二人の誘い
遠慮がちに肩を揺すられ、フレイヤは目を覚ました。
「あ……私の番ね」
そう囁いて上体を起こす。
フレイヤを覗き込んでいたのは、ロイスだった。
「様子はどう?」
「今のところ、動きはないようです」
ロイスは囁き返す。
「キルドラの言っていた通り、夜は動きを控えているのかもしれません」
「そうだといいのだけど」
フレイヤは隣で横になっているキルドラをちらりと見た。
よほど疲れているのだろう。身じろぎもせずに眠っている。
「暗いわね」
音を立てないように慎重に、フレイヤはロイスの隣に立った。
「ありがとう。休んで、ロイス」
フレイヤの言葉に、ロイスは微かに頷く。
「お願いいたします」
ロイスが横になるのを見届けてから、フレイヤは木の根元に立つ。
月明かりを避け、なるべく木の幹とひとつになるように。
万が一、ゴルルパが現れたとしてもすぐに見つかることのない位置に。
とはいえ、三頭の馬が繋がれている。勝手に去り、勝手に戻ってきてくれる草原狼たちとは違う。この茂みに人がいるということは一目瞭然だった。
つまりこの近くにゴルルパが来たならば、それはとりもなおさず交戦するということになる。
だから、敵がこちらを見付けるより先に、こちらが敵を見付けなければならない。
ロイスもキルドラも、もちろんフレイヤもいつでも戦えるよう自分たちの得物を手元に置いていた。
だが、今のところゴルルパ騎兵の姿はない。
フレイヤは静まり返った草原を見まわした。
目の奥に、まだじっとりとした眠気が残っている。
その気なら、立ったままでも眠れてしまいそうな気怠さ。
旅立った日から今日まで、ずっと強行軍で身体を酷使してきた。
特に今日は、丸一昼夜全力で動いてきたのだ。いかに頑健なフレイヤと言えども、わずかな睡眠でその疲れを取り除くことはできなかった。
朝までは、まだ時間がある。
フレイヤは月を見上げた。
まだあの位置にあるのなら、もう一度くらいは眠ることができそうだ。
しばらくの静寂。
フレイヤは風に耳を澄ませ、匂いに注意を払い、闇に目を凝らした。
少しでも異常があれば、躊躇なく二人を起こすつもりだった。
そのとき、茂みががさりと揺れた。
はっと振り返ると、浅黒い肌のゴルルパ人が起きてくるところだった。
「キルドラ」
思わず咎めるような声を出してしまう。
「あなたの起きる時間はまだ先よ」
「深く眠れた」
キルドラはそう言うと、フレイヤの隣に立つ。
「フレイヤ。お前は疲れているだろう、寝ておけ」
ぼそぼそと囁く。一応は、ロイスに気を使っているようだった。
「あなたこそ」
フレイヤはキルドラを見上げる。
「疲れてるでしょう。さっき、すごくよく眠っていたわよ」
「ああ、よく眠った。だから、もう大丈夫だ」
キルドラは自分の首の後ろに手を当てた。
「草原狼に乗るよりは、やはり馬に乗っていた方が疲れは少ないな」
それはフレイヤも同感だった。
「草原狼は、人を乗せるようには生まれついていないものね」
フレイヤが言うと、キルドラはにやりと笑う。
「最初からこうして馬に乗ってくればよかったかな」
「そうしたら、もっと遥か手前で見つかっていたわ」
フレイヤは答える。
「ゴルルパをひたすらに討って、その馬を奪って、レゴウの谷まで乗り込むことになる」
「その方がお前らしい気もする」
キルドラは低く笑った。
「草原狼を使うのは、俺のアイディアだ。お前には似合わない策だったかもしれんな」
「今さら何を言ってるの」
キルドラの意図が読めず、フレイヤは彼を軽く睨む。
「決めたのは私よ。あなたやロイスはいろいろと助言をくれたけれど、最後に決めたのは常に私。その責任は私だけが負う」
「そうか」
キルドラは目を細めてフレイヤを見た。
「お前のそういうところが、俺はたまらなく好きだ」
「なっ」
あまりに直截的な物言いにフレイヤが絶句すると、キルドラは彼女の顔を面白そうに眺める。
「聞いておこうと思ったことがある。“ソレータルの夜空”を首尾よく奪い返せたら、その後はどうするつもりだ」
「その後?」
フレイヤはキルドラから目をそらし、草原の闇を見つめた。
「エルスターク様のことについては、きっちりと結果を示す必要があると思っているわ」
「エルスターク?」
キルドラが眉を上げる。フレイヤは短く補足した。
「私の元婚約者」
「ああ」
キルドラは息を吐きながら笑う。
「女を見る目のない、節穴の第二王子か」
「節穴かどうかは分からないけど」
フレイヤは肩をすくめた。
「むしろアステリオ家をさっさと切ることで、他の貴族を取り込んで第一王子との暗闘を有利に展開させる慧眼の持ち主なのかもしれない」
「お前の行動一つだな」
フレイヤ同様、周囲の闇に目を向けながらキルドラは言った。
「その王子がぼんくらなのか聡明なのか、それはお前のこれからの行動とその結果で決まる」
そう言って、にやりと笑う。
「王子の評価を決める主導権はお前にある」
「そうね」
フレイヤは頷いた。
「私に与えていただいただけのことはお返しするつもりよ」
勝気な笑顔には、もう王都のパーティーで婚約を破棄された時の淑やかさはない。
「それがアステリオ騎兵隊のやり方でしょ?」
「エルスタークとやらは、災難だな。えらいものを目覚めさせた」
キルドラは冗談めかして笑った後で、不意に地面に目を落とす。
「それが終わったら、どうするつもりだ」
「え?」
「王都でのあれやこれやが全部終わったらだ」
キルドラは低い声で言った。
「領地はカークが治めている。王都にはお前の親父がいる。お前は、どうするつもりなんだ」
「私は」
誇りを取り戻し、全てが終わった後のこと。
フレイヤは言葉に詰まった。しばしの沈黙の後、首を振る。
「まだそこまでは考えていないわ。まずは“ソレータルの夜空”を取り返して、傷つけられた自分の誇りを取り戻すこと。今はただ、それだけ」
「俺と暮らさないか」
キルドラはぼそりと言った。
「草原で、馬とともに。余計なものに縛られず」
答える言葉が見当たらず、フレイヤはキルドラを見上げる。
キルドラも思いがけず真剣な目でフレイヤを見つめていた。
何か答えなくてはいけない。そう思って、フレイヤはとにかく口を開いた。
「……私は」
だが、キルドラ自身が彼女の言葉を遮った。
「考えておいてくれ」
ぶっきらぼうにそう言うと、フレイヤを追い払うように手を振る。
「さあ、後は俺が見張る。もう休め」
「でも」
「いいから」
キルドラはもうフレイヤの方を見ようとはしなかった。
ゴルルパの血を引く糸のように細い目は、草原の遥かな闇を見つめていた。
「明日一日、予定通りに駆ければレゴウの谷だ。ウルグクに会うときのために体力は残しておけ」
「……分かった」
フレイヤは頷いた。
「ありがとう、キルドラ」
返事はなかった。
木に寄りかかって腕を組むキルドラの二の腕をそっと叩いて、フレイヤは木を離れた。
茂みに屈みこみ、眠っているロイスの隣に横になる。
「……キルドラに、ともに草原で、と誘われましたか」
眠っているとばかり思っていたロイスにそう声を掛けられ、フレイヤは驚く。
「ロイス。起きていたの」
「姫様たちの声が聞こえまして」
「ごめんなさい。声を潜めていたつもりだったのだけど」
「私が過敏になっているだけです」
ロイスは抑えた声で言った。
「お気になさらず」
「……誘われたわ」
フレイヤは正直に認めた。
「全部終わったら、草原で一緒に暮らさないかって」
「何とお答えに」
「何も」
短く伝える。
「キルドラも答えさせてくれなかった」
「そうですか」
ロイスがわずかに身じろぎする。
フレイヤはロイスの次の言葉を待ったが、ロイスはそれ以上何も言わなかった。
「ロイスはどう思う?」
だから、そう聞いてしまった。聞くべきことではないと分かっていたのに。
「私が、その、キルドラと草原で」
「姫様のお心のままに」
ロイスの答えは予想できていたはずだった。ロイスならば、そう答えるに決まっていた。
だが、何のためらいもなく発されたその答えに、何となく突き放されたような気分になる。
「そうよね」
ごめんなさい、と囁いてフレイヤは目を閉じる。
「ですが」
ロイスが不意に言った。
「もしも姫様が騎兵隊を率いてくださるのであれば、それ以上に心強いことはございません」
「えっ」
ロイスとともに騎兵隊を率いる。
それはフレイヤ自身がとっくに諦めた夢だった。
父の夢のため、アステリオ家の未来のために、フレイヤはゴルルパとの戦場ではなく王都を選んだのだ。
だが確かに、王子の婚約者でなくなり、王都での立場も失った今なら、それは不可能な夢ではなかった。
ロイスはその言葉を最後に、今度こそ口をつぐむ。
やがて、微かな寝息が聞こえてきた。
だがフレイヤは、しばらくの間寝付けなかった。




