旅
新月の夜。
フレイヤはロイスとキルドラとともに、三匹の草原狼を駆ってシェナイの街を出た。
周囲に広がる農地を過ぎ、その外の世界へ。
闇夜の中を、草原狼たちは迷うことなく駆けた。
フレイヤたちが導かずとも、どちらに向かえば彼らの生まれ故郷たる草原に出るのか、その野生の四肢が知っているかのようだった。
街を離れて、どれくらい走っただろうか。
フレイヤの鼻が、皮膚が、不意にその匂いと肌触りを捉えた。
ああ、草原だ。
フレイヤは思った。
ゴルルパの大草原。
それは父とともに駆け抜けた、フレイヤの青春のありか。
そしてフレイヤの傍らには、いつもこの二人がいてくれた。
ロイスと、キルドラ。
今ではすっかりたくましく成長した、この男たちが。
まるで彼女の心を読んだかのように、後ろを走るキルドラが声をかけてくる。
「草原だぞ、じゃじゃ馬姫様」
「ええ、草原に出たわね」
フレイヤは答えた。その声が弾んでいるのが自分でも分かった。
「フレイヤ、背中が嬉しそうだな」
「分かる?」
「ああ、この闇夜でもはっきりと分かるぞ」
キルドラの声も笑いを含んでいた。
「やはりお前の生きる場所はここなのだ、王都などではなく」
「そうかもしれないわね」
フレイヤは闇の中で薄く微笑む。
「私にはこの風が心地いいわ」
私は、ここで生きる。
改めて、そう思った。
たとえ戻ろうと思ったとて、もはや王都に私の居場所などない。
第二王子に婚約を破棄された落ち目の辺境貴族の令嬢がどこに嫁ごうと、そこにもう父と義母の望んだ栄誉がついてくることはないのだから。
それならば、この地で。この草原で。
愛する土地で、愛する人々と。
それは嬉しくもあり、哀しくもある感覚。
私は父の望みを果たせなかった。
「キルドラ」
幼馴染のロイスはさすがだった。彼はフレイヤの声に混じった微かな湿り気に気付いていた。
「要らんことを言っていないで、方角を誤らぬことに集中しろ。お前の記憶が頼りなのだぞ」
硬い言葉でさりげなく話題を変える。
「ああ、分かってるさ」
キルドラの口調はあくまで軽かった。
「だが、この草原狼どもは賢いぞ。まるで俺たちの行く先を知っているかのように澱みなく走る」
草原狼は肉食ゆえに、走るために生まれた生き物のような馬ほどに長い距離を休むことなく走れはしなかった。
だからフレイヤたちは途中で幾度かの小休止を入れつつ、それでも東の空が白み始める前には最初の目的地である岩場に着いた。
三人を下ろした草原狼たちは、ふらりとその場から姿を消す。
「いいのか」
ロイスがキルドラを振り返る。
「夜には戻って来るさ」
キルドラは心配する素振りも見せずに言った。
「フレイヤを主と認めたんだ。勝手な真似はしない」
「そういうものか」
それでもロイスはまだ気がかりなようで、草原狼たちの去っていった方を見ている。
「さあ、私たちも休みましょう」
フレイヤは言った。
「また一晩中走らないといけないんだから」
簡単な携行食を口にした後で、フレイヤたちは岩場の陰に横になる。
草原で目立たないくすんだ緑色の外套を毛布がわりに、三人は交替で眠った。
まだ草原に入ったばかりのこんなところでゴルルパ兵に出くわす可能性は限りなく低かったが、それでも警戒は怠らなかった。
そうして夜になると、三匹の草原狼たちはどこからか戻ってきた。
闇の中を、フレイヤたちは西に向かってひた走った。
それから三日。
旅は順調に推移していた。
おそらくあと四日も走ればレゴウの谷にたどり着くことができるはずだ。
これまでのところ、フレイヤたちは一人のゴルルパ兵の姿も目にしていなかった。
カークの陽動によってその兵力が北に移動しているからなのか。それは定かではなかったが、フレイヤたちにとってはありがたいことだった。
四日目の昼間。
乾季の草原にわずかに残った林の中に身をひそめて眠っていたフレイヤは、ふと目覚めた。木々の枝の向こうに見える太陽はだいぶ傾いていたが、まだ草原狼たちの姿はない。
もう少し眠ろうかしら。
そう思ったが、傍らにはキルドラとロイスの姿もなかった。
この時間は、ロイスの見張りの時間のはず。
何か異変だろうか。
身を起こして耳を澄ましたフレイヤは、背後の木の陰から二人の男の低い囁き声が聞こえてくることに気付く。
物音を立てないようにそっと立ち上がると木に近付き、その陰に身を寄せた。
声の主は、ロイスとキルドラだった。
フレイヤに背を向けて座る二人の姿がちらりと見えた。
何の話だろう、と思ったが、キルドラが低く笑うのが聞こえて、フレイヤは安心する。
穏やかな、くだけた感じの笑いだった。
キルドラがそんな風に笑う相手は、そう多くはない。
心配はなさそうだわ。もう少し眠ろう。
そう思って、木の陰を離れようとした時だった。
「フレイヤは」
不意にキルドラが自分の名を口にしたので、フレイヤはどきりとする。
「大した女だ。あいつが一番、親父の血を受け継いでるんだろうな」
「ヴォイドさまの血か」
それに答えるロイスの声。
「臣下の身でそんなことを言うのも不遜ではあるが、まあそうだろうな。フレイヤさまの勇敢さは大殿譲りであろう」
「ただの勇敢さではない」
キルドラが言う。
「火急の時に周囲が驚くような勇気を発揮する人間というのは、案外いるものだ。なにせ生命の危機が迫っているからな。そういう時に自分でも思ってもみない馬鹿力が出るようにできているのは、人も獣も変わらん」
「姫様を獣と同じだと言うのか」
「違う。最後まで聞け」
苦々しいキルドラの声。
「いざという時に、後先考えずに勇気を発揮する人間は珍しくないと言っているんだ。だがフレイヤは違う。あいつの勇気は、冷静さとともにある。ゴルルパの懐に三人で飛び込んで宝を奪還しようなどという計画を冷静に立てて、それを実行してしまう勇気だ。怖気づく時間は腐るほどあったのに、あいつは怖気づかなかった」
「ふむ」
ロイスの身じろぎする音がした。
「なるほどな。確かにお前の言う通り、姫様の勇敢さは兵卒のものではない。一軍の将たるに相応しい勇気といえる」
「だが、兵卒の勇気も捨てきれぬのがあいつの面白いところだ」
キルドラの声に揶揄するような響きが混じる。
「幼い頃、あいつと一緒に馬を走らせていたとき、あいつは俺に負けるのが大嫌いだった。自分は真っ先に、誰よりも先頭で駆け抜けるのだと言ってな。それはお前の役目ではない、と俺の親父によく叱られていた」
フレイヤ。一番槍が欲しいか。だがそれはお前の役目ではない。
キルドラの父、エンドラのその言葉を、フレイヤは今でも口ぶりまではっきりと思い出すことができた。
かつて、ヴォイド率いるシェナイ軍とゴルルパ軍との戦いで、ゴルルパの部将だったエンドラは逃げ遅れた兵士たちを逃がすために殿に残ると、獅子奮迅の働きで仲間の逃げる時間を稼ぎ、その後で力尽きヴォイドに捕らえられた。
エンドラの勇敢さに打たれたヴォイドは、彼を客将として扱い、その騎兵技術について教えを乞うた。
ヴォイドの態度に感じるものがあったエンドラも、自身がヴォイドの臣下ではないという立場をはっきりさせた上で、ヴォイドの悲願、騎兵隊創設に手を貸したのだ。
だからエンドラは、そして彼の息子キルドラも、シェナイの姫であるフレイヤに対して遠慮はしなかった。キルドラがフレイヤを呼び捨てにするのも、そのためだ。
ごく幼い時のロイスを除いて、フレイヤと対等に付き合ってくれた男はキルドラしかいなかった。
「ロイス、お前フレイヤのことをどう思っている」
フレイヤがエンドラの言葉を思い起こしているうちに、急に二人の話の方向が変わる。
えっ?
聞いてはいけないと思いつつ、フレイヤはそれでもその場を離れることができなかった。
「どう思っている、とはどういうことだ」
憮然としたようなロイスの声。
「姫様は姫様だ。私の仕えるお方の一人」
「いつまでも、ぬるいことを言っている」
キルドラが笑った。フレイヤには、皮肉めいたその表情までもが目に見えるようだった。
「手に届かぬ所へ行ってしまったと思っていた珠が掌中に戻ってきたのだぞ。バカ王子との婚約が破棄され、もうフレイヤは自由の身だ。“ソレータルの夜空”を取り戻したら、俺はフレイヤを連れて草原で暮らすぞ」
「なんだと」
「声がでかい。フレイヤが起きる」
大きな声を出したロイスを、キルドラが制止する。
「フレイヤは街で暮らすのに不向きな女だ。俺には分かる」
「勝手なことを言うな。姫様のお気持ちも考えずに」
押し殺したロイスの声。そこに怒気が含まれていた。だがキルドラの飄々とした口調に変化はない。
「それなら聞いてみればいいのだろう、本人に」
「おい、まさか」
「心配するな、今聞くことではない。それくらいは俺もわきまえているさ」
キルドラが立ち上がる音。フレイヤは慌てて木の陰を離れ、横になって外套をかぶる。
「今はあいつの望みを果たすことが第一だ」
「当然だ」
ロイスの声はもう冷静さを取り戻していた。
「ここはすでに敵の只中なのだぞ。余計なことを考えていたら、取り返しのつかぬことになる」
「黒騎士ロイスは己を律する立派な戦士だな」
揶揄するようなキルドラの声。
「だが、それもほどほどにな。後れを取る原因ともなるぞ」
その言葉に返答はなかった。
フレイヤは外套の下でそっと自分の頬に手を当ててみる。
熱い。
きっと、顔は真っ赤になっているだろう。
目を閉じてみるが、もう今日は眠れそうになかった。




