草原狼
草原に生きる者たちにとって、不倶戴天の天敵であり、仰ぎ見る崇敬の対象でもある特別な獣。
それが草原狼だった。
灰色の毛皮を持ち、家族単位の小さな群れで生きる彼らは、草原のどんな獣よりも賢く、獰猛だった。
ゴルルパは、家畜ばかりか子供や、時には大の大人さえもその牙に掛ける草原狼の恐ろしさをよく知っている。恐るべき敵として憎んでいるのと同時に、その強さに憧憬を抱いている。
だからこそ、草原狼の図案を自分たちの旗印にするようなこともするのだ。
今、フレイヤたちの目の前にいる、檻の中に入れられた草原狼は、彼女が今までに見たどんな草原狼よりも大きかった。
檻の奥に、それよりもわずかに小さい二匹の狼が控えているのが見えた。
「親子か?」
「いや、兄弟だ」
フレイヤたちの後からテントに入ってきた行商人の男が、ロイスの言葉をそう訂正した。
「最初は、奥にいる小さいのが俺たちの罠にかかったんだ。捕まえようとしたら、もう一匹の弟を引き連れてこいつが現れた」
そう言って、低く唸る一番大きな草原狼を指差す。
「こいつはまるで災厄みたいな狼だった。こうして捕まえるのに、うちの若いのが五人も命を落としたんだ。とんでもないやつだぜ」
話を大げさに盛るのが常套手段の行商人の言うことに、どこまで信憑性があるかは分からなかったが、フレイヤもその狼の放つ野性の殺気に、ただならぬものを感じていた。
「……キルドラ」
フレイヤはゴルルパの血を引く青年を振り返る。
「私たちにこの草原狼を見せて、それでどうしようというの」
小声で囁くと、キルドラは行商人に片手を挙げた。
「すまん、ちょっと外で話してくる」
そう断った後で、キルドラは二人を伴ってテントの外に出た。
「馬ではだめだ」
他の者に聞かれる恐れのない場所までフレイヤたちを連れていくと、キルドラは言った。
「俺もあれから色々と考えたが、やはり馬ではどうしても成功する気がしない。どんな駿馬に乗っていようが、旅で疲れていれば本来の力は発揮できないからだ。ゴルルパの駆る元気な馬に、必ず追いつかれる」
「だから見付からないように、夜に動こうって言ったじゃない」
フレイヤは言ったが、キルドラはやはり首を振る。
「夜だけ走るにしてもだ。夜にゴルルパが決して動かないわけではない。お前は星の見える乾季の夜なら走りやすいと言ったが、それは逆に言えば、相手からも見つかる可能性が十分にあるということだろう。一度見つかったら、地形を熟知しているのは向こうの方だ。決して逃げ切れない」
「それなら、どうしようというの」
フレイヤは言った。
「まさか、歩いていくなんて言わないわよね」
「見ただろう」
キルドラはテントの方を顎でしゃくった。
「ちょうど三匹。あいつらに乗っていく」
「え?」
「なっ」
絶句するフレイヤとロイスを尻目に、キルドラは草原狼の利点をつらつらと挙げる。
「草原狼は夜目が利く。しかも馬にとっては恐怖の対象だ。馬はあいつらに決して近寄らない。遠くから気配を感じただけで、そちらへ行くのを嫌がるほどだ。ゴルルパの騎兵も、わざわざ夜の闇の中で嫌がる馬を駆って草原狼を相手にしようとは思わない」
「待って。待って、キルドラ」
フレイヤはキルドラを押しとどめた。
「そもそも草原狼って人を乗せるの?」
「ああ。馬ほど従順ではないが」
キルドラは答える。
「自分が認めた者ならば、その背に乗せることを厭わないそうだ」
「人を乗せた実例があるのか」
ロイスが険しい顔で言った。
「私もおとぎ話でなら聞いたことはあるが、実際に見たことはないぞ」
「俺も見たことはない」
キルドラはあっさりとそう認めた。
「だが、親父は見たことがあると言っていた」
「エンドラさまが、か」
「ゴルルパでは、草原狼の乗り手に選ばれることは最大の栄誉なのだと」
「でも、私たちの戦ったゴルルパにはいなかったじゃない」
フレイヤが口を挟む。
「草原狼に乗った騎兵なんて、ただの一人も」
「それはそうだろう」
キルドラは肩をすくめた。
「馬に乗った兵士の中に、一人だけ狼に乗った兵士がいてみろ。周りの馬がみんなそいつから逃げようと暴れ出すに決まっている。部隊として成り立たない」
「それは、確かにそうね」
その光景を想像して、フレイヤは頷く。
「それなら単騎でしか使えないことになる」
「ならば、戦いでは役に立たんということですか」
ロイスが嘆息した。
「それではゴルルパどもも、積極的に乗ろうという気にもならないだろうな」
「だが、今の状況では役に立つ」
キルドラは言った。
「もう一度利点を挙げていこうか。ゴルルパの警戒を潜り抜けるのに、これ以上にうってつけの騎馬代わりがいるか」
それには同意せざるを得ないと理解はしていたのだろう、ロイスは難しい顔で黙り込んだ。
代わりにフレイヤがキルドラに尋ねる。
「草原狼は自分が認めた者なら背に乗せるって言ったわよね」
「ああ」
「それって、あの草原狼の飼い主になればいいってこと?」
「違うな」
キルドラは首を振る。
「餌を与えられても、草原狼は決して人に懐くことはない。そもそも狼とはそういう獣だ」
「それじゃあゴルルパはどうやって認めさせているの」
「方法についてまでは、親父も話していなかった」
キルドラがあっさりと言い、ロイスがそれに顔をしかめて何か言いかけるのを、フレイヤは手で制した。
「自分で考えなきゃいけないってことね」
うつむいてしばらく思案した後で、フレイヤは顔を上げた。
「もう一度、彼らを見せて」
「じっくりと見ろ」
キルドラは答える。
「あれほどの草原狼には、滅多にお目にかかれないはずだ」
三人はもう一度テントに戻り、三匹の草原狼とじっくり向き合った。
フレイヤは最も大きな兄狼から目を離さなかった。
長いことそうしていたが、やがてフレイヤはロイスを呼び、耳打ちした。
「分かりました」
頷いたロイスは商人を呼ぶ。
「主人、三匹とも買おう。いくらになる」
商人が口にした金額は相当に高かったが、フレイヤは頷いた。
領主の娘である彼女には、出せない金額ではなかった。
「それでは、金を用意してまた来る」
ロイスは商人に言った。
「それまで、他に売らぬようにしてくれ」
「いつまで待てばいい」
「すぐだ」
不愛想な商人の問いに、ロイスは冷たい口調で答える。
「明日には、引き取りに来る」
「何か掴めたのか」
帰り道、キルドラは前を走るフレイヤにそう声をかけた。
「草原狼に自分を認めさせる方法が」
「まだはっきりとは分からない」
フレイヤは率直に認める。
「でも彼らはお互いに、自分たちが三匹で一つの命だと思っていることは分かった」
兄も二匹の弟も、決して離れることなく生き抜くのだという強い意志。狼の目から、フレイヤはそれを感じていた。
「そこが気に入ったわ」
「三匹で一つの命、か」
キルドラは薄く笑う。
「面白いことを言うな」
「どう認めさせるかはともかく、相手にするのはあの一番大きな狼だけでよさそうだな」
ロイスがキルドラに言った。
「他の二匹は、兄が認めたならそれに従うだろう」
「お前にしては正しいことを言うじゃないか、ロイス」
「私はいつも、お前よりもよほど正しいことを言っている」
そう言い返した後で、ロイスはフレイヤに顔を向けた。
「姫様、買い取った草原狼はどこに」
「練兵場の一部を区切ってほしいの」
フレイヤは答える。
「彼らが逃げないように、高くて頑丈な柵で囲んで。そこでもう一度彼らと向き合ってみたい」
「分かりました」
すでにロイスは頭の中で、柵の調達や狼の世話役のこと、餌にかかる費用など、諸々を考え始めていた。
「早急に手配します」
「苦労を掛けるわね、ロイス」
フレイヤが言うと、ロイスは我に返ったように微笑んだ。
「何をおっしゃいます」
そう言って首を振る。
「雑事は私が手配します。姫様はあの草原狼にどう我々を認めさせるのか、その方法をお考え下さい。私にはうまい考えはまるで思いつきませぬゆえ」




