前へ
走る二人の後方に、ゴルルパの追手たちが現れた。
彼らの叫ぶゴルルパ語の意味は、フレイヤとロイスにも分かった。
「待て」「殺すぞ」それから、「仲間を見捨てる気か」。
フレイヤは唇を噛む。
二人を乗せた馬よりも、身軽な追手の馬の方が明らかに脚色が良かった。
「ロイスは前に集中して」
フレイヤはそう言って、弓をぎりりと引き絞る。
「後ろは私に任せて」
「承知しました」
ロイスは手綱をしっかりと握って馬を駆けさせ続けた。その後ろに乗ったフレイヤが、矢を放つ。一番先頭にいた追手が胸に矢を受けて馬から転げ落ちる。その時にはもうフレイヤは次の矢をつがえていた。
「右」
フレイヤの言葉で、ロイスが馬を右に寄せる。フレイヤの肩を敵の射た矢がかすめて飛んでいった。
それと同時に射返した矢が、またゴルルパの追手を貫いた。
キルドラ。
フレイヤは胸の中でその名を呼んだ。
キルドラ。
ごめんなさい、キルドラ。
胸から溢れそうになる思いを、必死に抑える。前を向けば、幼馴染のロイスの背中がすぐそこにある。そこに縋りついて泣き崩れたかった。
けれど、フレイヤは後方から迫る敵たちから目を離さなかった。
彼女の放つ矢はその激情が込められてでもいるかのように、恐るべき命中率を誇った。
屈強なゴルルパの騎兵も、自分たちの射程の外から正確に射貫いてくるフレイヤの神業のような射撃に徒に犠牲を増やし、ついに追うことを諦めた。
最後の追手が馬首を返して視界から消えると、静まり返った草原に二人を乗せた馬の地面を蹴る音だけが響いた。
フレイヤもロイスも無言だった。
ロイスは前だけを見据え、フレイヤは時折後ろを振り返ったが、二人ともキルドラの不在を噛み締めるように厳しい表情で、何も言葉を発さなかった。
ただ一騎となってからずいぶんと走ったところで、ロイスはようやく馬を止めた。
二人が馬から飛び降りたそこは、キルドラが今までの道を逸れて岩場に踏み込むと計画した地点だった。
これ以上この道を進むということは、待ち受ける敵の真っただ中にたった二人で突っ込んでいくということだ。
いくら勇猛なフレイヤでも、そこまで無謀ではない。
草原の地理に最も明るいキルドラがいなくなってしまったが、それでも二人は予定通り岩場に足を踏み入れた。
ごつごつとした岩場を、息を切らしながら一心に登るフレイヤを、ロイスは気遣わしげに見た。
「姫様」
キルドラと別れてから初めて、ロイスはフレイヤに話しかけた。
「キルドラのことを心配しておいでですか」
「え?」
フレイヤは努めて表情を変えることなくロイスを見た。
「どうして?」
そう問い返したが、ロイスは何も答えない。理由など言う必要はないでしょう、という顔。それで、フレイヤは言葉を続けた。
「私は最初から、どんな犠牲を払ってでも“ソレータルの夜空”を取り返すと決めていたわ。たとえ、キルドラがいなくなったとしても。だから心配なんてしている暇はない」
言葉とは裏腹に、言えば言うほどに胸が詰まってくるのを抑えられない。
ごめんなさい。キルドラ。
あなたを誘ったのは私なのに。あなたは最初、乗り気ではなかったのに。
それなのに、私は敵の真っただ中にあなたを置き去りにしてきてしまった。あなたを助けに行くわけでもなく、前に進もうとしている。
そんなフレイヤの様子を見つめ、ロイスは言った。
「実は出発の前から、あの男とは話し合っていました」
「え?」
「この旅でもしも姫様に危機が迫ったら、その時姫様に近いところにいた方が、姫様を連れて先へ進もう。もう一人は残って時を稼ごう、と。自分がそのどちらになったとしても、恨みっこはなしだと」
「そんなことを」
勝手に話し合っていたの、とフレイヤは言おうとした。
だが、言えなかった。
フレイヤにも心の奥では分かっていたからだ。
この二人が、そういう人間であるということを。
私は、知っていた。彼らの勇気と、自分への献身を。危難に際して、彼らがどんな行動をとるのかということを。そして、それを利用したのだ。
私は、罪深く残酷な女だ。
「あのとき、私の方が姫様に近いところにいた。だから、私が先に行き、キルドラは残った」
フレイヤの葛藤に気付いているのかいないのか、表情を変えることなくロイスは続けた。
「ですので、姫様が気に病むことはありません。我らは我らの理屈で、互いの約束を果たしただけのこと」
「そう」
努めて。
努めて、何事もなかったように。
そして一歩でも前に。
この命と引き替えにしてでも、奪われた誇りを取り戻す。
私はその強い意志を持ってこの草原に足を踏み入れたのではなかったか。
こんなところで無様に動揺すれば、それこそが命を預けてくれたこの二人への裏切りとなる。
私は、前に進む。
たとえ、この先ロイスまで失うことになろうとも。
「ありがとう、ロイス」
フレイヤは微笑んだ。
「そんなことまで考えていてくれたのね」
「いえ」
ロイスは首を振る。
「姫様に黙っての勝手な決め事、申し訳ございませんでした」
二人が前もってそう決めていたのが自分のためであることも、フレイヤには分かった。
指示されずとも、勝手に助ける。勝手に残る。それは、フレイヤの罪悪感を減らすため。
その気遣いが切なかった。
だが、感傷に身を委ねるわけにはいかない。
今、自分にできることは、二人の想いに応えて前に進むことなのだ。
「キルドラはきっと大丈夫よ」
自分に言い聞かせるように、フレイヤは言った。
「どうにかして切り抜けるわよ」
「殺しても簡単に死ぬ男ではありません」
ロイスは即答した。
「必ずまた会えます」
「そうよね。だってキルドラだものね」
フレイヤは頷き、それでこの会話を終わらせた。
前へ。
もう一度、そう言い聞かせる。
二人は黙々と岩場を進んだ。
太陽の位置を慎重に確認して、方角を誤らないように。
やがて日の沈むころ、二人は遥か眼下にそれを見付けた。
人の生活の営みを示す、無数の火と煙。
獣の皮で作られた移動式の住居が列をなす、大きな谷。
レゴウの谷。
大族長ウルグクの住むゴルルパの本拠地に、ついにフレイヤたちは辿り着いた。




