ソレータルの夜空
「父上!」
野太い声が、フレイヤの背後から聞こえた。
その瞬間、フレイヤの身体をぞわりと悪寒が走る。
生理的嫌悪。
瞬時に、鳥肌が立つ。
言葉にできない不快感を、身体が代弁するかのように。
「遅かったではないか、ガラザド」
ウルグクはフレイヤの背後に目を向け、にやりと笑った。
「もう先に始めていたぞ」
「これでも急いで来たのです」
背後の声は楽しそうに答える。
「黒騎士とやらの方に行こうと思っていたものですから」
その声が近付いてくる。
やむなく、フレイヤはウルグクから距離を取りつつその声の主に向き直った。
ウルグク同様、がっしりとした浅黒い体躯。
鍛えられた太い首。その顔は、太い眉と通った鼻筋の目立つ美形といっても良かった。
だが、フレイヤの身体を舐めるように見るその目。わずかにめくれた唇。ひくひくと動く鼻。
それら全てがフレイヤに言いようのない嫌悪感を与えていた。
「フレイヤ・アステリオ」
気取った口調で、ガラザドはフレイヤの名を呼んだ。
「美しくなったではないか。やはり、俺の目に狂いはなかった」
「お久しゅうございます、ガラザド様」
仕方なく、フレイヤはそう答えた。
「お元気そうで何より」
「元気に見えるか。だが、元気ではなかったのだ」
ガラザドも父同様、流暢な共通語を操った。
「二日前まで、おかしな熱と腹痛に苦しめられていてな。おかげで、軍を率いることもできなかった。お前たちの軍が北の方でごそごそと蠢いていることには、とっくに気付いていたのだ。本来ならばこの俺が一軍を率いて蹴散らしてやるつもりであったのに、結局この体調のせいでモラグに軍を任せることになってしまった。だが、病もときにはかかってみるものだな」
ガラザドはにやりと笑う。
「こうして再びお前に会えたのだから」
急な病。
そのせいで、この谷にまだ残っていたのか。
不運なめぐり合わせに、フレイヤは内心舌打ちする。
できれば、この男には会いたくなかった。
「そんなことよりも」
またガラザドの好色そうな視線がフレイヤの身体の上を舐めるように滑る。
「これはどういう趣向なのですか、父上。なぜフレイヤと剣で遊んでいるのですか」
ゴルルパ語でそう言いながら、彼の目は結局、フレイヤの尻に吸い寄せられるようにして止まった。
舌なめずりをせんばかりの顔でフレイヤを見つめるガラザドに、片膝を立てていたウルグクは笑って座り直した。
「この姫君は“悍馬の瞳”をご所望だそうだ。我らが奪っていったと言って聞かぬゆえ、ならばこの首を獲れば返してやろう、と言ったところだ」
「そのような面白きこと、私にやらせてくださいませ」
ガラザドは嬉しそうに言った。
「大敵ヴォイドならばともかく、フレイヤはその娘。大族長たる父上に相応しい相手とは言えませぬ」
ゴルルパ語の意味は分からないが、ねっとりとした声で自分の名を呼び捨てにされたフレイヤの背筋にはまた寒気が走る。
「余興だ、ガラザド」
ウルグクは言った。
「お前がやるというのであれば、好きにせよ」
「はっ」
ガラザドは目をぎらつかせてフレイヤに歩み寄る。
フレイヤはぱっと飛び退って剣を構えた。
「ガラザド様が私の相手となるのですか」
「ああ」
ガラザドは頷く。
「俺が相手だ。俺に勝てば、望みのものはくれてやろう」
「それならば、まずは“ソレータルの夜空”をここに持ってきてくださいませ」
構えを解くことなく、フレイヤは言った。
「私が勝ったならば、持ち帰らせていただきます。それでよろしければ、お受けしましょう」
「構わん」
ガラザドは即答した。
「だが俺が勝ったならば、お前は俺のものになってもらうぞ」
早くも勝ち誇ったように、ガラザドは笑った。
「初めて会ったあの日よりずっと、お前を抱いてみたかった。もうシェナイになど帰さぬぞ。それでもよいのだな」
「構いません」
フレイヤもまた、即答した。
「ただし、まずは“ソレータルの夜空”をここに。ガラザド様ともあろうお方が、まさか約定は違えますまい」
「俺を見くびるな、フレイヤ」
ガラザドは笑う。その健康的な白い歯が、フレイヤにはただただ不快だった。
「勝てば渡してやる。お前の身体と釣り合うものかどうかは知らんがな」
そう言って距離を詰めてこようとするガラザドを、フレイヤの鋭い声が制止した。
「まずは現物をここに」
「いいではないか、順番など」
「よくはありませぬ」
フレイヤは、厳しい表情でガラザドとウルグクとを交互に見た。
「私は父ヴォイド・アステリオの使いとして来ているのだということを、ゆめゆめお忘れなきよう」
ヴォイドの名をフレイヤが口にすると、場の空気が一瞬変わる。ガラザドは舌打ちして足を止め、ウルグクもわずかに顔をしかめた。
やはり、父の名はゴルルパの間では絶大な効果を持っている。
再びフレイヤはそれを実感した。
草原では敗北を知らなかったゴルルパに、一度ならず二度までも敗北の味を教え込んだ、シェナイの勇将ヴォイド・アステリオ。その偉大な業績は、決して揺らぐことはないのだ。
たとえ、今の父がどれほど醜く変わり果てていようとも。
「持ってきてやれ」
ウルグクが面倒そうに、側近の男に告げた。
しばらくすると、側近が小さな木箱を恭しく持って来て、ウルグクの前に置いた。
「ふん」
ウルグクは箱を持ち上げ、無造作に蓋を開ける。
「これでいいか、じゃじゃ馬姫よ」
箱の中で、大ぶりの宝石が篝火の明かりに煌めいた。
“ソレータルの夜空”。
目にするのは久しぶりだったが、見間違えるはずはなかった。
夜空を思わせる濃紺の結晶の中に煌めく無数の白い星。
アステリオ家の誇りの象徴。
これほどの宝石の模造品を作る技術は、ゴルルパにはない。
「はい」
フレイヤが頷くと、ウルグクは満足そうに箱を自分の目の前の地面に置いた。
「ガラザドに勝てば、好きにするがいい」
「そのお言葉、決してお忘れなきよう」
ウルグクにそう答え、フレイヤはガラザドに向き直った。
「お待たせいたしました」
そう言うと、剣先をぴたりとガラザドに向ける。
「いざ」
「ああ、待ちきれぬ」
ガラザドは、はしゃいだ口ぶりで言うと、すらりと蛮刀を抜いた。
「こんな面倒な手続きは全てすっ飛ばして、さっさと組み敷いてしまいたいものを」




