離散
三人が身をひそめる、数本の灌木と丈の低い草の茂み。
そこに一騎のゴルルパ兵がゆっくりと近付いてきていた。
だが、外套を頭までかぶりキルドラに抱きすくめられているフレイヤにはそれを見ることができない。
分かるのは、音だけだ。
乾いた地面を蹴る馬の蹄の音が徐々に近づいてくる。
フレイヤを抱くキルドラの腕の力が強まった。
苦しい。
その分厚い胸板を叩いて抗議したかったが、今はそうもいかなかった。
じっとりとした汗。キルドラも緊張しているのだ。
同時にフレイヤは、背後のロイスの緊張をも感じていた。
ロイスはすでに短弓に矢をつがえているはずだ。
あの蹄の音がもう少し大きくなれば、その矢を放つだろう。
だが首尾よく最初の騎兵を射落としたとしても、まだ三人の敵が残っている。それに焚火に向かって集結中のほかの巡察隊も集まってきてしまうはずだ。
厳しい状況だった。
いずれはこんな場面が来るだろうと予想はしていたが、それよりも早かった。
だが、もう覚悟を決めなければならない。
ここでゴルルパ兵と白昼やり合うことになれば、この旅の成功は困難を極めるだろう。
それでも、やり遂げなければならない。
たとえどれだけの犠牲を払ったとしても、アステリオ家とシェナイの人々の誇りの象徴を奪い返すために。
そのとき、不意に蹄の音が止まった。
続けて、その音が徐々に遠ざかっていく。
その意味するところはフレイヤにも分かった。
こちらに向かってきていたゴルルパ騎兵が去っていくのだ。
気付かれなかった。
蹄の音が小さくなっていく。もうかなり離れたようだ。
ゴルルパ兵は茂みを遠くからざっと眺めただけで、ろくに確認もせずに仲間のところへ戻っていったのだ。
何という幸運だろう。
フレイヤはキルドラの腕の中で、ほっと息を吐いた。
「行ったのね」
そう囁いたが、キルドラの返事はなかった。
ロイスも緊張を解いていないのが分かる。
それでフレイヤも慌てて口をつぐんだ。
だが、しばらく妙な沈黙が続いた。
「まだいるの」
耐えきれず、フレイヤがそう囁いた時だった。
甲高い口笛のような音。
それとともに、地面が揺れた。こちらに向かってくる蹄の音。
先ほどよりも明らかに速い。それも一頭や二頭ではない。四頭全部だ。
風を切るあの音は、矢だ。矢を射られている。
「ちっ」
キルドラが舌打ちした。
ぶすり、と地面に矢が突き立つのと同時に、キルドラはフレイヤを庇うように身を起こした。
ようやく視界が開けたフレイヤが身を起こすと、既に起き上がったロイスが敵に応射するところだった。
自身も素早く立ち上がりながら、フレイヤは悟る。
さっきのゴルルパ兵は、自分たちに気付かず去っていったのではない。
自分達がいることに気付き、だからこそ己一人で近付くという愚を避け仲間を呼んだのだと。
「気を付けろフレイヤ」
盾とするにはあまりに頼りない灌木にそれでも身を隠して敵の矢を防ぎながら、キルドラが鋭い声を発する。
「回り込んでくるぞ」
その言葉通り、灌木の陰から応射するロイスとキルドラに対し、四人のゴルルパ騎兵のうち二人が馬を駆り左右から回り込もうとしていた。
囲まれたら、それで一巻の終わりだ。
「右は私が」
フレイヤは素早く弓に矢をつがえる。
「なら左は俺がやる」
キルドラが応じた。
正面の二人の騎兵が仲間を援護するように矢の雨を降らせてくる。
フレイヤは地面に這うように身を低くしてそれをやりすごしながら、自分の射角に敵が入って来るのを待った。
勇気ある者とは、待てる者のことだ。
それはキルドラの父エンドラの言葉だった。
決して妄動することなく、勝機をじっと待つ。そして訪れる一瞬の勝機を決して逃さない。
その精神こそ、アステリオ騎兵の神髄だった。
敵の馬の鼻先が見えた瞬間、フレイヤは矢を放った。
馬上の敵が弾かれたようにのけぞる。その胸にフレイヤの矢が突き立っていた。
そのまま馬から落ちる敵兵を最後まで見届けることなく、フレイヤは次の矢を手に取る。
だがキルドラの援護をしようと振り向いた時には、逆から回り込もうとしたゴルルパ兵もキルドラの矢を首筋に受けて倒れるところだった。
あと二人。
「私が出ます」
ロイスが剣を抜き放った。
「援護を」
そう言いざま、ロイスは飛び出した。
それを待っていたかのように放たれた敵兵の矢が、ロイスの肩と首をかすめていく。
ロイスは剣を構えて敵兵に肉迫していった。だが騎馬相手に徒歩で追いつけるはずもない。敵兵に射すくめられてたちまち危機に陥った。
しかし敵の注意が自分に集まったその状況こそ、黒騎士ロイスの意図した通りであった。
フレイヤとキルドラは示し合わせたように同時に灌木の陰から飛び出した。二人の放った矢が、狙い過たず二人の敵兵を射落とす。
「馬を」
キルドラが叫んだ。
「もう仲間を呼ばれているぞ。馬を逃がすな、捕まえろ」
今の状況では、馬の有無は生死を分ける。
倒れた敵兵の生死も確かめず、三人は主を失った敵の馬を捕まえに走った。
茂みに伏せているときにすでに甲高い口笛のような音を聞いた。
おそらくは、それが仲間を呼ぶ合図だ。
急がなければ、さっき通り過ぎた四人も戻ってくる。
フレイヤとロイスは何とか馬を確保したが、キルドラの捕まえようとした馬は悍馬だったようで、ひどく暴れた。
それでもゴルルパの血を引くキルドラはさすがだった。強引に馬の背に乗ると、跳ね回る馬の手綱を曲芸のようにさばき、目的の方角に向かって駆けさせることに成功した。
「俺の荷物も拾ってくれ」
キルドラはそう叫んだ。
「とにかくここから離れるぞ」
「先に行っていろ」
ロイスがそう答え、自分たちの荷物を拾い上げて馬にまたがる。
「姫様、行きましょう」
「リオたちが戻っていないのよ」
フレイヤは答えた。散っていった三匹の草原狼の姿はどこにも見えない。
「どうしよう」
その表情に、ロイスは一瞬幼い頃の彼女の姿を見た。
どうしよう、ロイス。
泣きながらそう言ってしがみついてきた、あの日の少女の姿を。
大丈夫だ、フレイヤ。俺に任せろ。
思わず幼いころそのままの虚勢を張った言葉がこぼれそうになる。
だがロイスは首を振ってその追憶を振り切った。
「やむを得ません」
そう言ってフレイヤの馬に自分の馬を寄せる。
「ここに留まることはできません。行きましょう」
ロイスはフレイヤの荷物を差し出した。
「我らがいなくなれば、あの三匹は野生に戻るだけのことです。生まれ故郷の草原です、その方が彼らにとってもいい」
フレイヤは差し出された荷物を見る。
一瞬の躊躇。
その後で、フレイヤはそれを受け取った。
「そうね」
そう言って頷く。
それしかない。ここに留まることは死を意味するのだ。
ごめんなさい。
心の中でリオたち兄弟に謝る。
好き勝手に使ったくせに、あなたたちとはここでお別れするしかない。私はひどい人間だわ。
自嘲めいた独白は、すぐにフレイヤの強い意志に上書きされた。
それでも私には取り戻さなければならないものがある。
全てを捨ててでも、それを取り戻すと誓ったから。
「行きましょう」
フレイヤは馬首を巡らし、キルドラの後を追うように駆けた。
その後ろからロイスが続く。
残酷なほどに眩しい太陽が、草原を駆ける三人をくっきりと照らし出していた。




