ウルグク
夜陰に乗じて、首尾よくレゴウの谷に潜入した後。
フレイヤとロイスはゴルルパの大族長ウルグクのいる大テントに向かって駆けていた。
思った通り、警戒は緩い。
ゴルルパの住まうのは、占領したとて奪うものも無い、大草原だ。
彼らにとって敵とは、自分たちが攻め、奪う相手であって、攻めこまれる相手ではないのだ。
草原の巡察隊も侵入者を見付ける役目を果たしてはいるが、少人数で本拠地をついてくるような敵を想定した制度ではないのだろう。
今までにそんな敵はいなかったのだから、当然だ。
だから、巡察隊がどれだけ連絡を密にしていても、本拠地それ自体の警備は薄いはずだ。
キルドラのそうした読みは当たっていた。
誰何も受けることなく、フレイヤとロイスは走った。
このまま、二人でウルグクのもとまで行けるのではないか。
一瞬、そんな甘い考えがフレイヤの脳裏をよぎる。
だが、やはり現実はそこまで甘くはなかった。
「誰だ、貴様ら」
「どこへ行く、止まれ」
突然、ゴルルパ語で鋭く制止を求められた。
蛮刀を提げた男が二人、フレイヤたちに向かって走ってきていた。
一刹那で、フレイヤは自分の甘い考えを振り切った。
敵地のど真ん中。
ここはもう、死地だ。
けれど。
フレイヤは腰の剣を抜き放った。
けれど、ここは縦横無尽に馬を操れる草原ではない。
狭い谷。
騎馬民族たる彼らと自分達との条件は対等だ。
徒歩で向かってくる二人ばかりの兵士など、私たちの敵ではない。
「姫様」
フレイヤの心のうちを読んだように、ロイスが言った。
「奴らの相手は私が」
その意味がフレイヤにも分かった。
ロイスはここに残って陽動の役目を果たすと言っている。
「姫様は、先へ」
そう言って、ロイスがフレイヤを見た。フレイヤもロイスの顔を見上げる。
一瞬、幼馴染同士の視線が切なく絡み合った。
ありがとう、ロイス。
「分かったわ」
フレイヤは短く答えた。
それから、ロイスの首に手を回す。
「え」
ロイスが目を見張った。
ぐい、と背伸びして、フレイヤはその頬に口づけた。
「姫様」
闇の中でも、ロイスが呆気にとられた顔をしているのが分かった。
「ウルグクのもとで、また会いましょう」
フレイヤは言った。
「死なないで、ロイス」
「……もったいなきお言葉」
ロイスは頬に手を当てて微笑むと、次の瞬間には敵に向かって駆け出していた。
「うおおおおーっ!!」
谷中に響き渡るほどの大声。
駈け寄ってきていたゴルルパ兵が、気圧されたように足を止める。
ロイス。どうか無事で。死なないで。
フレイヤはそう祈ると彼に背を向け、闇の中に姿を消した。
「どうした」
天幕が外され、美しい星空を手に取るように眺めることのできる大テント。
並べられた篝火の向こうで、多くの男たちが忙しなく行き来していた。
盃に満たした酒を呷り、ウルグクは不機嫌な声を上げた。
酒宴の興がそがれた。
乱暴に手を叩いて、舞っていた女たちを下がらせると、下座を睨む。
「何事だ。騒がしいではないか」
すぐににじり寄ってきたのは側近のアムドファだった。アムドファはウルグクの隣に膝をつき、耳打ちする。
「この谷に入り込んだ者がおります」
「ふん」
ウルグクは笑った。
「巡察から報告の上がっていた、シェナイの者か」
「おそらくは」
「何人だ」
そう問いながら、ウルグクは己の傍らに置かれた長大な剣に目を落とす。
ゴルルパを束ねる大族長の証たる、“真なる戦士の剣”。
馬上で振るうために特に長く作られたその業物を、馬に乗ることなく振り回して敵を叩き斬ることができるのは、上背と体格に恵まれたウルグクのような真のゴルルパ戦士のみだった。
「二人だそうで」
「二人?」
ウルグクは眉をひそめた。
「たかが二人に、こんなに騒いでおるのか」
「ずいぶんと腕が立つようです」
アムドファはゴルルパらしい率直な物言いをした。
「一人は、黒騎士ロイスと見受けられます」
「なに、ロイス。あの騎兵隊の青二才が来たのか」
ウルグクは声を出して笑った。
「前の戦では、親父の後ろにくっ付いて回るのがせいぜいであったのに。この谷に一人で飛び込んでくるほどに成長したか。それで、もう一人は」
「もう一人は分かりませぬ」
アムドファは言った。
「闇に紛れて逃げた、と」
「ここまで来て逃げるわけがなかろう」
ウルグクは鼻を鳴らした。
「その程度の覚悟で、この谷まで辿り着けるものか」
「今、探しております」
アムドファは言った。
ウルグクはテントの向こうの闇に目を向けた。
そっちだ、止めろ、などという怒号が微かに聞こえてくる。
なるほど、確かに黒騎士シュルトの息子ロイスが奮戦しているようだ。
「青二才の青騎士、などとからかっていたものだが」
ウルグクはそう呟いて酒を呷る。
強敵と聞けば、そちらに向かいたくなるのがゴルルパの男というものだ。
すでにかなりの者がテントを離れ、いつの間にかウルグクの周りには人の数が少なくなっていた。
それに気付き、ウルグクは苦笑する。
それで、敵の狙いも分かったのだ。
「来るぞ」
「は?」
大族長の言葉の意味が掴めず、アムドファは目を瞬かせた。
「いま、何と」
「来ると言ったのだ」
ウルグクは言った。
「勇者は後退せぬ。たとえ周りの凡愚には、それが後退しているように見えようともな。勇者の道とは険しく曲がりくねっているものなのだ」
それからウルグクは、自分が信頼する戦士の名を呼んだ。
「ロウグバ」
「はっ」
まだテントを離れることなく泰然と酒を飲んでいた大柄な男が立ち上がる。
「相手は黒騎士ロイスだ。不足はあるか」
「ありませぬ」
「よし。行け」
命を受けたロウグバの身体から放たれた闘志が、目に見えるかのようだった。
「俺の剣を」
ロウグバは己の部下に大声で叫んだ。
「最も長く、最も重い剣を持ってこい」
巨大な蛮刀を引っ提げて暴風のように走りさるロウグバの背中を見送り、ウルグクはアムドファに目を向けた。
「もう一人はどうする。お前がやるか」
だが、アムドファが答えるよりも前に、テントが大きく揺れた。
それとともに、酒器の割れる音。
そちらを見たアムドファが目を見開いた。
「来たか」
ウルグクは笑い、それから嬉しそうに付け加えた。
「これはこれは。会いたかったぞ」
「お前は、まさか」
アムドファが絶句する。
ウルグクは驚きもせず、歩み寄ってくる侵入者に共通語で語り掛けた。
「大敵ヴォイドの秘蔵っ子、シェナイのじゃじゃ馬姫よ。なんとも美しく成長されたではないか」
「フレイヤ・アステリオにございます」
侵入者は、凛とした声で名乗った。
「ご無沙汰しておりました。またお目にかかれて嬉しゅうございます、全てのゴルルパの長にして大草原の王者、ウルグク様」




