父との別れ
「シェナイに早馬を飛ばすわ」
フレイヤの言葉に、ミリアは怯えたようにふるふると首を振った。
「いけません、お嬢様」
ミリアは懇願するように言う。
「どうか、お考え直しくださいませ」
「ミリア」
フレイヤは目に涙をいっぱいに溜めたミリアの肩を優しく掴む。ミリアがびくりと震えた。
「あなた、私が何をすると思ってるの?」
「え?」
「怒らないから、言ってごらんなさい」
ミリアはおずおずと答える。
「お嬢様はこれからもう一度王宮へ乗り込んで、大暴れをなさるおつもりなのですよね。王子様をさんざんに辱めた後で、領地へ戻って王国軍と華々しく一戦を交えて」
「いったい、私のことを何だと思ってるのかしら」
フレイヤは苦笑した。
「私がそんな考えなしに見えて? そこまで破れかぶれになってはいないわ」
「そ、そうなのですか」
ミリアが救われたような顔をする。
「それでは、何をなさろうと」
「いい? ミリア。物事には順序があるのよ」
フレイヤは言った。
お嬢様。物事には、順序というものがございます。
それは、この王都での身の処し方を教えてくれたミリアの口癖だった。
自分がこんなことを、ミリアに言うことになろうとは。
「まずは、奪われた“ソレータルの夜空”を取り返すのが先。エルスターク王子のことは、その後よ」
「取り返すとおっしゃいましても」
ミリアが目を瞬かせる。
「すでにゴルルパ族の手に渡ってしまったのでは、と伺っておりますが」
「ええ。今頃はとっくにゴルルパの本拠に送られているでしょうね」
フレイヤはこともなげに言った。
「だから、取り返しに行くのよ」
いったいどなたが、と問おうとしてミリアは、フレイヤの引っ張り出してきた騎乗服の意味に気付いた。
「まさか」
ミリアの顔が再び青ざめていく。
「お嬢様ご自身が、そのゴルルパの本拠地まで行くということではございませんよね」
「そうでなければ、これを出したりはしないわ」
フレイヤは脇に抱えていた騎乗服をばさりと広げる。
「よかった、まだ黴も大したことないじゃない」
笑顔でそう言いながら、フレイヤはそれをてきぱきと身に着け始める。
右肩の王国の紋章の下にアステリオ家の紋章たる北天の六つ星が描かれた、アステリオ騎兵隊の誇りたる騎乗服。
袖を通すと、自分の魂が猛々しく躍動するのが分かる。
「ああ、やっぱりずいぶん腕が細くなったのね。こんなに余裕がある」
先ほど婚約を破棄されたとは思えない、弾んだ声でフレイヤは言った。
騎乗服を身にまとったフレイヤは、すっかり男装の麗人といった風情になっていた。
「ゴルルパの大族長のウルグクには会ったことがあるのよ。あのすけべ親父」
そう言って、微笑む。
「“ソレータルの夜空”を奪った賊は、絶対にあいつの差し金よ。父上に戦で負けたことを恨んで、こんな卑劣な真似をしてきたに違いないわ」
「お嬢様」
ミリアが、また涙声で首を振る。
「いくらお嬢様が勇ましくても、無理というものでございます。恐ろしいけだもののようなゴルルパどもから、一体どのように宝を取り戻されるというのでございますか」
「ミリア。あなたは知らなくても無理はないわね」
フレイヤは優しい目でミリアを見た。
ミリアは、フレイヤが王都に来てからこの家に雇われた侍女だった。
フレイヤの慣れない王都での暮らし全般を、献身的に補佐してくれたのが、彼女だった。
だから、フレイヤがアステリオ家の本拠地であるシェナイでどのように暮らしていたのかまでは知らないのだ。
「大丈夫。ゴルルパだって人間よ。ちょっと私達とは暮らし方が違うけど」
フレイヤはミリアの肩を優しく叩いた。
「相手は人間なの。命を懸ければ、できないことなんてないわ」
そう言うと、騎乗服のままで部屋を出る。
「じいや」
フレイヤは老執事エスコットを呼んだ。
「ちょっといいかしら」
「お嬢様、お呼びで。うおっ」
よたよたと駆け寄ってきた老爺は、フレイヤの騎乗服を見て目を丸くした。
「どうなさいました、そのお姿は」
「もう都のご令嬢はおしまい」
フレイヤは答える。
「きれいなドレスじゃ、馬には乗れないじゃない」
「お嬢様。お言葉遣いが」
「ああ」
フレイヤは吹っ切れたような笑顔で頷く。
「もう丁寧な喋り方をする必要もないもの。それよりもじいや、シェナイに早馬を出して」
「早馬ですと」
表情を改めたエスコットに、フレイヤは言った。
「王子との婚約が駄目になった話は聞いているわね?」
「大殿から直接は伺っておりませんが」
エスコットは頷く。
「わたくしも手紙を読ませていただきました。ああ、そうであった。大事なことを忘れるところでございました」
エスコットは自分の記憶力に顔をしかめ、耄碌したものよ、と自嘲気味にぼやいた。
「先ほど王家から使者が来まして、今宵のエルスタークさまの、お嬢様へのお振る舞いについて謝罪を、と」
「そう」
フレイヤは頷く。
「それで?」
「それだけでございます」
老執事は言った。
「他には何も言わず、帰って行かれました」
「それならいいわ」
フレイヤは頷いた。
形だけの謝罪。
婚約破棄については、変更はないということだ。
ただ、その伝え方に非礼があったと、王家はそれを形式上、詫びてきたというだけのことだ。
やはりエルスタークのあの場での婚約破棄宣言は、自分の感情を抑えきれずにやったことなのだろう。
そのことを思い出すと、また胸がざわめきそうになり、フレイヤは急いで口を開いた。
「まあその件もあって」
言葉に感情が出ないように努める。
「それで早馬を出さなきゃならないのよ」
フレイヤの言葉に、エスコットは訳知り顔で応じた。
「シェナイに残られている若殿のところにですな」
若殿とは、今も父に代わって領地を守るフレイヤの兄、カークのことだ。
「“ソレータルの夜空”が奪われたことが原因で、お嬢様が婚約を破棄されておしまいになったと」
「兄上には報せなくていいわ」
フレイヤは、口惜しそうな顔のエスコットの言葉を遮った。
「王子との婚約が駄目になったなんて聞いたら、真面目な兄上は責任を感じて城壁から飛び降りて死んでしまうかもしれないから。そのことは私が直接話す」
「では、どなたに」
「ロイスと、キルドラ」
久しぶりにその二人の男の名前を口にしたとき、フレイヤの胸は微かにうずいた。
自分の心の中を、確かにあの西の草原の風が吹き抜けた気がした。
元気にしているだろうか。
しているはずだ。あの二人なら。
きっと、あのころと変わることなく。
「黒騎士ロイスと跳ね馬のキルドラでございますか」
老爺は目を見張る。
「何とお伝えをすれば」
「私が帰る、と」
フレイヤは言った。
「それだけでいいわ」
「戦でございますな」
エスコットはにやりと笑う。
王都での暮らしが長いとはいえ、この老人もシェナイの人間だ。ミリアと違い、それだけでフレイヤの意図を見抜いていた。
笑うと、実直そうな執事の顔の裏の粗野な素顔が垣間見えた。
「この爺もお供しますぞ」
「じいやは、父上とこの家のことをお願い」
フレイヤは答えた。
「シェナイには、私一人で戻るわ」
不満そうな顔のエスコットと涙目のミリアを残し、フレイヤは父の部屋を訪れた。
エスコットの言葉通り、フレイヤの父ヴォイドは、ベッドに臥せていた。
あの頑健だった父が。
フレイヤは、騎馬を駆る父の勇姿を思い出す。
風を震わせて殺到するゴルルパの騎兵たちを前に、眉一つ動かさなかった父。
兵を縦横無尽に操り、ゴルルパを完膚なきまでに打ち破った、稀代の勇将。
だが、今目の前で横たわる父はでっぷりと太り、まるで脂肪の塊だった。
王都での華やかな暮らしが、精悍な戦士だったこの人をここまで醜く変えてしまった。
「父上」
フレイヤは、ベッドの傍らにひざまずき、そっと声をかけた。ヴォイドは薄く目を開ける。
「フレイヤか」
ヴォイドはそう言うと、喘ぐように口をぱくぱくと開いた。
「手紙を読んだか」
「いえ」
フレイヤは首を振る。
「けれど、宴の席でエルスターク様から直接伺いました」
「あの性悪の腹黒め」
ヴォイドは低く呻いた。
「宴の席でだと。よくもフレイヤにそのような辱めを。おのれ、こちらとて故意に約定を違えたわけではないというのに」
激しい怒りを滲ませるその声も、弱々しかった。
横たわる初老の男に、かつての勇将の面影はもはや微塵もなかった。
「そのことで、お話が」
フレイヤは言った。ヴォイドは首を上げるのも大儀そうに、目だけ動かしてフレイヤを見る。
「なんだ」
「ゴルルパに奪われた“ソレータルの夜空”」
フレイヤは低い声で、けれどはっきりと言った。
「私が取り戻してまいります」
最初、ヴォイドは何を言われたか分からないように、ぽかん、と娘の顔を見た。
だが、フレイヤがその身にまとった騎乗服に気付くと、見る間に顔色を変えた。
「どうした、その服は」
「奪われたものは、己の手で取り戻すのがシェナイの流儀でございましょう」
フレイヤは言った。
「ゴルルパの地へ赴き、奪い返してまいります」
そう言って、立ち上がる。
「このアステリオ騎兵隊の騎乗服に懸けて」
右肩に輝く、北天の六つ星。
アステリオ家の紋章が、父の誇りを蘇らせてくれるのではないか、とフレイヤはわずかに期待した。
だが、父は泡を吹かんばかりの顔をして、枕の上で激しく首を振った。
「ばかを言うな。気でも触れたか」
血走った眼で、ヴォイドは喚いた。
「やけを起こすな。いいか、ルーシアの実家から働きかけてもらうのだ。ルーシアさえいれば、あんな王子のたわ言など、どうとでもなる。婚約破棄などさせてなるものか」
ヴォイドはまるで切り札のように、自分の後妻の名を口にする。
フレイヤは、ルーシアの氷のような美貌を思い浮かべた。
フレイヤの義母でもある彼女は、もうこの家にはいない。
それがどういうことなのか、フレイヤには分かっていた。
王子の義母になるという、ルーシアの野望は潰えたのだ。だから、もう彼女にはこの家に留まる理由はない。
「ルーシアはおらぬか。誰か、ルーシアを呼べ。善後策を話し合わねばならん」
なおも喚く父に、フレイヤはそっと背を向けた。
自分が初めて騎兵隊に加わった日のことを思い出す。
あの日、騎乗服をまとってこっそりと軍に加わった男装のフレイヤを見付けた時の、父の厳しい眼差しを。
来るのならば、我が娘とて特別扱いはせぬ。我らは全員で、ゴルルパを貫く一筋の矢となるのだ。フレイヤ、お前にその覚悟があるか。
父は、フレイヤにそう訊いてくれた。
追い返すでも怒り狂うでもなく、困惑するでもなく、ただその覚悟を問うてくれた。
父上。あの時の言葉は、今でも私の胸に生きております。
歩き出しながら、フレイヤは心の中で父に別れを告げた。
さようなら、父上。
フレイヤは、己の誇りを取り戻しに行ってまいります。