婚約破棄
「フレイヤ・アステリオ。私は本日をもって、そなたとの婚約を破棄する」
王宮で定期的に開かれる、華やかなパーティ。
しかしその日の宴席には、穏やかならぬ声が響き渡った。
言葉の主であるシャーバード王国第二王子エルスタークの、アステリオ家令嬢フレイヤを見る目は、どこまでも冷たかった。
満座の注目を浴びながら、フレイヤは今までの己の努力が全てふいになったことを悟っていた。
「婚約を破棄、でございますか」
それでもかすれた声で、フレイヤはそう答える。
「それはいったい」
なぜ、と問おうとした。理由などフレイヤ自身、百も承知だった。しかし、やはりそれでも聞かずにはおれなかった。
「理由は、そなたの方がよく承知であろう」
エルスタークの答えは、にべもなかった。
「そなたと結婚することに、もはや何の意味もないからだ」
フレイヤを見下ろすエルスタークの、冷たい目。
それを見ると自分の心までが、氷水に浸けられたかのように冷えていく。
元々、これが愛のない結婚となることはフレイヤも承知の上だった。
フレイヤには父ヴォイドの数々の失敗を埋め合わせて傾きかけた家を立て直す使命があったし、エルスタークにも彼女と結婚することによってしか得られない特別な利益があった。
王侯貴族の多くがそうするように、彼らも沢山のしがらみと利害関係の上でこの結婚を決めたのだ。
自分という女を望まれたわけではないし、フレイヤもエルスタークという男を望んだわけではなかった。
だが、それでも夫婦となれば子を生し、これからの一生をともに歩いていかねばならぬ。
懸命に愛そう。そうすれば、きっと利害を超えたところに本当の愛情が生まれるはずだ。
フレイヤはそう思っていた。
しかし、不安定な土台の上に危ういバランスで成り立っていた利害の天秤は、結婚が間近に迫ったこの時期に、虚しくも崩れてしまった。
先日、王都にもたらされたあの一報によって。
「賊に奪われたからでございますか」
フレイヤは言った。
「“ソレータルの夜空”が」
その名を口にすると、エルスタークの端正な顔が微かに歪む。
「言うまでもあるまい」
エルスタークは吐き捨てるように言った。
「肝心の“ソレータルの夜空”を西の蛮族どもに奪われた、などと、ふざけたことを。いまさら手放すことが惜しくなったのか。そうであれば、何と不誠実なことよ」
「それは」
違います、とフレイヤは言おうとした。
アステリオ家の家宝たる“ソレータルの夜空”が、自領から王都へと運ばれてくる途中で賊の襲撃を受けて奪われたのは紛れもない事実だった。
だがフレイヤの言葉は、エルスタークに遮られた。
「それとも、本当に奪われたのか。そうであれば、何たる無能」
刺すような言葉に、フレイヤは押し黙るしかなかった。
「私が“ソレータルの夜空”を持たぬそなたと結婚する理由は、何一つない」
その通りだった。
エルスタークの言うことは、間違っていない。
だが、実際に面と向かって口にされると、何と惨めなことか。
そして、それは今この場で言われなければならないことなのか。パーティに参加している並み居る貴族たちの面前で。
「私から話すことはそれだけだ」
エルスタークはそう言うと、最後通牒のようにフレイヤに言葉を叩きつけた。
「正式な通達が、今頃もうそなたの屋敷にも届いていよう。結婚の約定を破ったのはそなたの家の方だ。破棄に異論は認めぬ。分かったならば、返事をせよ。そしてその辛気臭い顔をこれ以上私に見せるな」
フレイヤは短く息を吐き、押し寄せてきた感情を己の内に留めた。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、静まり返った会場。
その場の全員の視線が自分の剥き出しの背中に注がれているのを感じながら、フレイヤは顔を伏せた。
「エルスターク様のご意向、確かに承りました」
そう言ってドレスの裾を摘まみ、膝を折る。
エルスタークは冷たい目で彼女を見下ろしたまま、吐き捨てるように言った。
「田舎育ちの山猿が。二度と分不相応な望みを抱くな」
フレイヤは何も答えず、もう一度膝を折る。
これ以上、この場に留まるわけにはいかなかった。
そのまま会場を後にする彼女を見る人々の目には、いくらかの同情も含まれてはいたが、ほとんどは好奇と侮蔑の視線だった。
アステリオ家の没落は、これで決定的だぞ。
分をわきまえて、ゴルルパの蛮族どもの相手をしていればよかったのだ。
それでは、エルスターク王子の新たなお相手はどうなる。
まだパーティは続いているのだ。これは早い者勝ちではないか。
我が娘を、王子のおそばに。
あんな女に騙されかけて、お可哀想な王子様。わたくしが慰めて差し上げませねば。
彼らの心の中のそんな言葉が聞こえてくる気がした。
空席となった第二王子の婚約者の座を巡って、俄然、宴席が熱を帯びる中、フレイヤは一人その場を去った。
後に従うのは、侍女のミリアただ一人であった。
王宮から屋敷へと戻る、帰りの馬車の中。
夜はまだまだこれからという時刻であったが、もうここには用はなかった。
あまりに早い帰りに、他の御者仲間たちと一杯ひっかけようとでも思っていたらしい御者のグリンは当てが外れたような顔をした。
揺れる馬車の中で外の闇に目を向けながら、フレイヤは考えていた。
エルスタークの言ったことが本当なら、今頃、屋敷にも婚約破棄の通達が届いているはずだ。
それを見た父は、ひっくり返るだろう。
婚約破棄を告げるのであれば、その通達だけで十分なのだ。だが、エルスタークはわざわざパーティの席で、衆人環視の中、フレイヤに直接、婚約破棄を告げた。
よほど腹に据えかねたということだろう。
フレイヤは、どこか他人事のように考える。
元々、感情を抑えるのが苦手そうなお方ではあった。苛立ちを己の中で消化できぬお人なのだ。
だから王子には感情をぶつける先が必要だったのだ。
だが、それだけではないだろう。
王子にあれだけの振る舞いをさせたその一番の原因は、やはり“ソレータルの夜空”。
エルスタークは本当にあれがどうしても欲しかったのだ。
だからこそ、今回の不手際に怒り狂ったのだ。
「お可哀想な、お嬢様」
フレイヤがあまりに黙りこくっていたせいであろう。
隣に座る侍女のミリアが、両膝の上で重ねていたフレイヤの両手に、そっと自分の手を重ねた。
「大丈夫でございます。お嬢様ほどのお美しい方でしたら、王家とは言わなくとも、どこかきっと良い家との縁談がございます」
ミリアは声を励ました。
そうだろうか。
フレイヤは思う。
満座の人々の前で、王子の激しい怒りを買った女をわざわざ妻にと望む家が、果たしてあるだろうか。
エルスタークの仕打ちには、きっとその辺りの思惑も含まれているのだろう。
自分に恥をかかせた(と彼が思い込んでいる)相手を決して許すことはできない、ぬけぬけと別の家になど嫁がせはしない、と。
それに、美しいだけの女など、この王都にはいくらでもいる。美貌だけではだめなのだ。そこに何か、さらなる付加価値がなければ。
「そうだといいわね」
だが、フレイヤはそう言ってミリアに微笑んでみせた。
それから、再び外の景色に目を向ける。
馬車は王都の中心地を抜け、郊外に差し掛かっていた。
灯の数が減り、馬車は闇の中を走っていた。
今夜は、月もないのだ。
そんなことに、フレイヤは改めて気付く。
かつてフレイヤの夜は、常に月の光とともにあったのに。
不意に、馬車の外に一人の男の姿が浮かび上がった。
貧しい身なりのその男は、道の脇で火を焚いていた。
頼りない炎に照らされて、見知らぬ男の髭面が濃い陰影を作っていた。
ただ、それだけの光景だった。
馬車は一瞬ですれ違い、男の姿は見えなくなった。
だがその光景は、フレイヤの心を強く掴んだ。
自分もあんな風に炎を見つめていたことがある。そう思った。
闇の中、揺らめく炎をただじっと見つめていたことが。
王都で何もかも全てを失おうとしている今だからこそ、そう感じたのかもしれない。
西の果ての、彼女の生まれ故郷、シェナイ。
どこまでも続く草原。馬のいななきと、弓の弦の音。
野営地に吹き渡る、冷たい風。
狼の遠吠え。
焚火の炎。その熱さ。
ああ。
フレイヤは深い息を吐いた。
その全てが懐かしかった。
それとともに実感する。
自分がどれだけ無理をして、似合わないことをしていたのか。
父の苦境を救うためと自分に言い聞かせ、必死に身に着けた立ち居振る舞いや言葉遣い。しきたり。マナー。教養。
家庭教師から、どこへ出しても恥ずかしくないと認めさせるほどに努力をした。
だがその日々も、今夜、破綻した。
何と不毛な三年間であったことか。
私は一体、何をしていたのだろう。
王都での虚しい苦闘を思い、フレイヤは外を見つめたまま、静かに涙を流した。
屋敷に戻ると、それを待ち構えていたかのように老執事のエスコットが飛んできた。
「お嬢様、大変でございます」
「分かっています」
努めて冷静に、フレイヤは答えた。
「手紙が届いたのでしょう」
「は、はい」
「父上は?」
「それが」
エスコットは言い淀んだ。
「手紙をご覧になってから、急に御気分がすぐれなくなり、今は床に臥せっておられます」
「そう」
フレイヤは頷く。
失敗したからといって、命を取られるわけでもないのに。ゴルルパ族の天敵として、勇名をほしいままにした猛将ヴォイド・アステリオともあろう方が。
かつての父の勇姿を思い、フレイヤは唇を噛んだ。
父上。やはりこの王都は、あなたの生きる土地ではなかったのです。
「義母上は?」
そう尋ねると、老爺はこれも言いにくそうに顔をしかめる。
「奥様は、ご実家にお戻りに」
「分かりました」
フレイヤは頷いた。
それも予想の出来たことだ。
王家との婚姻が破綻した今となっては、義母のルーシアがこの家に留まる理由は何一つとしてなかった。
「着替えてきます」
フレイヤはエスコットに言った。
「話は、その後で」
まだ何か言いたげなエスコットにそう言い残し、フレイヤは、まっすぐに自室に戻った。
後に従っていたミリアがドアを閉めると、フレイヤは窮屈なドレスをその場で乱暴に脱ぎ捨てた。ミリアが驚いたように声を上げる。
「お嬢様、そのような御振る舞いは」
そう。こんなはしたないことは、絶対にしてはいけない。
それはこの王都での三年間で、身体にも心にもみっちりと叩きこんできたこと。
けれど。
下着姿のフレイヤが、部屋の奥から古びた木箱を引っ張り出してくるのを見て、ミリアは目を丸くした。
「その箱。まだお持ちだったのでございますか」
それに答えず、フレイヤは木箱の蓋に手をかけた。
くすんだ木の蓋は、まるで封印でもされているかのように重かった。
それがこの三年間の重さだ、とフレイヤは思った。
けれど、もう開ける時が来たのだ。
力任せに蓋を持ち上げると、黴くさい臭いが箱から溢れた。
そうよね。放っておいて、ごめんなさい。
フレイヤは思った。
この王都で、私の魂もきっとあなたと同じように黴に埋もれてしまっていたのだわ。
箱の中に両手を突っ込み、中に収められていた一着の服を持ち上げる。
武骨な革の騎乗服。
それに触れただけで、かつての猛々しい自分が蘇ってくる気がした。
誇り高きアステリオ騎兵の装備。
騎馬民族たるゴルルパ族を完膚なきまでに打ち破り、彼らにその精強さを知らしめた西の精鋭の証。
「ミリア、ごめんなさい」
フレイヤは言った。
「王都のご令嬢は、今日でおしまいにするわ」
ミリアはすでに泣き出し始めていた。
「お嬢様」
涙声で、ミリアは言った。
「どうなさるおつもりなのです」
「私は、私の手で取り戻さなきゃならないの。奪われたものを」
まだ涙も乾かぬフレイヤの目が、強い光を宿していた。
私が今日奪われたのは、王子の婚約者の地位だけではない。
フレイヤはそれを理解していた。
本当に奪われたのは、尊厳と魂。
奪われたものは、自分の手で取り戻さなければならない。
泣いていたって、誰も代わりに取り返してなどくれないのだから。
だから、私は一つずつ取り戻す。
勇敢なるアステリオ騎兵の名に懸けて。