下命
ロイスの予想通り、一度フレイヤを認めた草原狼たちは、三人をその背に乗せることを拒まなかった。
太陽の古名リオと付けられた最も大きい草原狼にならって、それよりもわずかに小さな二匹の弟は月、星と名付けられた。
その日はさすがのフレイヤも精根尽き果てて休まざるを得なかったが、翌日の夜からロイスとキルドラとともに練兵場で騎乗の練習を始めた。
最も大きなリオは、フレイヤしか乗ることを許さなかった。エルがロイスを、ライがキルドラを乗せたが、大柄な彼らを乗せても草原狼たちは俊敏に駆けた。
その間にも、月は満ち、やがて欠けた。
いよいよ、出発の日が近付いていた。
「出立の準備は順調に進んでいるか」
ある日の執務室。
フレイヤを呼んだカークはそう言って、妹の顔色を確かめるように見た。
「蝙蝠のような生活をしているそうだな」
「ええ、新月の日には出発しようと思っております」
フレイヤは答えた。
「草原に入れば、夜に駆け昼に休む生活になります。今から慣れておきませぬと」
「そうか」
カークは頷いた後で、窓の外に目を向ける。
「情報はうまく流れている。ゴルルパの方でもこちらの動きに警戒をしているようだ」
「それは何よりです」
フレイヤは言った。
情報はあくまで情報だ。ゴルルパがどこまでそれに拘泥するかは未知数だった。
あまり大きな期待はしていなかったが、警戒しているのであれば朗報といえた。
「警戒をするということは、やましいことがあるということだ」
カークはそう言って、ふん、と鼻を鳴らす。
「ゴルルパめ、語るに落ちたな。自分たちが賊だと自白しているようなものだ」
「ええ。その方が助かります」
フレイヤは微笑んだ。
「ウルグクのところまで行っておいて、結局私たちの勘違いで賊は全く別にいたなんてことになったら困りますもの」
「万が一、そうなった時はどうする」
不意にカークが心配そうな顔でフレイヤを見る。
「お前たちが首尾よくウルグクのところまでたどり着いたはいいが、ウルグクの方では何の話だかまるで分からん、というような事態になったら」
思わずフレイヤは苦笑した。
本当にこの兄は、真面目で心配性なのだ。
「その時はウルグクに、お互いの友好を確かめるために忍んできた、とでも言っておきます。その後で王都で覚えた舞でも披露してまいります」
フレイヤの言葉にカークは目を瞬かせた。それからため息とともに首を振る。
「私にはとてもそんな発想は出ない。本当にお前は、父上の娘だな」
「私は行き当たりばったりなだけです」
兄の買いかぶりに、フレイヤは苦笑した。
「予想外のことが起きても、どうせどうにかなるだろうと良い方に考えてしまうのです」
「私は逆だ」
カークは暗い顔で言う。
「物事がどんなに順調に進んでいても、どうせ今だけだ、きっといずれ困ったことになる、と思ってしまう。それで鬱々として楽しめぬ」
「我ら兄妹は、二人で一つということですね」
フレイヤは冗談めかして微笑んだ。
「父上と母上から、それぞれに極端なところを受け継いでしまったのでしょう」
「逆であればよかったのにな」
カークは未練がましい顔で、また以前と同じことを言った。
それから自分でもそのことに気付いたのだろう、咳払いとともに表情を改める。
「とはいえ、生まれ落ちた以上は己の生を全うするしかない。フレイヤ、私は軍を実際に動かすぞ。北の国境まで進める」
「国境まででございますか」
フレイヤは驚いて訊き返した。
軍が北から攻め込むような気配を見せてほしい、とカークに頼んだのはフレイヤだ。だが、実際に攻め込んでくれ、とまでは言っていない。
「兄上、早まったことはなさりませぬよう」
フレイヤは言った。
「このところのゴルルパの襲撃は、全て少人数で行われているのでしょう」
「うむ」
「なぜ少人数なのかと言えば、父上とウルグクとの間で誓約が交わされた以上は、ゴルルパとしても堂々と軍を編成してシェナイを襲撃できないからにほかなりません。それなのに、こちらから軍を動かすということは、ゴルルパに誓約を破る良い口実を与えるようなものではありませぬか」
真面目な兄のことだ。妹だけに任せることなく己の役割を果たそうと、前のめりになっているのではないか。
フレイヤはそれを危惧していた。
だがカークはそんな妹をじっと見つめ返した後、静かに言った。
「フレイヤ。私とて、もう三年以上この城の主を務めてきた男だぞ。ゴルルパの空気を感じることにかけては、お前よりも経験がある。その程度のことを考えないと思ったか」
「では」
「情報だけでは、ゴルルパは本気で動かん」
カークは言った。
「ゴルルパは、我らシェナイの民が自分たちよりも遥かに誓約を重視するということを知っている。だから、実際に軍を北に動かしてこそ、初めて流した情報に信憑性が出る。それでこそ、南に大きな隙が生まれる」
カークはきっぱりと言った。
その自信に満ちた言葉に、フレイヤは自分が兄の力量を見誤っていたことを知る。
「新月は四日後だ。出発は見送れんぞ。二日後には私が先陣を率いてここを発つからな」
「兄上自らがですか」
「そうだ。私こそが釣り餌なのだ」
カークは両腕を広げた。
「私でウルグクを釣るのだ。憎きヴォイドの息子、己の実力も知らずにのこのこと軍を率いてきた不肖の二代目の名で」
自嘲めいた言葉。だがカークの声に、己を卑下する響きは全くなかった。それこそが己の役割であると、この生真面目な兄は知っているからだ。フレイヤは返すべき言葉を失う。
「お前たちの武運を祈っている」
カークは静かに言った。
「もしもお前たちが武運拙く失敗した時は、私はそのまま北からゴルルパに攻め込む。お前たちの仇は取るゆえ、心配せずに思う存分やれ」
そう言った後で、不意にいつもの気弱そうな素顔を覗かせる。
「だが、そうならぬことを願っているぞ。なにせ私には父上のような軍才もお前のような度胸もないのだから」
「兄上が心配症であることは存じております」
ようやくフレイヤは答えた。
「それにその生真面目な性格も」
そう言って、兄の顔を見上げる。
「けれど、私は今までに一度たりとも兄上のことを臆病だなどと思ったことはありません」
それはフレイヤの本心だった。
父のような、他を圧する猛々しい勇敢さとは違う。けれど、兄には兄の勇気があった。
「兄上は勇敢なお方です」
「私がか」
カークは意外そうな顔で言うと、照れたように笑う。
「お前にそのようなことを言われようとは。しっかりと送り出すつもりが、逆に良い餞をもらってしまった」
「本当にそう思っております」
「分かった、もういい」
カークは手を振ると、それから城主代理らしい厳粛な表情を作った。
「兄妹の会話はここまでだ、フレイヤ」
その言葉にフレイヤも兄の言わんとすることを察する。
「はい」
静かに二歩下がり、兄の顔を見た。
「フレイヤよ、城主ヴォイド・アステリオに代わって、その正当な代理人たるカーク・アステリオの名において命ずる」
カークの声は、普段の彼とは別人のような威厳をまとっていた。
「ゴルルパの族長ウルグクの手から、我らアステリオ家の誇り“ソレータルの夜空”を奪い返してくるのだ」
「はい」
フレイヤはその場にひざまずき、頭を垂れた。
これが父上ご自身の命令であったならば、私も兄もどんなにか頼もしかったことか。
けれどもうあの頃の父はいない。
それでもまだ、私たちには家名がある。
王国の西、シェナイを守る誇り高き一族の家名が。
「アステリオの名に懸けて、必ずや」
フレイヤは言った。
この戦いには、アステリオ家の存続とシェナイの人々の誇りがかかっている。
決して負けるわけにはいかない。




