの誇る精鋭部隊。
そこに加わり、勝利に貢献したことをフレイヤは今でも誇りに思っている。
彼女の隣にはいつも、ロイスとキルドラがいた。苦しくも楽しかった日々。
だが、勝利は常に犠牲と引き替えだった。
ゴルルパとの戦いでは、騎兵隊の勇士が何人も命を落とした。
よく知った仲間が死んでしまえば、フレイヤももちろん悲しかった。
けれど、それは戦場では仕方のないことだと心のどこかで割り切ってもいた。
今回は、彼らの順番だっただけだ。
次は、自分の順番かもしれない。
指揮官の父に対して、それについて恨みや不満に思ったことなどない。
父が指揮してくれるからこそ、自分たちの力を存分に発揮することができるのだから。
そう思っていた。
死ぬことが怖くないと言えばそれはただの強がりだが、それでも死ぬことを覚悟できる程度の戦場経験がフレイヤにはあった。
しかし。
自分が死地に赴くことと、人を死地に赴かせることは、似て非なるものだった。
自分の覚悟は、所詮自分だけの覚悟だった。
人に命じるということは、彼らの覚悟をも背負うということだ。
兄カークがいつも見せていた、思いつめたような青白い表情が脳裏をよぎる。
今ならばわかる。
兄は滑稽なほどに慎重になることで、その恐ろしさと真剣に向き合っていたのだ。
では、父は。
“シャーバードの西の槍”と言われた猛将ヴォイド・アステリオはどのようにその恐怖と向き合っていたのだろうか。
それを聞くことは、おそらくもうできない。
そしてフレイヤの心に残るのは、絶望的な後悔だ。
私は、ロイスを死なせてしまった。
何者にも代えられない、大事な幼馴染を。
フレイヤ。
ロイスの囁くような声が耳に蘇る。
お前はずっと前だけを向いていろ。前だけに進め。
きっとロイスは、自分を失った後のフレイヤの気持ちさえも慮っていた。
ロイスとは、そういう男だった。
だからこそ、そう言い残していったのだ。
前。
この“ソレータルの夜空”を持ち帰ることが、本当に前を向くということなのか。
それすらもフレイヤには分からなくなりかけていた。
フレイヤ。忘れるな。前だぞ。
ロイス。
あなたが自分の声で、もう一度そう言ってくれれば、私はいくらだって前に進むことができるのに。
でも、もう二度とロイスの声を聞くことはできない。
ごめんなさい、ロイス。
フレイヤの涙は止まらなかった。
前へ。
ああ、前へ。
なんて残酷な言葉だろう。
前へ進むということは、ロイスを置いていくということだ。
斃れたロイスは、もうともに歩むことができないのだから。
フレイヤは背中を震わせて泣いた。
でも、あなたはきっと、前へ進めと言うのでしょうね。
ロイス。
あなたの言う通り、私はきっと前を向くから。
必ず、向くから。
だから今はもう少しだけ、あなたを悼ませて。
ゴルルパ兵は、姿を見せなかった。
ゴルルパの本拠地で、大族長を前にあれだけのことをしたのだ。自らの面子に懸けて、ウルグクは追手を出してくるはずだ、とキルドラは言った。
だが、その日の昼間、草原は奇妙なほどに静まり返っていた。
やがて日が沈み、夜の闇が草原を覆い尽くしたころ、目を光らせた三頭の草原狼が戻ってきた。
フレイヤとキルドラは、彼らに乗って草原を東へと駆けた。
フレイヤはもうドレスを脱いでいた。
あの赤いドレスは、きっともう二度と着ない。
着慣れた騎乗服で太陽の背に跨りながら、フレイヤは思った。
あの姿を、ロイスに見てもらえたことだけがわずかな救いだった。




