女傑
「実に美しい」
ゴルルパの大族長ウルグクは、自分に歩み寄って来るフレイヤをうっとりと眺め、酒を呷った。
「ここまで美しくなるのであれば、やはりあのとき無理にでも組み敷いておくべきであった」
「和平の会見でのことをおっしゃっておられますか」
フレイヤは艶やかに微笑んだ。
「相変わらず、ウルグク様は冗談がお上手にございますね」
その言葉に込められた皮肉に気付いたのかどうか。ウルグクは笑顔を引っ込めると、ゴルルパ語で側近の男に何かを叫んだ。
その男が自分に向かってくるかとフレイヤは身構えたが、側近はそのままテントの外へと姿を消した。
テントの中には、フレイヤとウルグクの二人だけとなった。
フレイヤは背負っていた荷物をその場に下ろすと、ウルグクに向き直った。
鞘に収めているとはいえ、腰に剣を佩いたままフレイヤが歩み寄ってくるというのに、ウルグクは立ち上がろうともしない。
大族長の証たる長大な剣は、手を伸ばせば届く位置に置かれていたが、ウルグクは目を向けることもしなかった。
「今宵は、返していただきに参りました」
フレイヤは言った。
篝火が揺れ、美しい顔の陰影をさらに深くする。
「あなた方が先日奪っていかれた“ソレータルの夜空”を」
は、とウルグクは笑った。
「何の……夜空だと?」
「“ソレータルの夜空”にございます」
「知らぬ」
ウルグクは言った。
「何だ、それは」
その顔がにやりと嫌らしく歪むのを見て、フレイヤはウルグクの意図を悟る。
ソレータルというのは、伝説上の楽園の名前だ。
だが、その伝説はシャーバードのものであって、ゴルルパのものではない。
当然、ゴルルパたちはあの宝石をそんな名前では呼んでいないのだ。
「分からぬな。いきなりこの谷にやって来て、大暴れした挙句に“夜空を返せ”などと奇妙なことを言われても」
ウルグクは言った。
「それは謎かけか何かかね、シェナイの姫君よ」
ウルグクが“ソレータルの夜空”の名を知らないはずはない。だが、フレイヤを挑発するためか、からかうためか、ウルグクはとぼけていた。
フレイヤは怯まなかった。
ウルグクがそんな態度に出るであろうことは、最初から予想済みだった。
「お分かりになりませぬか」
慎重にウルグクとの距離を測りながら、フレイヤはそう言った。
虚勢なのか、それとも余裕なのか、ウルグクはまだ剣に手を伸ばさない。
「分からぬな」
ウルグクが答える。
「では、“悍馬の瞳”といえば分かりますか」
「ほう」
ウルグクは目を見開く。
「知っておったか。その名を」
「お返しいただけますか」
フレイヤは言った。
「この谷にあるはず」
「さあて」
ウルグクが首を捻る。
「どうであったろうな」
「我が父は」
フレイヤはウルグクの挙動から目を離すことなく言った。
「ヴォイド・アステリオは、ゴルルパのこたびの所業にひどく腹を立てております」
ヴォイドの名を出すと、ウルグクの眉がぴくりと動いた。
やはり、真正面からの会戦でウルグクを破った歴史上初めてのシェナイ人、大敵ヴォイドの名はこの大草原ではまだ輝きを失ってはいなかった。
「和平の約定を違えたことにより、すぐにでも大軍をもって攻め寄せてもよいところだが、それでもまずは大族長ウルグク様の顔を立てようと。父ヴォイドはそのように思し召しです。そのために、私を遣わしたのです」
「使者にしてはずいぶんと乱暴であったな」
「奪われたものを奪い返すのに、行儀良くなどできぬのは我らとて同じ」
フレイヤの答えにウルグクは、ふん、と鼻を鳴らす。
「我らが奪ったという証拠も無きままに、攻め寄せるというのか。シェナイ人は」
ウルグクは笑った。
「なんとも野蛮な所業ではないか、え?」
「証拠」
フレイヤは笑い返す。
「そんな甘っちょろい言葉が、まさかウルグク様ともあろうお方の口から出てこようとは」
「なに」
「我らがそう信じたのであれば、証拠などあろうがなかろうが、それが我らにとっての真実。我らの信じたものを信じぬのであれば、互いの真実を懸けて戦うべし。このフレイヤ・アステリオ、まだ若輩といえどもそのような覚悟で生きております。ウルグク様も当然に同じ覚悟をお持ちの方とばかり思っておりました」
ウルグクは答えなかった。
黙ったまま、細く鋭い目でフレイヤの顔をしばらく睨んでいたが、不意に相好を崩した。
「シェナイの小娘が」
ウルグクは笑顔で言った。
「言うようになったわ」
それから、ウルグクは己の首をぴしゃぴしゃと叩いた。
「よかろう。俺は勇気ある者が好きだ。女だてらにここまで乗り込んできたお前の勇気に敬意を表して、返してやろう」
その笑顔が、草原狼のような凶暴さを帯びた。
「俺のこの首が獲れたらな」
ウルグクの首。
一瞬、フレイヤは躊躇った。
ウルグクの首を獲るところまでは、想定していなかったからだ。
ゴルルパの大族長を討つとなれば、それはウルグクとフレイヤだけの話では終わらない。
シェナイとゴルルパは、間違いなく戦争になるだろう。
自分の行為がもたらすであろう結果の大きさに、フレイヤの足はすくんだ。
だが。
ここで気圧されたならば、何も手にできないままに死ぬことは分かっていた。
全てを呑み込むつもりで来た。
よしんば情けをかけられて、生かして帰されたとして、その後の人生など果して何になるだろう。
ウルグクはこちらの覚悟を試している。
怯んだら、負けだ。
キルドラ。
ロイス。
フレイヤは心の中で、二人の幼馴染の名を呼んだ。
どうか、私の背中を押して。
「よろしいのですか」
フレイヤは言った。
声が微かに上擦ったのが口惜しかった。
「本気にしますぞ」
ウルグクは立ち上がりもせず、悠然と頷く。
「俺を誰と思って、訊く」
そのときには、フレイヤは歩き始めていた。
前だ。
欲しいものを掴みたければ、前に進むしかない。
「女だと思って、侮っておいでですか」
努めて静かな口ぶりで、フレイヤは言った。
あと、五歩。
「私とて、アステリオ騎兵隊の一員でございます」
あと、三歩。
「騎兵隊か」
ウルグクは険のある笑顔を浮かべる。
「大敵ヴォイドの指揮あってこそであろう」
あと、一歩。
「女は、女だ。じゃじゃ馬姫」
今だ。
フレイヤは跳んだ。
この自分の行為によってこれから起こるであろう様々なこと。
それらを全て置き去りにした跳躍だった。
結果は、出た後で考える。
フレイヤは空中で目にも止まらぬ速さで剣を抜き放っていた。
「ははは」
ウルグクは笑った。その手に、すでに長大な剣が握られている。
だが。
そんな長い剣、鞘から抜けるものか。
フレイヤはそのまま剣を振るった。ウルグクの首筋に。
しかし、フレイヤの剣は金属同士のぶつかり合う音とともに防がれた。
どうやって抜いたのかと思うほどの速さで、ウルグクは鞘から抜き放った剣を、フレイヤの剣に合わせていた。
「くっ」
座ったままで剣を受け、びくともしなかったウルグクはやはり恐るべき戦士だった。
けれど感心している場合ではない。
もう一刀。
それも苦も無く受けたウルグクの、下から摺り上げた剣がフレイヤの服の胸のあたりをわずかに裂いた。
「おおっと、危ない」
ウルグクは楽しそうに笑う。
「せっかくの豊かな胸を斬り落としてしまうところであった」
「その首が落とせるのであれば」
フレイヤは言いながら、剣を横薙ぎに叩きつける。
再びの金属音。
「乳房の一つくらい、犠牲にもいたしましょう」
「ははは」
ウルグクは長大な剣をまるで小剣か何かのように扱う。
「良き覚悟。女傑なり」
フレイヤの剣を大きく弾くと、ウルグクは片膝を立てた。
「いつまでも座っておるのも無粋だな」
その時だった。
「父上!」
背後からかかったその声を聞いた瞬間、フレイヤの身体をぞわりと悪寒が走った。
ガラザド。
ウルグクの息子。
軍を率いて北へ向かったと思っていた。
まだこの谷にいたなんて。




