元婚約者
宿屋の支配人と料理人を対象に瓶詰保存食の作り方について教えた。
以前のようにお店と冒険者の間でトラブルが起きないよう安全な保存食であることを示すマークが印刷されたタグを作成して、ちゃんと売上から情報提供料を支払っている限り販売用のタグを支給する仕組みだ。冒険者ギルドにも、安全な保存食にはこのタグがついていると通知されている。
クレアの姿を見て信用できるのかと怪しむ人間もいたが、作り方の講習会は商業ギルド主宰のため表立って感じの悪い人間はいなかった。そのため規模の小さな個人経営店は1%、系列店を持つような店は2%で契約した。
各店で特色を出すためお店の名物を保存食にするだけでなく、冒険者だけでなくお土産としても販売して町起こしにしてはどうかと、クレア一人では思い付かない案も出た。
クレアの家と同じように製造したとして、15万ゴールドの1%でも1500ゴールド。個人経営が8店、大きな店が3店、この町だけで月2万ゴールドは見込める。日本円で20万と考えると、経費のタグ代を引いても中々良い収入である。大きな店からは他のダンジョンそばの店舗でも販売したいと打診されているので、今後も収入は増え続けるだろう。
これが噂の知識無双かと思いつつ、最初に情報提供しただけで毎月お金が入る仕組みを提案してくれたギルド長には感謝しかない。腹立つちょび髭って思って申し訳なかったなと心を改めた。
タグ作りは孤児院に内職を依頼し、クレアは決まった数のタグを届ける以外に仕事は増えていないので宿屋の仕事をいつも通りこなしていた。
他の店舗で無事に試作を終えて、瓶詰保存食の販売が決定したという話が出てからは毎日満員御礼だった宿屋の仕事に余裕が出てきた。宿泊予約特典で試作品プレゼントを行う宿屋にお客さんが流れてしまったのだ。
あの契約をした日から、もう3ヶ月が過ぎた。保存食の販売を始める前からの常連さんの予約が多くなった予約者名簿に初めてみる名前を見つけた。
「ヴィンセント」
支払いは冒険者ギルドへの請求になっているので、信用できる冒険者なのだろう。初めてのお客様だろうから、丁寧な接客をしなければと気を引き締める。
その日、残暑でまだまだ明るい夜七時に、こんな個人経営の宿屋に似つかわしくない客が訪れた。紺色に近い深い青色の髪と瞳、180センチほどありそうな身長に適度に引き締まった体。若く20歳ほどに見えるが装備品も高価そうで、こんなその日暮らしが多い安い宿には場違いだ。
そして、顔を見て呆然とした。髪の色が違っても彼の姿は、顔は、どう見ても前世の婚約者だった。
「宿屋朧月のクレアさんですか?」
受付にいるクレアに声をかける。看護師の彼が患者さんにする穏やかな話し方に、落ち着いた声まで同じだった。
「……?あの」
「あっ、す、すみません。はい。宿屋朧月のクレアです。ご予約のお客様でしょうか?」
「ヴィンセントで予約してます。ギルドからの指名依頼で、風と氷魔法が使えるため派遣されました」
そこで合点がいった。風と氷魔法が使える信用できる人間に協力して欲しいと頼み、3ヶ月後になるとあのときヒルデが話していたのはこの人だ。事前に名前くらい教えてくれていればいいものを。
「クレアさんはお店の仕事もありますから、協力が終わるまで宿に滞在させていただきますので、いつでも呼んで下さい。宿泊費はすべてギルドが支払います」
「そうだったんですね。すみません、事前に聞いてなくて」
「それは、こちらこそすみません。ギルドに伝えときます」
「今日はもう遅いので、ゆっくり休んで下さい。詳しいことは明日の午後にお話ししましょう。館内の説明をしますね」
初めてのお客さんにするいつもの説明。動揺が、跳ね上がる心音が、どうか彼に伝わりませんように。
「説明は以上です。では、お部屋にご案内しますね。お荷物お持ちします」
「荷物は自分で持ちます。危ない物もあるので」
「かしこまりました」
1人用の角部屋に案内し、すぐお食事をお持ちしますと伝えて部屋を出た。
なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで!!
どう見ても彼は婚約者だった。
彼も生まれ変わったのだろうか。だがクレアの姿は前世とは異なる。たまたま彼と同じような姿の人に遭遇するなんて、どんな確率なのか。
ヴィンセントの姿を見て、より鮮明に前世を思い出した。
彼の穏やかな話し方が好きだった。
声を聞くだけで落ち着けた。ただ一緒にいるだけで良かった。結婚の約束もしていたのに、私が死んでしまった。残された彼はどうなったんだろう。しばらく悲しむとは思うけれど、その後幸せに生きてくれただろうか。今さらどうしようもない思考が頭を駆け巡る。
食事を渡しに行くとヴィンセントはクレアを見て驚いた様子だった。
「クレアさん、かなり顔色が悪いですよ。貴女こそ休んだ方がいい。人を呼んできますから休んで下さい」
ヴィンセントはクレアをベッドに寝かせて人を呼びに行った。
「自分だって疲れてるはずなのに、人の体調にはすぐ気がつく。そんなとこまで……」
彼にそっくりだ。
いつの間にか泣いていたクレアは、そのまま気を失うように眠った。