希望と不安と
三人は馬を真っ直ぐに西へと走らせる。
背後からは、風に乗って微かに高い口笛のような音が聞こえてくる。
先ほどフレイヤたちが討った四人のもとへ、別の巡察隊が駆けつけたのだろう。
音は何度も響いていた。おそらく、これは火急を告げる音。
仲間を呼んでいる。
「気休めかもしれませんが、少しでも先へ」
ロイスが言った。
「行けるところまで行きましょう」
「そうね」
フレイヤは答える。
「レゴウの谷に一歩でも近く」
まだ背後に追手の姿はない。
だが、あれだけの警報が発されている以上、もはやこの草原のどこから敵が現れるか分からなかった。
隠密潜入という当初の計画は、破綻しつつある。
それは認めざるを得ない。
いずれは敵に見付かるかもしれないが、それはもっと谷に近くなってからのはずだったからだ。
しかし、過程にどれだけ狂いが生じようとも目的は果たす。
フレイヤのその意志は揺るがない。
フレイヤの表情に迷いがないことを見てとったロイスは、安心したように前を向いた。
リーダーの意志がぶれなければ、その集団が瓦解することはない。
騎兵隊の幹部として経験を積んできたロイスはそのことを理解していた。
そして、目的を果たすためには、今乗っているこの馬を乗り潰すわけにはいかない。
敵地である草原の真っただ中で馬を失うということは、死を意味するからだ。
「敵が断続的に追ってくるなら、その方が好都合だわ」
フレイヤは言った。
「その都度、敵の馬を奪って進めばいい」
強がりではない。むしろ、そうあってほしいとさえ思っていた。
何十人もの敵をいっぺんにまとめて相手できるとは、さすがのフレイヤも思ってはいない。だが、十人に満たない程度の相手であれば、この三人であればいかようにもできるという自信はあった。
「お前の言葉はいつも明快だな」
先頭を走るキルドラが振り返って笑う。
「こうなった以上は、なるようにしかならん。ならば、難しいことは考えず、前に走ろう」
「ええ」
フレイヤは頷いた。
砂っぽい風を切って、太陽の下を走る。
後ろへと流れていく景色とともに、自分の中の余計なものがまた剥がれ落ちていく感覚があった。
このまま、矢になってしまえればいいのに。
フレイヤは思った。
レゴウの谷のウルグクの胸に真っ直ぐに突き立つ、一本の矢に。
久しぶりに日差しの中を走る開放感に、思わずフレイヤはそんな夢想をしかけたが、すぐに冷静な思考を取り戻す。
けれど、私は人だ。
人の身でゴルルパの大族長のもとにたどり着くには、身体だけでなく頭も絞らなくてはならない。
差し当たっては、余計な奇襲など受けないことだ。
「二人とも、周囲の警戒をお願いするわ。私の目じゃ地平線の彼方のゴルルパは見付けられないから」
「任せておけ」
「承知しました」
言わずもがなのことだった。
キルドラとロイスはとっくに草原の彼方に目を光らせていた。
けれど、フレイヤがそう指示することでばらばらの個々ではなく、集団としての意識が強まる。
指導者の娘として生まれたフレイヤは、そういうことを頭ではなく肌で理解していた。
三人を乗せた馬が、草原を駆け抜ける。
遠くから微かに口笛のような音が聞こえることはあったものの、その日ゴルルパ兵はとうとう姿を見せなかった。
フレイヤたちは途中の水場で小休止を入れながら、馬を潰さぬように慎重に、それでもできる限りの時間を走り続けた。
日が沈むころには、三人の疲労も極限に達していた。
昨夜から戦いを二度もこなし、一睡もせずに草原狼と馬を走らせ続けてきたのだから当然だろう。
夕日の最後の光が地平線の向こうに消える前に、ゴルルパに見付かったあの茂みよりは遥かにましな茂みを見付けた三人は、そこで夜を明かすことに決めた。
草原狼を失った以上、夜間の行動は不可能だ。これからは夜休んで昼に走るしかない。
「ゴルルパとの遭遇戦は想定よりも早かったが、それでも良かったこともある」
キルドラが言った。
「昼夜を分かたずに走ったおかげで、レゴウの谷まではあと一日程度だ」
「雰囲気が変わったものね」
フレイヤにも、人の多い場所に近付いていることは分かっていた。
草原に焚火や野営の跡が多くなってきたからだ。
レゴウの谷に近付いたということ。それはすなわち、敵地の中心に近付いたということでもある。
敵の巡察隊はどこまで迫っているのだろうか。こちらの意図が読めずに見当違いの方向を探し回っているのか、それとも着々と包囲を完成させつつあるのか。
不安は消えないが、夜を迎え静まり返った草原からは、何も読み取れなかった。
「カーク様の陽動が功を奏していることは間違いないでしょう」
ロイスが言った。
「そうでなければ、巡察隊の数がここまで少ないことはあり得ないのですから」
「そうね。きっと兄上のおかげだわ」
フレイヤは認めた。兄カークの、自分の身を囮にした陽動。
兄にしかできない、妹への援護。
「それに、父上の」
フレイヤが父ヴォイドについて口にすると、ロイスは微かに顔を曇らせる。
「目には見えないけれど、父上の影響をまだこの草原のあちらこちらに感じるもの」
「……そうですな」
ロイスは静かに同意した。
「全ての始まりは、大殿が我ら騎兵隊を率いてゴルルパを破ったこと。大殿の輝かしい戦果があったからこそ、ウルグクは若殿の動きを無視できなかったのでしょうから」
「ええ」
フレイヤは大きく頷く。
宿敵ゴルルパたちの中に、王国で最も優れた将だった時の父の姿がまだ鮮やかに生きている。
この草原には、強いままの父がいる。
もうこの世のどこを探してもいない、あの頃の父が。
それがフレイヤには寂しく、そして羨ましかった。
「夜には、ゴルルパどもも慎重になる」
キルドラが言った。
「俺たちが何者なのか、連中はまだ分かっていないだろうからな。最初の巡察隊は夜中に焚火をしているところを襲われ、次の巡察隊は日が昇ってからの移動中を襲われた。襲う目的も不明だ。連中にとってみれば、不気味なはずだ。得体の知れない何かを追いかけている気持ちだろう」
キルドラはにやりと笑う。
「そうであれば、視界の利かない夜中にうろうろすることは避けたいはずだ。昼間、仲間と連携がとれる状態で俺たちを捕捉しようとするだろう」
「確かにそうかもしれないわね」
「キルドラ、自分たちに都合のいい予想というのは、必ず都合の悪い予想と並べて立てるものだ」
顔を輝かせかけたフレイヤを見て、ロイスがそう口を挟んだ。
「死体に残された矢や潜んでいた場所に残る痕跡など、我らの正体を推理する材料はいくらでもある。ゴルルパに鼻の利く人間がいれば、こちらの目的を看破する可能性も十分にある」
「そういえば、二度目の戦いでは馬を奪って逃げることに精一杯で、敵の生死を確かめなかったわ」
フレイヤは言った。
「もしあの中に生き残った人間がいたら、私たちのこともばれていると思う」
「そうだな。生き残りがいれば、少なくとも俺たちがシェナイの人間であることはばれるだろうな」
キルドラは認めた。
「だが、果たしてそこから“ソレータルの夜空”の奪還というところまで発想が飛躍するかな」
そう言うと、キルドラは大きな欠伸をした。
「とにかくここまで丸一昼夜駆けてきたのだ。寝よう。見張りの順番はどうする?」




