誤算
焚火の炎の照らす中、フレイヤたち三人は黙々と動く。
ゴルルパ兵たちの荷物を探ったが、目ぼしいものは見当たらなかった。
四人の遺骸だけは隠そうかと思ったのだが、乾季の草原にはそう都合のいい場所などあるはずもなく、地中に埋めようにも乾ききった地面は石のように硬かった。
結局、ゴルルパ兵の遺骸もそのままに三人は出発した。
仕方ない。仮に隠しおおせたとしても、巡察隊一隊が丸ごと消えたのだ。いずれは露見するだろう。
フレイヤはそう自分を納得させた。
それでも、ウルグクが目指すレゴウの谷にいるという情報は、三人に力を与えた。
「このまままっすぐに行きましょう」
フレイヤたちは夜通し草原を駆けた。
しかしやはり戦いの後始末に時間をかけてしまったことが響き、行程の遅れは避けられなかった。
朝日が昇る頃になっても、目的の水場にはたどり着けなかったのだ。
視界を遮るものの何もない剥き出しの平原で露営するわけにはいかない。
広い草原のどこから見られているか分からない。
「走りましょう」
フレイヤは言った。
「明るくなってしまったけれど、もう少し」
その方がまだましだった。
仮に遠くから見られたとしても、草原狼の背に人が乗っているとは遠目には思うまい。
身を低く伏せた三人を乗せ、三匹の草原狼は朝日の下を走った。
「やはりさっきの茂みで止まっておくべきでしたか」
ロイスが申し訳なさそうに言う。
「判断を誤りました」
「いいのよ」
フレイヤは答える。
「あそこじゃ近すぎる」
ロイスの言う茂みを過ぎたのは、もうだいぶ前のことだ。
もう少し進みましょう、と言ったのは確かにロイスだったが、そこは巡察隊を屠った場所からあまりにも近すぎた。ゴルルパの仲間が彼らを探しに来る可能性を考えれば、フレイヤもとてもそんなところで休む気にはなれなかった。
ならば、少しでも先へ。
目的地たるレゴウの谷まで一歩でも近い場所へ。
「ごめんね、リオ」
フレイヤは騎乗する草原狼の耳元で囁く。
「もう少しだけ、頑張って」
一晩、ほとんど休むことなく駆けているのだ。
それでもフレイヤの乗るリオの速度はほとんど変わらないが、その後ろを走る弟のエルとライには疲れの色が見え始めていた。
ここで無理をさせて彼らを失ってしまえば元も子もない。
「キルドラ」
フレイヤは浅黒い肌のゴルルパ人を振り返る。
「次の水場までは、どれくらい」
「まだかかる」
ライの背に伏せたまま周囲の地形を念入りに眺めていたキルドラは、そう答えた。
「どこか小さな茂みでもいい。見付けたらそこで休んだ方がいい」
「分かった」
フレイヤは頷く。
だがしばらく走っても、乾いた草原には彼らが身を隠すだけの茂みは見当たらなかった。
「くそ」
キルドラが吐き捨てる。
「本当はこの辺りにはまだ茂みが残ってるはずなんだ。今年の乾季はいつもよりも乾いている」
「天のなさることを嘆いても仕方ないわ」
フレイヤは前を向いたまま言う。
「私たちは私たちの最善を尽くしましょう」
とはいえ、それは今のところ草原狼たちの脚に期待するということでしかなかったのだが。
前方に、数本の灌木とわずかな茂みが見えた。
大人三人が身を隠すにはあまりに心細い場所だった。
「さすがにここじゃだめね」
フレイヤがそう言うと、思いがけずロイスが「いえ」と言った。
「ここで休みましょう」
「でも」
「ゴルルパが近付いています」
「えっ」
フレイヤは慌てて周囲を見回す。
だが、彼女の目には何も見えない。
「おそらく、俺たちが殺した巡察隊の誰かが他の巡察隊に合図を送ったんだ」
キルドラが言った。
「そうでもなきゃ、考えられねえ早さだ」
「そんな」
フレイヤは襲撃の時のゴルルパ兵たちの様子を思い出す。
全員がとっさに逃げ出そうとすることで精一杯だったはずだ。
遥か遠く離れた他の巡察隊に合図など送れたはずがない。
「とにかく、これ以上は危険だ」
キルドラは言った。
「フレイヤ。ここで止まろう」
「分かったわ」
判断の遅れは即、死につながる。
フレイヤは草原狼の首元の分厚い毛皮を掴み、走るのを止めた。
リオから下りると、そのまま茂みに転がり込み身体を伏せる。
同様にロイスとキルドラが茂みに飛び込んできて、フレイヤを挟むようにして身を寄せた。
「姫様、外套に身を埋めてください」
ロイスが囁く。
「敵は向こうから来ます」
地面に耳をぴったりと付けたキルドラは細い目をわずかに見開く。
「多いな。馬が七頭か八頭はいるぞ」
キルドラに倣って、フレイヤも耳を地面に付けてみる。
確かに馬の蹄が地面を蹴る振動が、遠くの方から微かに感じられた。だが、それが何頭なのかまではフレイヤには分からない。
三人を下ろして身軽になった草原狼たちが風のように走り去っていく。
その灰色の背を見送ったフレイヤは息を殺したまま周囲の様子を窺った。
まだ敵の姿は見えない。
「逃げ出そうとした時にひとり、焚火に小さな袋を放り込んだやつがいた」
押し殺した声で、キルドラが言った。
「おそらくそれが焼けることで炎から何かの匂いが出たのだろう」
「そんな些細なことで」
風に乗る、ごく微かな匂い。
それによって仲間の危険を察知して、この広い草原のかなたから集まってきたというのか。
さすがにゴルルパはこの草原の民だった。
「だが、俺たちは奴らの目的地から相当離れている」
キルドラは目だけをフレイヤに向けた。
「やり過ごせばいいだけだ」
その通りだ。ここは彼らの目的地ではない。
あくまでもゴルルパたちは、昨夜の焚火の場所へ向かっている途中のはずだ。
最初に見つけた茂みで止まっていれば、おそらくは集まってきたゴルルパ兵とやり合うことになっただろう。
乾季に隠れられる場所などわずかしかなく、そして彼らはその一つ一つを熟知している。
そのときフレイヤたちが相手にせねばならない敵の数は、八人などというものではなかったはずだ。
「ロイス。あなたの判断、正しかったわ」
フレイヤの言葉に、ロイスは小さく頷いた。
やがて、地平線の向こうからゴルルパ騎兵が姿を見せた。
四人で一団となった騎兵たちは、フレイヤたちの潜む茂みなど一顧だにすることなく走り去っていく。
「いいぞ」
キルドラが呟く。
「やはり、仲間の焚火へ向かうのが最優先だ。襲撃者がこんなところまで来ているとは思うまい」
「ええ、そうね」
フレイヤも彼らの動きから目を離すことなく返事をした。
前へ。一歩でも目的地の近くへ。
やはりその考えは間違っていなかった。
正解は、いつも前にしかない。
やがてその一隊が見えなくなった頃、違う方向から別の一隊が姿を見せた。
こちらも四人だったが、最初の隊と違い、四人がばらばらとまとまりなく駆けてきた。
「む」
ロイスが低く唸る。
「よくないな」
その意味は、フレイヤにも分かった。
この四人は急いでいない。
先ほどの隊とは明らかに違う。
それは目的地に向かうことを最優先にはしていない人間の動きだった。
「まずい」
ロイスが呟く。
ゴルルパの一騎が、不意に馬首をこちらに向けたのだ。
一応、あそこの茂みも覗いてくるか。
そんな風情でゆっくりと近付いてくる。
ここで見つかるのは最悪だった。
逃げようにも、草原狼たちは夜まで戻ってこない。
「身を寄せろ、フレイヤ」
キルドラが腕を伸ばし、自分の方にフレイヤを引き寄せた。
「俺の外套の中に入れ」
「ちょっと…!」
反射的に抵抗しようとしたが、キルドラの力は強かった。
「もっと寄れ」
キルドラはフレイヤを抱き締めるようにぴったりと密着する。
フレイヤはキルドラの逞しい胸板に頬を押し付ける形になって、身を硬くした。
背を向ける格好になってしまったロイスがどういう顔をしているのか分からない。
キルドラの鼓動が聞こえる。自分の鼓動もひどく大きくなっているのが分かる。
背後でロイスがごくわずかに身じろぎした。
「ぎりぎりまで待て」
キルドラのその言葉でフレイヤは、ロイスが地に伏せたまま弓を構えたのだということが分かった。




